2021/10/05

大島恋歌

大島恋歌


山口県光市の教育委員会関連の研究論文(55-09)に、《同和問題関係史料取扱いについて》という文章があります。


その冒頭部分で、「被差別地区住民の歴史資料は・・・苦悩の実態であり屈辱の歴史なのである」と記されています。また、本文中においても、「被差別部落住民に関する歴史資料は・・・苦悩の記録であり、耐え難い歴史なのである」、と再度記述されています。

しかし、私は、聴きたい・・・。

本当に被差別部落の人々の歴史は、触れてはならない、「苦悩の実態」・「屈辱の歴史」・「苦悩の記録」・「耐え難い歴史」なのでしょうか。そこにあるのは、影の世界、闇の世界だけであって、光や希望の世界はないのでしょうか。

わたしは、決して、そうは思わないのです。

光市教育委員会がいう、「苦悩の実態」・「屈辱の歴史」・「苦悩の記録」・「耐え難い歴史」ということばを連ねる論文には、このような史料が掲載されています。

(史料)
「大島郡M村、茶筅彦右衛門次男、浅兵衛、平人の娘と馴れ合い、あまつさえ、仲間の者多人数へ乱暴せしめ候趣に付遠島。同断、懸り合い、K村百姓孫兵衛りんこと、茶筅浅兵衛の父、彦右衛門へ引き渡し仰付られ、以来平人に立ち戻り候に於いては重く相咎めらるべく断、沙汰仰付られ・・・」

その史料に対して、光市教育委員会は次のような解釈をほどこしています。

(光市教育委員会の解釈)
「これは・・・茶筅の浅兵衛がK村(隣村)の百姓娘りんと「馴れ合い」で、仲間の者多人数へ乱暴し、事件が明るみに出た。そして、K村の百姓りんは、父浅兵衛に身柄を渡され「以来平人に立ち戻るにおいては重く相咎め」とあって、茶筅身分に落とされているのである」。

この史料を筆者が、『部落学序説』の立場から解釈しますと、この話は、百姓の娘りんに焦点をあてて読むことになります。

「りんは、浅兵衛が、十手を預かる役人であることを知っていました。当時の習俗では、茶筅は、近世幕藩体制かの司法・警察である穢多身分で、15歳を過ぎると、家業を継いで、十手持ちの訓練をうけなければなりませんでした。15歳になると、子どもの頃一緒にあそんだ、百姓や町人出身の幼なじみとも別れをつげ、村の治安を守る警察職務に従事しなければなりませんでした。職務に関することは、たとえそれが幼なじみであったとしても漏洩することは禁止されていました。穢多身分は、その職務の遂行上、百姓とは別火・別婚の掟に従っていました。しかし、百姓の娘りんは、あるときから、隣村の青年、茶筅の浅兵衛が好きになりました。浅兵衛も、百姓の娘と知りつつ、りんが好きになり、ふたりは、人目をしのんで合いびきをするようになりました。それを、仲間の茶筅にからかわれた浅兵衛は彼らとけんかをするはめになりました。しかし、多勢に無勢、浅兵衛は、仲間の茶筅たちによって、海に投げ落とされてしまいました・・・。そんな話が、奉行に伝わり、浅兵衛と百姓の娘りんは、奉行所でお取り調べを受けることになりました。奉行は、百姓娘りんの、茶筅浅兵衛に対する愛の深いことを知って、無理やりに両者を引き裂くと、百姓娘りんは、世をはかなんで死んでしまうかもしれない・・・と思うようになりました。それは、不憫極まりない・・・と思った奉行は、百姓娘りんの決意を確かめたうえで、判決を言い渡しました。「百姓の娘・りんが、茶筅・浅兵衛と交わるは決して許されるものではない。よって、百姓の娘りんに厳罰を言い渡す。百姓の娘・りんを茶筅浅兵衛の父、彦右衛門預けとする。以降は、百姓の娘であることを捨て、十手持ち、茶筅浅兵衛の女房としてその職務を支えるよう。茶筅・浅兵衛がお仕置きを終えて遠島から帰ってくるまで、義父彦右衛門のもとで、茶筅の女房として必要なことを学ぶがよい・・・」。茶筅・浅兵衛と百姓の娘・りんは奉行の前で、その裁きに感謝して、深くあたまをさげました。娘りんの行く末を心配していた、奉行の御裁定を見守っていた父の百姓・孫兵衛も、浅兵衛の父茶筅・彦右衛門も、奉行の寛大な裁きに深く感謝した・・・(時代劇の見過ぎかもしれませんが・・・)。そう解釈しますと、この事件は、被差別部落の人が受けた屈辱の判決、百姓の娘りんが、賤しい茶筅身分に落とされたひどい差別的な判決ではなく、人情味溢れる奉行が作り出した「大島恋歌」であると思われます。

私は、差別問題に触れるとき、この話をよくいたします。

ひとつのできごとをどう解釈するのか、それは、解釈者がどの立場に立って、そのできごとを眺めるかによって大きく異なってきます。「差別(真)」・「被差別(偽)」・「被差別(真)」・「差別(偽)」のいずれにたってできごとをみるかによって、解釈も大きく異なってくるのです。

日本の歴史学に内在する差別思想である賤民史観の立場に立つ光市教育委員会の解釈もひとつの解釈かもしれませんが、『部落学序説』の視角・視点・視座からみた、筆者の解釈も捨て難い解釈のひとつではないかと思っています。私は、被差別部落に関する資料をみるとき、「差別(真)」と「百姓」の立場から、その史料・伝承を解析することにしているのです。

学者や研究者、教育者からは、「この文献から、どうして、そんな解釈を引き出すの? おかしいんじゃないの?
あなたは、部落差別の厳しさを全然認識していない!」とお叱りを受けるかもしれません。いままでに、何度もそのような反応に接したことがあります。

しかし、私の感性では、奉行が、百姓の娘・りんに対しても、二人が二度と再会することができないように、浅兵衛とは違う場所へ遠島を言い渡すこともできたはずですが、こともあろうに、奉行は、好きになった相手の父親に預けるという予想外の判決を出しているという一点から、上記の解釈に思い至ったのです。

山口に赴任してきたとき、私が最初に図書館で調べていたのは、キリシタン弾圧の歴史と観音信仰の歴史でした。それにまつわる名所旧跡を尋ね、図書館で史料を漁っていました。世の中から見捨てられた人々の歴史の足跡を尋ねていたのです。

光市の室積の象鼻ヶ崎に、小さなお堂があって、その境内に、「遊女の碑」があります。

知人と写真を撮りに行ったとき、浜辺には、真っ赤な椿の花が散っていました。私の目には、遊女の悲哀をいまに伝えているように見えて、その象鼻ヶ崎の真言宗のお堂から、同じ、真言宗の、観音菩薩の浄土と言われる周防国極楽寺への旅をしたのです。中世の天皇勅願寺の寺は、尋ねる人も少なく、蝉時雨の静けさの中に建っていましたが、名所旧跡も、尋ねる人、それぞれに異なる姿を見せてくれます。観音菩薩は、巡礼をする人と同じ姿をとって現れるというのは、本当かもしれません。学歴もなく、資格もなく、ただ、山口の地に棲息しているだけの私は、今も、史料や文献の中に出てくる伝承を尋ね、こころの旅を続けているのです。

『部落学序説』の筆者である私のペンネームは「吉田向学」です。私の曾祖父(江戸時代に生まれ明治時代に世を去った)の名前です。江戸時代末期から明治初期を生き抜いた曾祖父の名前は、向学、祖父は、永学。先祖は、みんな、その名前のどこかに「学」という字が組み込まれていますが、信州(長野県)の熱心な神道の支持者であったようです。百姓の家系なので、みんな無学で、ただのひとです。

百姓の末裔が、百姓の目で、近世・近代・現代という歴史の諸相をみることに何の不自然さもありません。逆に、「藩士」・「士雇」・「穢多」・「非人」の目で、近世・近代・現代という歴史の諸相をみることには、どことなく、違和感がつきまといます。何か詐欺師になったような感じ・・・。ですから、『部落学序説』の筆者である私は、「われここに立つ!」という思いを大切にしているのです。

0 件のコメント:

コメントを投稿

『部落学序説』関連ブログ群を再掲・・・

Nothing is unclean in itself, but it is unclean for anyone who thinks it unclean.(NSRV)  それ自身穢れているものは何もない。穢れていると思っている人にとってだけ穢れている(英訳聖書)。 200...