2021/10/03

徳山藩穢多による死刑執行

徳山藩穢多による死刑執行


幕府の第一次長州征伐を前に、徳山藩は、藩の進路をめぐって大きく揺り動きます。

幕府に恭順の意を示す「俗論派」は、倒幕を唱える「正義派」の若い藩士の暴発を機会に、倒幕を唱える藩士たちに対 して、徹底的な排除を目論みます。

七人の藩士のうち、児玉次郎彦と江村彦之進は、元治元年8月12日に、「俗論派」の藩士によって惨殺されます。

同年10月24日は、井上唯一と河田佳蔵は、取調を受けたのち浜崎の牢屋にある刑場で処刑されます。

そして、残る3人の藩士、浅見安之丞・本城清・信田作太夫は、翌年の慶応元年1月14日に海の上で処刑されます。このとき、処刑された徳山藩士・浅見安之丞は、『浅見安之丞獄中日記』を遺しています。また、浅見安之丞他2名の処刑については、4つの支藩を含む長州藩全体が、幕府に恭順を誓う「俗論派」を排除、倒幕を唱える「正義派」によって藩の対幕府の方針が集約されていく中で、「暗殺事件」として慶応元年の夏に、裁判が行われ、「暗殺事件」の真相が明らかになっていきます。

「暗殺事件」に触れる前に、『浅見安之丞獄中日記』に出てくる、徳山藩の「穢多」の姿を追ってみましょう。

徳山藩の穢多は、①犯罪者の探索(その対象は身分を選ばない)、②犯罪者の捕縛、③犯罪者の護送、④白州での犯罪者の確保(捕縛の縄をもって犯罪者の傍らに立つ)、⑤被害者の警固、⑥牢番、⑦入牢者の身体検査、⑧牢屋の外の見回り、⑨死刑執行・・・、近世司法警察の多様な職務に従事しています。

徳山藩は、「非人」役を置きませんでしたので、「穢多」が非人の役も兼務していました。

浅見安之丞は、穢多の名前を列挙しています。「上番」役は、滝蔵・兼五郎・兵吉・泉助・弥四郎・修次郎の6名。「添番」役は、徳山藩東穢多村から「交代出勤」(徳山藩の御法制では4名)。「小番」は、徳山藩の穢多村3箇所と本藩領穢多村3箇所より10日毎の替り出勤。近世の牢屋は、現代の刑務所と違って、「穢多」も「犯罪者」も顏と名前が明らかにされています。現代の刑務所では、「穢多」も「犯罪者」も、匿名という仮面で隠されていると思われます(刑務所に入ったことがないので推測に過ぎませんが・・・)。

浅見安之丞・本城清・信田作太夫の3名に対する処刑の子細は、『本城清・信田作太夫・浅見安之丞暗殺事件調書写』に、克明に描かれています。

当時43歳であった徳山検断・国光利兵衞は、「獄中暗殺之始末」についてこのように証言しています。

国光利兵衞は、事件のあった次の年の正月7日、8日頃、御役頭・中川修人宅に呼び出され、本城清・信田作太夫・浅見安之丞3名を「毒殺」せよとの命令を受けます。

国光は、上司の指示に従って、町医者をしている牢医(徳山藩の代々の牢医=穢多医)のところに行って、「毒味調合」を求めるのですが、牢医は、「医業ニ於て制禁之儀、医法ニ無之ニ付御断申上候」といって、毒殺のための毒薬を提供しようとはしませんでした。

検断の報告を聞いた「御役頭」は、「○○儀牢医の業家として奉行の差図不相用段不届之儀」と烈しく立腹したといいます。

9日、再度、牢医に、「薬味2品」の提出を求めます。

牢医は、不承不承、検断に、藩士毒殺用の薬品を差し出すことになります。検断が、その毒殺用の薬品を「御役頭」に届けると、このような指示を受けます。「この薬を牢屋番へ渡し、酒に入れて3名の者に飲ませるように」、命令を受けます。

検断は、「これまで、このようなことはありませんでした。番人共に命令しても、藩士3人を毒殺するようなことを引き受ける番人は誰もいないでしょう。この度の件は、幾重にもお断りいたします。」と、「御役頭」に3人の藩士毒殺を辞退するのですが、「御役頭」から、「検断の職分」であることを攻められ、その毒薬を牢屋に持って帰り、牢番である穢多の手に渡します。検断が、番人をしている穢多に、ことの子細を告げますと、穢多たちは、「どうしたらいいものか」と大いに戸惑ったといいます。

検断から押しつけられた、藩士3人の毒殺がどのように実施されたのか・・・。

あとで検断が穢多に報告を求めたところ、穢多はこのようにいうのです。「穢多の間で検討しましたが、与えられた毒薬の内、極少量だけを酒に混ぜて3人の藩士に飲ませました。残りは捨ててしまいました・・・」。徳山藩の「穢多」は、自分たちの職務については、徳山藩の「御法」に忠実で、それに違う藩の上司からの命令には容易に服従しようとはしませんでした。

しかし、「俗論派」の「正義派」を排除しようとする姿勢は強く、「穢多」はとうとう押し切られてしまいます。藩の命令に背く穢多は、厳しい処罰がまっていますので、「穢多」は止むなく、3人の藩士を処刑してしまいます。

3人の藩士に対する処刑は、「毒を用いて苦しませて殺す」という、徳山藩の「御役頭」の要求とはまったく違った、できる限り苦しませないで一瞬にして殺害する方法が採用されました。8人の穢多によって、3人の藩士が、その方法で処刑されたのです。処刑方法は、詳しく説明することは避けますが、本城清・信田作太夫・浅見安之丞の3人の藩士の死は、牢屋に於ける病死として藩主や本藩に報告されます。

19日には、「御役頭」より、処刑の特別手当として金4両1歩が支給されます。

毒殺用の薬を提供した藩の牢医(穢多医=警察医)は薬代として3歩2朱、実際に死刑執行にあたった8人の穢多に対しては、3両1歩2朱、その他棺桶代として3歩2朱が支給されます。当時、穢多ひとりにつき年間3両(2.4石相当)の役務の手当てが出ていましたから、ひとりあたり1.5カ月分の特別手当が出たことになります。

死刑執行は、近世幕藩体制下にあっても、常に「御法」に忠実に執行されるべきものでした。お仕置きの法を破ったものは、あとでそのことが発覚したときは、それ相応の処罰をうけなければなりませんでした。

徳山藩においても、検断・穢多は、奉行の家臣ではなく、藩の役人でした。

藩の役人は、藩の「御法」に仕えるのが本旨でした。幕府の第一次長州征伐を前にして、長州藩本藩や枝藩において、幕府に恭順を示すか、幕府を倒すことを目指すか、藩論が2分する中生じた悲しい出来事でした。幕府に恭順を示そうとする「俗論派」は、若き7人の藩士の惨殺を持って、その証しのひとつとしたのでした。

7人のさむらいの暗殺に関わった徳山藩の藩士たちは、身分の上下を問わず、やがて、倒幕を唱える「正義派」によって、犯罪として糾弾を受けます。そして、それぞれ重い刑を課せられるのですが、この事件に関わった穢多については、言及がありません。おそらく不問に付されたのであろうと思われます。

徳山藩の穢多の職務は、この点においても、現代の刑務官と酷似しています。

現代の刑務所において、検察庁長官から死刑の命令が下ると、ある日、ある時、突然、刑務官に、死刑執行人の仕事が課せられます。精神的なゆとりもなく、心の備えもなく、突然と、死刑執行人になることが要求されます。死刑執行人になるほとんどの人は、学歴を持たない「高卒」の刑務官であると言われます。明治初期に導入された絞首刑の方法が、何ら見直されることなく、今日まで延々と続けられているのです。

近世幕藩体制下の穢多は、明治に入って、司法・検察・警察へと受け継がれていきます。

現代の被差別部落の人々へと繋がっていくわけではありません。

先祖代々「百姓」の末裔でしかない、単なる「常・民」でしかない私にとって、「非常・民」の世界を描写することは、本当に、精神的な負担になります。しかし、このことを直視しないと、「穢多」の役務を理解することはできないと思って考察を続けているのです。

最後に第6の命題を加えましょう。

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