2021/10/03

徳山藩浜崎獄舎の穢多(屠者)

徳山藩浜崎獄舎の穢多(屠者)


私には人間が、
足の長いバッタのように思えるんです。
年じゅう飛んだり跳ねたりして、
すぐ草の中にもぐって昔変わらぬ小歌を歌うバッタのようにね。
草の中に年じゅうねていればまだしもですが!
どんなごみの中にも鼻をつっこむんですからね。

ゲーテの『ファウスト』(高橋健二・手塚富雄訳 河出書房)の「天上の序曲」に出てくる、悪魔・メフィストーフェレ スの言葉です。

悪魔は、人間が「理性」の使い方を知らないと指摘して、上記のような言葉を神に返すのです。

私は、「賤民史観」に囚われて、歴史資料のここかしこに出てくる「穢多・非人」に関する資料を駆使して、「あわれで、みじめで、気の毒な」・「賤民」として描こうとする歴史学者や研究者、教育者の姿を、『ファウスト』に出てくる「足の長いバッタ」に例えることができると思うのです。

日本の歴史資料の中にある、支配者の目から見た被支配者の姿を、身分制度の「貴」の立場から見た「賤」の姿を描くために、歴史学者・歴史研究者・教育者は、こともあろうに被差別部落の人自身も、「どんなごみの中にも鼻をつっこむ」ような形で、「穢多・非人」を「あわれで、みじめで、気の毒な」存在として描きます。「ごみの中」(資料価値の少ない史料)から負のイメージを伝える言説を抽出し、「人に非ず」「穢れ多し」という烙印を押し続け、彼らの歴史を「まさしく不条理と悲惨の歴史であったことはまぎれもない事実である」と断定するのです。

『竹の民俗誌-日本文化の深層を探る-』の著者・沖浦和光は、さらにこのように続けます。

「しかし、そのような光のさしこまぬ暗い歴史のなかでも、彼らは伝統的技能と新しい創意でもって仕事にはげみ、古くから伝承されてきた民俗と文化の一端を担ってきたのだ。様々の苦しみと悲しみがあったが、差別と闘いながら人間としての生がキラリと光る側面も少なくなかった。・・・この世を生き抜くためには、自由を希求する人間のひとりとして、その夢と希望を最後まで失うことはできなかった」。

しかし、沖浦は、次の瞬間、その「民俗と文化」を「賤民文化」と呼ぶのです。

歴史学者・社会学者を自負する沖浦は、身も心も「賤民史観」の中にどっぷりと浸かっているのでしょう。「自由を希求する人間のひとりとして、その夢と希望を最後まで失うことはできなかった」と、「穢多・非人」の生きざまを取り上げた、すぐそのあとで、彼らがつくりあげてきたのは所詮「賤民文化」であると、足の長いバッタが、天に向かって飛び立つことをすすめながら、またぞろ、泥沼の中にその鼻っ柱を突っ込んでしまわせるようなところがあります。

『賤民史観』という歴史学上の差別思想に身をゆだねる限り、「穢多・非人」と言われた人々の末裔は、永遠に差別の泥沼から飛び立つことはできないでしょう。差別から自由になりたいと思うなら、被差別部落の人々は、政治家・歴史学者・教育者が、明治以降よってたかって構築してきた「共同幻想」としての「賤民史観」を放棄しなければなりません。

「賤民史観」を放棄して、部落差別を語ることができるのか・・・とお考えになるかもしれませんが、この『部落学序説』は、これまで、「賤民史観」とは、別の視点、「実証史学」の立場から批判・検証を繰り返してきました。「賤民史観」を離れても、「穢多・非人」の論述は可能ですし、また、33年間15兆円という、膨大な時間と費用をかけたにもかかわらず、いまだに解消していない差別の撤廃のために、闘う側の主体を構築することは可能なのです。

現在の部落解放運動の理念は、「賤民史観」を前提とする限り、部落差別完全解消にはつながりません。できることとしたら、「被差別」概念の外延を拡大し、これまで部落差別とは関係のなかった一般民衆まで巻き込んで被差別の悲しみや苦しみを他のひとに味わわせるような、絶望的な提案しかありません。野口道彦著『部落問題のパラダイム転換』に目を通せばすぐに分かります。

「穢多・非人」という言葉は、近世幕藩体制下の史料に即して受け止めるときは、沖浦をはじめとする「賤民史観」に乗っかって歴史研究をしている多くの研究者や教育者が指摘するような「人に非ず」「穢れ多し」というような意味合いを持った言葉とはなりません。「穢多・非人」という言葉は、彼らの役務、近世幕藩体制下の役人の職務をさす言葉です。「穢多・非人」という言葉は、「穢多役・非人役」と理解されるときに、歴史上の本当の姿と輝きを取り戻すことができるのです。

「多くを穢す」役、「人を非す」役・・・。

どちらの言葉も、近世幕藩体制下において、全国津々浦々に配置された近世の司法・警察の本体以外の何ものでもないのです。すべての藩には、この司法・警察機構が設置されました。藩によっては、穢多・非人の役を、「士雇」(藩士ではなく、中間・足軽等)身分にその処務を割り振っているため、穢多・非人が存在していないように見える場合もありますが、本質的に、穢多・非人が近世司法警察の「本体」であったことは否定できません。明治以降、ささやかれたような「警察の手下」ではなく、当時の警察の「本体」であったのです。

穢多・非人の歴史上の実像は、私たちが、自らのうちにある「賤民史観」を放棄すれば、すぐに見えてきます。

ゲーテがその『ファウスト』の中でいうように、「原本をひらいて、すなおな心でひとつ・・・」被差別部落の歴史を見直せば、「賤民史観」を脱却する道はおのづと開かれてくると思います。

『河田佳蔵獄中日記』や『浅見安之丞獄中日記』・『本城清・信田作太夫・浅見安之丞暗殺事件調書写』が、部落史を研究するときの史料として用いられてこなかったのは、そこに書かれている「穢多」の実像が、「賤民史観」に著しく抵触する内容が含まれていたからであると思います。

元治元年8月19日幕府に恭順の意を示す徳山藩の要職を襲撃して逮捕され、徳山藩の浜崎の牢屋に幽閉の身となった河田佳蔵は、同士の児玉次郎彦・江村彦之進が、幕府に恭順の意を示す「俗論派」の藩士によって襲撃され殺害されたことを知らされます。

河田佳蔵は、浜崎の牢屋に入牢して3日目、このように記します。

「夜冷番屠一倍九人牢屋外四五度回番也」。牢屋に入ってから三日目の夜は、冷えたのでしょう。河田佳蔵は、浜崎牢の牢屋の板場に座りながら、同じく牢屋に入れられている他の藩士と話をしたのでありましょう。しかし、四六時中話をしているわけではありません。夜が更けてくると、誰からともなく、会話をやめて、牢屋の板場に横になり、うつらうつらとします。そんな中、牢番の見回る足音がします。河田佳蔵にとって、牢番は、「番屠」でもあります。いつか、裁判が下って、その「番屠」たちによって自分が処刑される日がくるかもしれない・・・、そんな思いが、河田佳蔵をして、「番屠」という言葉を使わしめたのではないかと思います。彼は、牢屋を見回る穢多に対して思いをはせ、「牢の中にいる自分も冷えが堪えているが、牢屋を見回る牢番(徳山藩では穢多のこと)はもっと夜冷に耐えているのかもしれない」と、こころのゆとりをみせます。

幕府に恭順の意を示す「俗論派」は、倒幕を叫ぶ「正義派」の政治的弾圧に走ります。

そのとき、徳山藩の穢多たちは、「固メ」と称する「警固」役として、「士分足軽」と共に、1箇所に4~6人ずつ配置されます。

河田佳蔵の耳に、巷の噂が、同じく浜崎牢に入牢している本城清からつげられます。

「此度ノ暴挙ノ発端ハ、奸物共我同士中徒党ヲ結ヒ廃立ヲ企、遂ニ老臣ニ迫リ爆発致し、遂ニハ御城山へ火ヲ放御城ヲ攻落抔ト申虚喝ヲ以国中布告・・・」。河田佳蔵は、これを聞いて、「俗論派」の虚言に、「可憎々々」と激怒します。虚言を流したのは、実秋堂と春瀬の策であろうといいます。その理由は「穢多を呼ヒ警固」させているのが証拠といいます。「己か黒み有之故尻明ケ候、可笑可、憎々々・・・」と悔しさをにじませます。この虚言によって、「割腹」(切腹)させられたという噂も伝わってきます。

河田佳蔵は入牢して十日目、白州に引き出されます。

白州(「客屋」)に関わるものは、「穢多控之場」に待機します。白州の警固のために、穢多四人も動員されています。裁判に当たる奉行・御目付・徒目付・筆者・調下役・御番屋は座敷に、検断と穢多は縁下床几へ控えます。河田佳蔵は「穢多拙者綱ヲ後ヨリ取居候」といいます。不当な取調が続けられ、河田佳蔵は、9月6日に至って、9月2日に河田家の「家柄断絶」が言い渡され、「家内両親ハ富山門東ノ東へ偶居」となったと知らされます。

彼は、妻やその両親を御家断絶の悲しみに追い込んだことに衝撃を受けたのでしょう。彼が日記を再開したのは、9月14日になってからのことでした。

河田佳蔵は、穢多の上番・泉助、増番・鶴二郎から、「此度之騒動ニ付而之皆様御罪状、大殿様ヨリ之御思召ニ而一歩ツツ軽く御宥免相成候様被仰進候之由噂承候ニ付、御安心之為真御内々申上候」と聞きます。近世の司法警察である穢多のことばとふるまいは、極めて真摯なものがあります。

9月22日、山口より「奇兵隊体之者百五十人」が徳山藩領にやってきたことを知らされます。あわせて、幕府による第一次長州征伐が差し迫っていることの緊迫感が伝えられます。

10月7日、河田佳蔵は、晴天の日が続き、秋の豊作が見込めるとあって、「毎夜春挽之声聞へ夥敷候得共、我心中之憂止時無之悲哉」と記します。

10月11日、一度御役御免になった、宿敵・富山源次郎が「復役」したことを知らされます。河田佳蔵は、自分の置かれた立場が急激に悪くなっていくことを実感させられます。

10月14日、河田佳蔵は、穢多・泉助より、彼の兄から依頼された伝言を聞かされます。次第に気を弱くしていった河田佳蔵は、「有り難きかな、有り難きかな」と涙にむせびます。

宿敵・富山源次郎が「復役」した頃から、河田佳蔵の日記には、穢多に関する記録が増えていきます。穢多の添番・藤二郎から茹で芋を馳走されたこと。穢多・滝二郎より、こうせんを馳走されたこと。穢多・久二郎から新酒を馳走されたこと。穢多・泉助より汁一杯馳走になったこと。穢多・兵吉より芋粥馳走。河田佳蔵の身の振り方についての情報も、穢多を通じてしか入らなくなってしまいます。穢多・小吉、弥四郎、兵吉、彼らが語るひとことひとことに祈りに満ちた思いを持ちます。

10月22日、牢番から筆と紙を手渡されます。

10月23日、穢多の庄左衞門から柿三つ、穢多・利吉から餅ひとつを馳走されたといいます。
河田佳蔵は、そのときの心中をこのように綴ります。「可漸斯落泊スレハ所詮心鄙劣飲食へ案思外無之、可嘆々々」。この文章の主語は、河田佳蔵自身ともとれるし、河田佳蔵が獄中で知り合った数多くの穢多であるともとれます。河田佳蔵は、穢多・庄左衛門より、酒と豆腐の馳走に預かります。

10月24日河田佳蔵は、井上唯一と共に浜崎の刑場で検断によって処刑されます。

明治になって、元毛利藩主のたっての願いとあってか、河田佳蔵を含む、尊皇倒幕をかかげて生きた徳山藩の七人のさむらいは、天皇の命によって、例外的に、靖国神社に合祀されます。

牢番の穢多たちの配慮によって、『河田佳蔵獄中日記』は後世に伝えられていくことになります。河田佳蔵は、その漢詩の中で、穢多たちを「屠人」と呼びます。徳山藩の穢多は、「穢多役」だけでなく「非人役」をも兼ねていたからでありましょう。「屠人」の差し出すものを、感謝して受け取った河田佳蔵の中に、穢多に対する差別意識というものはあったのでしょうか。河田佳蔵は、獄吏を表現するのに、「穢多」という抽象概念を用いたのではありません。獄吏が所属していた穢多村と彼らの役職名とその名前まできちんと記しています。河田佳蔵の言葉を通して、徳山藩の「穢多」が何であったのかということを推測することができます。徳山藩の浜崎牢屋で、河田佳蔵が出会った「穢多」たちは、今日の「刑務所」の中で犯罪者が出会うことになる刑務官とまったく同じ存在です。

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