2021/10/03

幕府とキリシタン弾圧

幕府とキリシタン弾圧


徐々にアクセス数が増加傾向にあった『部落学序説』ですが、島崎藤村と『破戒』について論じたあたりから、逆にア クセス数が減少傾向にあります。穢多とキリシタンについて言及をはじめると、さらに減少傾向が強まりました。

筆者が所属する教団の「先輩」たちは、『部落学序説』は、「知り得たことを羅列しているに過ぎない。評価の対象になる新しさは何もない。」といいます。

確かに、この『部落学序説』で引用している文献は、最初から明言しているとおり、徳山市立図書館の郷土史料室の蔵書と筆者が近くの書店で偶然買い求めた新書や文庫等です。その気になれば、誰でも簡単に入手できる資料のみで構成していますので、「先輩」たちの批判も必ずしも否定できないものがあります。

山口県の被差別部落の固有の史料や資料については、被差別部落の側からの要望で、この『部落学序説』では、一切触れないことにしています。今回だけでなく、今後も触れることはありませんが、そういう意味では、筆者の『部落学序説』から、何か新しい資料を求められても、「そのようなものは最初から何もありません・・・」とお答えすることしかできません。

これまで『部落学序説』を読んでくださった方は、既にお分かりのように、この「論文」は、これまで研究されてきた、部落研究・部落問題研究・部落史研究の成果を比較検証しながら、歴史学、社会学・地理学、宗教学、民俗学等の個別科学研究の「総合」を試みるものです。個別科学研究の単なる累積や一覧表の作成に終わらないで、総合作業をすることで、「非常民の学としての部落学構築を目指して」既存の個別科学研究の「総合」の試論として執筆されるものです。

筆者は、宗教者で、どちらかいうと時代の潮流とはまったく無縁な存在です。

どちらかいうとカトリックの「労働司祭」のようなところがあって、山口の地に来て二十数年、本業とはまったく関係のない副業をもって生活してきました。42歳のとき、システムエンジニアの企業資格をとり、50歳のとき、職業訓練校の情報処理の講師をしていたとき、受講生を指導しながら、受講生と一緒に、情報処理技術者試験のシスアドと第二種をとりました。

『部落学序説』執筆のための準備作業と比較したら、情報処理関連の資格を取ることは、それほど難しいことではありませんでした。情報処理関連の処理は、基本的には2進法で、「真」と「偽」しかありません。プログラムを書くときに、一箇所でも「真」と「偽」を間違うと、プログラム実行時、エラーを発生するか、システムそのものがハングアップしてしまいます。他者から少々批判があっても、要するに、正常に作動すれば、問題はクリアされます。しかし、「部落学」の場合は、そんなに簡単にはいきません。なぜなら、様々な学閥や学派が存在し、多種多様な見解が雑居しているからです。部落研究・部落問題研究・部落史研究の研究者の論文や書籍を5、6人分集めて比較・検証すればすぐに確認することができます。それらの研究成果が、如何に研究者の恣意によって左右されているかを・・・。時には、相反する、矛盾する見解が雑居しているような論文も存在しているのです。

部落研究・部落問題研究・部落史研究の場合、「真」と「偽」は複雑に絡み合っていて、単純化することができません。限りなく「偽」であっても、若干「真」を含んでいれば、それなりに評価されます。逆に、限りなく「真」であっても、若干「偽」であれば、その論文の価値が全面否定される場合もあります。

情報処理の世界と違って、部落研究・部落問題研究・部落史研究の世界は常にあいまいさがつきまとうのです。「論理」ではなく、研究者や運動団体の「情緒」によって支配される傾向があります。

筆者が、部落研究・部落問題研究・部落史研究の研究者の姿勢とその成果に疑問をもちはじめたのは、その研究成果にまとわりつく研究者の「恣意性」にあります。筆者は、部落研究・部落問題研究・部落史研究の成果が、研究者の恣意に大きく影響されているということは、その研究そのものに大きな瑕疵があると考えました。そして、ひとりひとりの研究者の研究方法と研究成果を比較・検証をするようになり、学的にはまったくの素人であることを自覚しなから、その結果として、「非常民の学としての部落学構築」を指向するようになったのです。

今回は、穢多とキリシタンの5回目ですが、部落研究・部落問題研究・部落史研究の専門家ではない筆者には、「穢多とキリシタン」問題について、現在、その研究の最前線でどのような研究がなされているのか、知るよしもありません。筆者が想定するよりも、研究が進んでいて、筆者の論点は既に過去のものになっている可能性も多分にあります。

しかし、筆者は、「文献も出会いのひとつ・・・」と割り切って考えていますので、手元にある若干の資料から論じることになります。

昨日、近くの書店でみつけた成松佐恵子著『庄屋日記による江戸の世相と暮らし』(ミネルヴァ書房)は、2000年に発行されたものですが、筆者が入手したのは発行から5年後のことになります。このことからしても、筆者の研究方法は、偶然に左右される、実に遅々たる歩みでしかないことがわかります。

成松佐恵子著『庄屋日記による江戸の世相と暮らし』は、「非常民」である「村役人」の目から見た「穢多」(番人)の姿を知る上で、貴重な論文です。「非常」というのは、あくまで「非常」で、人生において、そんなに数多く経験できる類のものではありません。多くの「非常民」は、「非常」に遭遇しないで自分の一生を終える場合も少なくなかったのではないかと思います。この庄屋日記に関する論文は、美濃の国(岐阜県)の、限りなく「非常」から遠い、平穏無事な生涯をたどった庄屋の記録とそれに関する研究です。

58歳になったいまも、この種の本にであうと、こころ踊るものがあります。

『庄屋日記による江戸の世相と暮らし』は、キリシタン弾圧の狂気の嵐が過ぎ去ったあとの、そして人々の記憶から、あの残忍さが忘れ去られた時代の近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての「村役人」や「穢多」の実際の姿を知ることができる貴重な論文のひとつです。筆者の「非常民」理解は、部落史とは直接関係がない一般史からより多くの影響を受けています。渡辺尚志著『江戸時代の村人たち』(山川出版社)、田中圭一著『百姓の江戸時代』・『村から見た日本史』(ちくま新書)から、近世幕藩体制下の村とその法システムや政治システムを考察する際のイメージを構成しています。

穢多とキリシタンについて、『明治維新と部落解放令』の著者・石尾芳久は、2、3の論文を紹介しています。

ひとつは、藤木喜一郎の《大坂町奉行管下に於ける司法警察制度について》です。石尾によると、藤木は、「大坂四ヶ所非人に転びキリシタンが多いこと(しかも長吏頭のものが多い)に注目」して、「キリシタンであった者が「検挙されて転宗し、非人に身分を落され」た者があったという指摘」をしているそうです。

それに対して、岡本良一は『乱・一揆・非人』の中で、「転宗の結果として非人におとされたのではなく、非人にはもともとキリシタンが多かったのではあるまいか。」と主張しているそうです。

『明治維新と部落解放令』は、1988年発行ですから、現在、「穢多とキリシタン」問題に関する研究が、どのように展開されたのか、筆者は、ほとんど資料を持ち合わせていません。部落研究・部落問題研究・部落史研究の研究過程を追跡する時間的ゆとりも経済的なゆとりももちあわせていません。

そこで、筆者は、手元にある資料の「精読」という手段を通じてのみ、必要な資料を抽出します。

幕府は、悲惨極まりない刑罰によってもキリシタンの伝播を防ぐことができないと悟った幕府は、キリシタン弾圧に対してその方針の変更を余儀なくされます。『切支丹風土記』に、小石川切支丹屋敷についてこのように記されています。

「井上筑後守がその小石川下屋敷を改造して牢長屋とし、これに主としてころび信徒を収容、全く世間から遠ざけて幽閉し、世人をして以後切支丹召捕・拷問・処刑等のことを忘れさせようとした試みは、江戸切支丹処置の一特徴として注意すべきことである」(内山善一)。

幕府は、「士農工商」の間にキリスト教が伝播されるのを予防するために、キリシタンの公開処刑を実施しましたが、幕府はやがて、そのようなハードな糾弾・弾圧政策から、キリシタンとその糾弾・弾圧問題そのものを社会的に隠蔽する方向へと傾いていきます。

幕府は、江戸・小石川に切支丹屋敷を設置しました。幕府の切支丹弾圧の目付である井上正重(1585-1661)の屋敷で、切支丹屋敷をとりまく塀は、10尺という異常な高さであったといわれます。切支丹屋敷を一般社会から隔離するための、宗教的思想犯を収容する監獄であったのでしょう。

江戸の庶民の目から、キリシタンに対する糾弾や弾圧のおぞましい光景が隠されていきます。その結果、江戸の庶民の目には、切支丹屋敷ですら、単なる「不気味な場所」として受け止められていくようになります。幕府によって、キリシタン糾弾と弾圧の情報操作によって、江戸の庶民の目には、キリシタン屋敷は、高い壁に囲まれた別な世界として認識されるようになっていきます。

この切支丹屋敷には、牢舎・倉庫・番所がありました。この牢舎には、キリシタンだけでなく、宗門改役の「同心」の犯罪者も収容されたといいます。筆者の手元にある資料だけでは、その「同心」の犯罪が、一般的な犯罪なのか、それとも宗教的・思想的な犯罪なのか、知るよしもありませんが、切支丹屋敷の中での糾弾・弾圧は、完全に、幕府による報道管制下にありました。

このキリシタン屋敷で起こったできごとをてがかりに、「穢多」と「キリシタン」の関係について若干考察を試みてみましょう。

その資料は、岩波文庫の、新井白石著・村岡典嗣校訂『西洋紀聞』です。この岩波文庫版『西洋紀聞』は、「巻上」・「巻中」・「巻下」・「西洋紀聞付録」とから構成されています。特に、「西洋紀聞付録」に収められた26にのぼる関連史料は、『西洋紀聞』の研究にとって必須の史料群です。

近世幕藩体制下の「穢多」に関する研究成果の通説として、一般的に、「穢多」制度の確立時期として、島原の乱前後が想定されています。そして、その制度が一応の完成をみて、その宗教警察を含む司法・警察機能がより強化されるのが、「元禄・享保年間」(18世紀前半)であると言われます。

筆者は、「元禄・享保年間」という言葉を目にしたとき、「なぜ、その間の「正徳」を省略するのか・・・」と不思議に思いました。部落史の研究者は、「正徳」を意図的に隠そうとしているのではないか・・・、そのように思わされました。その「正徳」年間に、幕府の「キリシタン」政策にとって重要な事件が発生していたからです。その事件をきっかけに、江戸の庶民によって忘却されつつあったキリシタン糾弾・弾圧政策が再び息吹を取り戻し、全国に散在する、宗教警察機能を持つ「穢多」制度の粛清と強化がはじまったからです。「穢多呼称」統一は、正徳3年のことです。「穢多」に対して、「御国法を守る」べきことが通達されます。

日本の歴史学上の差別思想である「賤民史観」の虜となっている部落史の研究者は、その時代を、「穢多・非人」に対する封建的身分差別が強化された時代として受け止めます。幕府の「穢多」に対する管理強化を、上記の意図でとらえることができない研究者は、「穢多」の衣食住に関する風俗の取締りを、穢多に対する差別として受け止めます。

筆者は、「穢多」の風俗(衣類・髪型等)に関する取締りは、近世幕藩体制下の司法・警察としての「非常民」の、幕府による管理強化として受け止めますが、「賤民史観」に立つ多くの研究者は、「穢多」に対する差別強化として受け止めます。

「穢多」の歴史を考察するとき、「穢多呼称」統一が行われ、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」の組織・機能の強化、その一貫としての、庄屋等「村役人」や「穢多」に対する管理強化の原因となった、「正徳」の事件は正当に評価されなければならないと思っています。過大評価することもなく過小評価することもなく・・・。

それは、幕府と諸藩の「武士」や「百姓」が、キリシタン糾弾や弾圧にまつわる、凄惨なできごとを忘却しつつあった時代に、突如、頭に髷を結い、額を月代に剃り、袴を身につけて、武士の身なりで大隅国の屋久島にひとりの宣教師が潜入してきたことに端を発します。

彼の名前は、「当時40歳なる伊太利生まれの宣教師ジュアン・シドチ」です。彼は、それまでの宣教師と異なって、日本人の身なりで、日本語を話す宣教師として日本にやってきたのです。村岡によると、「単身生命を屠して絶東の異域に布教を志した偉僧」と「53歳のいきざかりを、非常な意気込を以て」「切支丹屋敷における・・・吟味」に当たった新井白石の出会いを記録したもの、それが『西洋紀聞』です。

この『西洋紀聞』を通して、当時、江戸の庶民が、キリシタン糾弾と弾圧の悲惨な経験を歴史のかなたにおいやり忘却していった時代、そして、江戸の庶民が、キリシタン屋敷を見ても、ただ「不気味な場所」としてしか目に映らなかった時代の、キリシタン屋敷の中で起こったできごとを見てみましょう。(次回続く)

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