2021/10/03

穢多の役務と家職 命題7と命題8

穢多の役務と家職 命題7と命題8


「部落学」構築に際して、無視できない論文集に、『部落史における東西・食肉と皮革』(全国部落史研究交流会編・ 解放出版社)があります。

この論文集は、史料集としても充実していて、「部落史」研究にとっても必須の資料であると思われます。その巻頭で、この論文集刊行の目的として、「全国の部落の多様性」を考慮して、「各地の部落史研究の問題意識や成果を交流し共有していくことの大切さ」を訴えています。

ややともすると、東日本と西日本の「部落」の違いが指摘されがちですが、近世幕藩体制下の「穢多・非人」を、近世司法・警察である「非常・民」として位置づけて解釈するときは、東日本と西日本の差異はそれほど大きなものではなく、その差異の多くは、「非常・民」という枠組みの中に吸収されてしまいます。

古代にあっては、天皇制支配の及ぶところ、中世・近世にあっては、武士支配の及ぶすべてのところ、日本の全国津々浦々に、農村・漁村・山村を問わず、少なくとも村落共同体があるところでは、その治安維持のために、「非常・民」の存在は欠かすことができないものであったと思われます。

その「非常・民」の役務を、具体的に誰が担っていたのかという点では、いろいろな呼称の違いがあります。江戸幕府は、「穢多」という概念にすべてを集約していく傾向にありますが、ひとつの概念について、ある藩で意味するところは、他藩では別様に解釈されている場合も少なくありません。

沖縄は、数多くの島々によって構成されています。

外的から、それぞれの島を守るためには、それぞれの島に、島を警固する「非常・民」の存在が必要不可欠です。沖縄の場合、どちらかいうと、中世の「非常・民」の役務と家職に類似していると思われます。「非常・民」に数えられている人々は、「百姓」の生活をしつつ、非常の時は、鍬や櫓を武器に代えて戦ったと思われます。武器を持って闘うことができる成人男性の3分の1に及ぶ人々が「非常・民」の役を担ったと思われます。

ただ、沖縄の人々は、「部落民」のプロトタプを明治後半以降の「特殊部落民」においているため、そのような存在は沖縄にはない・・・と主張しているようです。沖縄には、明治以降の「特殊部落民」のような存在はいませんでしたが、近世幕藩体制下の「非常・民」は確実に存在していたわけです。

これは、東北や北海道についても言えます。

近世司法・警察という「非常・民」を、どの身分が担っていたかを別にすると、農村・漁村・山村の治安を守る「非常・民」は、東北・北海道にも必要不可欠な存在でした。

北海道・函館藩ついても、「非常・民」は、長い間、司法・警察の役務は、軍事に携わる「非常・民」によって兼務されていました。

ところが、函館藩にしても、次第に、藩勢力が拡大して、組織と職務内容が多様化・複雑化していきますと、近世幕藩体制下の司法・警察の職務遂行に必要な高度な専門知識や技術が必要になります。武士による司法・警察の兼務というのは遅かれ早かれ限界がやってきます。

函館藩は、幕府に、「穢多」の派遣を要請します。函館藩は、「穢多」を受け入れるに当たって、かなり、優遇措置を講じようとしますが、幕府は、他の藩の「穢多」と格差がでないように指示を出して、当時の辺境の地にあっても、「穢多」なる存在は全国一律の存在として対応しようとします。

筆者は、近世司法・警察である「非常・民」は全国に存在していたと判断します。

いずれの藩においても、治安の維持というのは、重要な政治上の課題ですから、「非常・民」を配置しない藩があったと考えることは困難です。

「穢多」の外延として、穢多・茶筅・宮番・非人・・・等、その他にも全国的にはいろいろな呼称でもって呼ばれた「非常・民」を数えることができます。東日本と西日本を区別しないで、幕藩体制下の共通の政治上の施策として、「非常・民」の存在を前提とするとき、東日本と西日本の「穢多」のあり方は、地域的な差異に過ぎなくなります。網野善彦が指摘するほど、「非常・民」のあり方に違いがあったとは考えられません。役務の反対給付としての「家業」については、それぞれの地域で大きな違いがあったかもしれませんが、「役務」の内容については、ほとんど差はなかったと思われます。

幕府は、幕藩体制下の初期から、「浪人対策」・「切支丹対策」を「非常・民」が関与する、近世の司法・警察上の二大対策であると認識していました。幕藩体制下の体制批判に通じる浪人や切支丹に対する司法・警察上の追求は過酷なものがあったと思われます。

切支丹弾圧・・・、それが実施された地域には、必ず、宗教警察としての「非常・民」が配置されたと想定されます。

東日本と西日本の、「非常・民」という観点からの同質性について、『部落史における東西』という論文集(資料集といってもいい)は、貴重な研究成果を提供してくれます。

その中に収録されている論文に、大熊哲雄著《関東における旦那場》がありますが、「部落学」構築に際しては必須の文献です。大熊によると、その論文で取り上げた史料とその問題点は、「私にとって、研究課題として大きく立ちはだかっているものばかりである。今後、一つひとつを究明しながら、いくらかでも部落史の発展に寄与していければと念願している」といいます。

大熊の前に大きく立ちはだかっていることがらのひとつに、「穢多」が、「村方夜廻り」という役務を命じられた際に、「古来之職場四拾年先御前様江差上家業ニ離申候」との趣旨で、「新役義御免」被りたいと拒絶したという事件があります。

藩の方は、「穢多」が村の夜廻りをするのは、その身分上、当然であるという認識があったのかも知れませんが、藩に、「穢多」の「家業」である死牛馬処理の権利を返上してあるので、それを前提として課せられる、近世司法・警察の職務のひとつである郷中夜廻りという役務を引き受けることはできないというのです。

「賤民史観」の「あわれで、みじめで、気の毒な」存在としての「穢多」は、藩主から命ぜられると無条件に(たとえ無給であったとしても)その役務を担わなければならなかったと判断する傾向がありますが、大熊の論文の中にでてくる史料によると、「穢多」たちは、藩の命令を、その役務に見合う「家業」がないとの理由で拒絶しているのです。

このことは、代官所で裁判にかけられるのですが、判決は、「穢多」の言い分が通ります。
彼らに、死牛馬処理の権が戻され、彼らは、郷中夜廻りという「新役」に従事することになったというのです。

武士が、藩士としての「役務」に従事する代償として「給付」を受けるのと同じく、「穢多・非人」も、その「役務」に対する報償として「皮田」等を受領するのです。藩士が、藩主から解雇され藩士の地位を失うと、それまでの「給付」を失ってしまいます。そして、「給付」と共に、藩主に対する「服従」の義務も失ってしまいます。給付なければ服従なし・・・なのです。

武士だけでなく、「穢多・非人」についても同じことが言えるのです。

「皮田」をはじめとする「家業」を認められているからこそ、代官所の「役務」に従事するのであって、何らかの事情で「家業」が取り上げられた場合は、それと共にそれに見合う「役務」からも自由になります。それを拒絶しても、罪にはなりませんでした。

「穢多」の訴えを藩が認めたということは、近世幕藩体制下の「穢多」の存在は、日本歴史学上の差別思想である「賤民思想」が主張するような、「みじめで、あわれで、気の毒な」存在が、権力の前に、自らを卑しめ、その前に屈伏するような存在では決してないということです。「賤民史観」が描き出す像と、あまりにも異なる像を前にして、大熊は、「研究課題として大きく立ちはだかっている」ことがらとして、穢多による郷中夜廻り拒絶事件を受け止めておられるのかも知れません。

しかし、「非常民」の学としての「部落学」の立場からすると、この事件は、当然ありうべき事件として吸収していくことができます。それは、「非常・民」としての当然の権利であったと思われるし、「穢多」に対しても、「武士」同様、「役務」に見合う「家業」を保障しない限りは「役務」に従事させることができないという前提に立って、それ相応の配慮をするのが藩主の勤めであると考えられるからです。藩主は、「穢多」に法の執行と遵守を命じるわけですが、藩主自身も、同じ、その法に拘束されなければならないからです。近世幕藩体制下にあっても、法的手続きの不備は、事件の違法性を排除します。

長州藩においても、万治3年(1660年)、穢多による「牢番役拒否事件」というのがありました。北川健著《長州藩における賤民制の成立と確立-寛文元年牢番役拒否事件の歴史的前提-》という論文に紹介されています。

万治3年から翌年初頭にかけて、佐波郡南域で<牢番役拒否事件>が発生します。

数カ所の穢多村が連携して「牢番役返上の要求」を提出したのです。それに対して、藩は、穢多村から出されたこの要望を却下します。そして、「牢番役こそは穢多の役儀」と通告して、穢多村からの要望を封殺してしまいます。

北川は、まだ完全には捨て去っていない「賤民史観」に立って、「穢多」は、「牢番役という人民弾圧機構への隷属からの解放をみずから求めた」と説明します。北川は、「穢多」の側からの「抵抗と解放への指向」が「圧殺」されたと解釈します。

しかし、「部落学」の立場から考察すると、この<牢番役拒否事件>の中に、「抵抗と解放への指向」を読み取っていいのかどうか・・・。

近世幕藩体制下の「穢多・非人」は、幕府の体制が安定していく過程の中で、その職分が明確になってきます。「穢多」は「警察」に関した仕事、「非人」は「司法」に関した仕事と、その職務が細分化する傾向にあったと思われます。佐波の穢多たちは、自らの職務を遂行していく上で「警察」に重点を置いたと思われます。そして、「司法」に関する職務は、より専門的知識と技術を必要とするので、「非人」役が最適であると考えたのか知れません。藩は、切支丹弾圧のため、多忙な「非人」役の職務を分散すべく、「穢多」に「牢番役」を課したとも考えられます。

藩が、穢多に対して、「牢番役こそは穢多の役儀」と断定したのは、その役務に対応する「家業」(給付)が既に保障されていたためではないかと思います。長州藩は、近世初頭から、近世司法・警察である「非常・民」の再編を指向していたように思われます。それは、多様な形で存在する「非常・民」のシステムを簡素化することでありました。その政策は、やがて、すべての「非常・民」を「穢多」呼称に統一していきます。

長州藩の支藩である徳山藩は、「穢多・非人」の別を排除して、すべての近世司法・警察の職務を「穢多」に収斂させていきます。

ここで、第7・第8の命題を設定します。

【命題7】:穢多の役務は、その家職を前提としているが、穢多の役務の内容は、その家職によっては規定されない。

【命題8】:皮革(死牛馬処理)は、穢多の役務ではなく家職に過ぎない。

命題8については、山下隆章著≪近世讃岐における被差別民史の研究-高松藩を中心として≫に、皮革(死牛馬処理は「役ではなく生業と考える」とあります。鳴門教育大学大学院の修士論文の概要に記されていたことですが、注目すべき論文になります。

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