2021/10/03

誤解された渋染一揆

誤解された渋染一揆


「素人考え」による批判

筆者は、学歴も資格も持ち合わせてはいません。歴史学だけでなく、社会学・地理学、宗教学、民俗学、法学、政治学 、言語学・・・等、「部落学」構築に必要なすべての個別科学について、まったくの素人です。

素人の考えを、昔から、「素人考え」といいますが、筆者の知人の中には、このブログ上で書き下ろしている『部落学 序説』が、専門家によって完膚無きまでに徹底的に批判されることを期待している人もいます。今か今かと待っておられるのですが、なぜか、どこからも批判は出てきません。

彼はいいます。「専門家は、様子を見ているに違いない。おりをみて、総反撃をしてくるに違いない・・・」。

この『部落学序説』にどのような評価が下されるのかは、筆者も予測の範囲外のことがらです。

部落研究・部落問題研究・部落史研究の研究者の論文や書籍を一方的に批判しているのですから、当然、批判している研究者から、逆に批判されるということは当然なことです。

しかし、『部落学序説』の「序文」中に出てくる「研究者」のように、「学歴のない人と論争はしない」という姿勢を貫く人も多いでしょうから、筆者の予測では、このままの形で推移するのではないかと思います。

筆者は、学歴も資格も持ち合わせていませんが、学歴や資格を無視しているわけではありません。部落研究・部落問題研究・部落史研究の研究者の論文や書籍を人一倍丁寧に読んで、そこから多くのことを学んでいるという点では、他の人々に遅れをとることはないと思っています。

優れた研究者は、研究に携わるものに対する励ましと希望をも語ります。『法と訴訟中世を考える』の著者・笠松宏至もそのひとりです。彼は、「素人考え」について、このように語ります。

「自ら使えば奥床しい謙辞になるが、ひと樣を対象にすれば、間違いなく侮辱語の一種になる。どちらにしてもその道の玄人でない者がもつ偏見もしくは皮相の見方をしている。しかし、発想の主体が単に「素人」であることのみをもって、玄人の側からそれを一概に無視したり侮ることのできないのは、文学や芸術などに限らない。学問、とくに人文科学、とくに歴史学などという、わからないのが当たり前の大昔のことをも対象とする分野では、その感がひとしお深い。そしてそれが玄人が手を染めていなかった未開の領域に対する提言であったり、疑いもせず思い込まれていた常識への疑問であったとき、そのもつ衝撃度はさらに強い」。

筆者の『部落学序説』は、笠松がいう、「疑いもせず思い込まれていた常識への疑問」でもあります。日本の歴史学に内在する「賤民史観」という「疑いもせず思い込まれていた常識」に対して、筆者は、その「賤民史観」は、歴史学上の差別思想で、そのもとになされた「部落史」研究法によっては、「部落史」の歴史的真実にたどりつくことができないのではないかという疑問を提示しているのです。

筆者が、ときどき、「素人考え」と言われて失笑を買うことがあります。それは、安芸の農民の間に伝えられてきたという「ことわざ」に関するものです。

筆者がまだ20代のとき、当時、東京都町田市の鶴川公民館の館長をされていた浪江虔というひとから聞いた話を、そのまま語り伝えているからです。

浪江虔という人は、戦前、鶴川の地で、農民運動をしていた人です。自由民権運動の研究家でもあったのですが、彼が、講演の中で、「昔、安芸の農民たちの間で、語り伝えられたことわざ」として紹介した、<きりうなぎ、ざるどじょう、たるへび>という言葉です。

浪江によると、近世幕藩体制下の安芸の農民が、「自分たちは、藩権力によって、このように管理されてきた・・・」と、反省と新たな闘いの決意を込めて、語った言葉が、<きりうなぎ、ざるどじょう、たるへび>であるというのです。

この言葉は、藩権力が、農民一揆を潰すときの手法を語り伝えているのです。

【きりうなぎ】

「きりうなぎ」というのは、こういう意味です。うなぎは、素手で取り押さえようと思っても、からだがヌルヌルしていてなかなか思うように捕まえることができません。しかし、うなぎをまな板の上で料理をするときの光景を思い起こせばわかりますが、錐で、うなぎの頭を、まな板につきさせば、うなぎはその動きをとめてしまいます。安芸の農民は、自分たちの農民一揆は、藩権力によって「きりうなぎ」のように潰されてしまった。農民一揆を成功させるためには、藩権力から「うなぎの頭」を守らなければならない・・・、ということを悟ったというのです。

【ざるどじょう】

「ざるどじょう」についてはこうです。どじょうというのは、水の中にいるときは自由に泳ぎ回ります。管理しようがありません。しかし、網で捕らえて、同じような大きさのどじょうをひとつのざるに入れると、どじょうは、急に動きをやめておとなしくなってしまいます。安芸の農民は、自分たちの農民一揆は、いろいろな考えを包みきれないで、異なる考えを排除していくときに、藩権力によって潰された。農民一揆を成功させるためには、「同志」だけでなく、幅広い民衆の支持が必要だ・・・と悟ったというのです。

【たるへび】

最後の「たるへび」というのは、農民一揆のとき、一揆の目的を忘れて、農民の間で指導者を誰にするかをめぐって、内部争いが生じるときがあります。そのとき、藩権力は、密かに介入して、農民の指導者群に、指導権争いをさせます。ちょうど、樽の中のへびの群れのように、誰かが指導者になろうとすると、他のものが足を引っ張ります。そして、また他の者が指導者になろうとすると、またまた他の者がその足を引っ張り、延々と、内部抗争に終始し、農民一揆は挫折に追いやられた。農民一揆を成功させるためには、極力内部抗争を警戒しなければならない・・・と、悟ったというのです。

浪江によると、この<きりうなぎ、ざるどじょう、たるへび>という安芸の農民の言葉は、近世幕藩体制下の藩権力によって、その農民がこのように支配され管理されていたという、絶望の響きを持った言葉ではなくて、百姓一揆を繰り返し経験することで、今度はもっと上手に百姓一揆を起こそうとした、農民の智恵、闘う姿勢を示したものであるというのです。

東京都町田市の鶴川公民館館長・浪江虔の、戦前戦後を通じて農民運動家として実践を積み重ねてきて、戦前においては、治安維持法違反で9カ月間も投獄を経験した人です。農民の、農民による、農民のための運動を実践した浪江の語る、この<きりうなぎ、ざるどじょう、たるへび>という言葉は強烈に響きました。

それ以来、ずっと、この<きりうなぎ、ざるどじょう、たるへび>を語り伝えているのですが、山口の地にきてから、ときどき、「素人はこれだから困る。安芸の農民は、<きりうなぎ、ざるどじょう、たるへび>と言ったのではなく、<きりかえる、ざるどじょう、たるへび>といったんだよ」と指摘されることがあります。

「きりうなぎ」が正しいのか、「きりかえる」がただしいのか、筆者は知りません。しかし、近世幕藩体制下の農民一揆、百姓一揆の記録を見ていると、「きりかえる」よりも「きりうなぎ」の方が史実に近いように思われます。藩権力は、農民一揆が起きた際には、その提唱者や首謀者となった農民の首をはねています。それは、残酷なまで徹底していました。

「きりかえる」というのは、かえるの鼻先に、錐をつきつければ、かえるは身動きができなくなるということを意味しているそうですが、近世幕藩体制下の農民は、武士から刀や槍をつきつけられたからといって、農民一揆や百姓一揆をやめるということはなかったと思われます。農民の側からの犠牲者を出しても、農民の側は、藩権力に対して、「天理人事に相背き候」と藩権力の不正を追及していったと思われるからです。

長州藩の記録によると、寛文3年(1663)夏、恋路村のふたりの少年が、旱魃の影響で、恋路村の稲が枯れかけていたのを見て、「宮野川の井出を切落とし、恋路村に水を引いた」といいます。そこで、恋路村と隣村との間で「水論」が激化します。自分たちのしたことで、両村が一発触発の事態におちいったとき、恋路村の2少年は、藩主に直訴して、藩主の力を借りて問題の解決を図ろうとするのです。その結果、2少年の訴えは藩によって裁可され、勝訴となるのですが、しかし2少年は「直訴の罪」により萩の大屋刑場で処刑されてしまいます。

三宅紹宣・佐藤省吾著《山口県百姓一揆総合年表》に、百姓一揆の事例として掲載されているところをみると、この恋路村の事件も、百姓一揆のひとつなのでしょう。藩は、「きりかえる」ではなく「きりうなぎ」の論理で、この2少年を無残にも処刑してしまうのです。

「素人考え」と言われようと、筆者は、<きりかえる、ざるどじょう、たるへび>ではなく、<きりうなぎ、ざるどじょう、たるへび>の方を語り伝えているのです。

三宅紹宣・佐藤省吾著《山口県百姓一揆総合年表》には、長州藩内で起こった百姓一揆の件数は90を越えるとあります。

『部落学序説(削除文書)』の中で触れた、そして、この『部落学序説』執筆の最大のきっかけとなった、山口県北の寒村にある、ある被差別部落の古老が住んでいた地方で起きた慶長13年(1608)の百姓一揆は、「検地実施による増加に反対」して引き起こされたものですが、防長二カ国に幽閉された毛利・長州藩は、その強訴を認めず、「指導者の庄屋10人、百姓1人を引地峠で」首をはね、処刑してしまいます。

長州藩は、その地方を、「本藩別業の地」として、近世幕藩体制下全期間に渡って、その他の地方とは異なる処遇を実施します。その地方全体が、長州藩によって、現代的な言い方をすれば、「被差別」の状況に置かれたのではないかと思われます。

『民衆運動の思想』(岩波・日本思想大系)の末尾の論文の中に、安丸良夫著《民衆運動の思想》がありますが、安丸は、元文3年(1738)の磐城国平藩の一揆をとりあげています。

安丸によると、一揆の多くは、突発的に発生したのではなく、「組織性」と「規律性」の下で実施されたといいます。

組織性については、村内に臨時の「指導部」を設置して、家1軒につき1人を限度として一揆に参加させます。徴集された百姓は、「百人を一組として・・・鉄砲になれたる者拾人宛添へ置く」ことが指示されたといいます。一揆に参加する百姓は、怪我を防ぐために、戦闘用の蓑・頭巾で身を固め、五日間の水と兵糧米を用意して餓死対策をたて、「長い伝統と経験のうえにたった民衆の叡知が発揮されており、こうした叡知に支えられて一揆は闘われたのである」といいます。

百姓は、「村八分」をたてに、「庄屋をも騒動に強制参加させた」といいます。
『民衆運動の思想』に収録されている史料の伝える百姓と、百姓一揆にまつわるその姿は、日本の歴史学の差別思想である「賤民史観」が語り伝えるところのものと大きくかけ離れているように思われます。「賤民史観」は、百姓を「愚民論」の立場から描きます。

武士の末裔でもなく、穢多・非人の末裔でもない、ただの百姓・農民の末裔でしかない筆者は、当然、近世幕藩体制下の百姓の生き方、ものの見方や考え方を踏襲しようとします。

「百姓一揆」をそのように把握しますと、備前藩の「渋染一揆」は、「百姓一揆」とは似てもにつかぬものでした。筆者は、それどころか、「渋染一揆」は、「一揆」ですらなかったのではないかと考えています。「渋染一揆」には、「天理人事に相背き候」という百姓一揆の理念は、どこにも見いだすことができないからです。

筆者は、前掲の《山口県百姓一揆総合年表》を読む都度、思うのですが、歴史の流れの中で、近世から近代へと移っていきますが、それは、日本歴史学の時代区分のように、ある日、ある時、突然と古い時代が去って新しい時代が来るというものではないと思っています。古き時代の中に、新しい時代の息吹が注がれ、新しい時代の中に古き時代の風情が残り、古い時代と新しい時代は、2色のグラデーションのように、徐々に古き時代から新しい時代へと変化していくものだと考えています。

百姓一揆の歴史を見れば、そのことがよくわかります。

筆者は、「渋染一揆」は、近世幕藩体制下で起きた事件ですが、その「渋染一揆」は、古い時代の中にありながら、新しい時代の息吹が注ぎ込まれていた時代のできごとであると考えています。

「渋染一揆」を、過ぎ去り行く古き時代の「身分差別強化政策」、「無紋渋染・藍染の強制」、その強制に対する抵抗、としてのみとらえると(『部落解放史』解放出版社)、私たちは、「渋染一揆」の歴史上の本質を限りなく見失ってしまいます。明治維新ではじまる新しい時代の到来の12年前に発生した「渋染一揆」の中に、古い時代の精神と新しい時代の制度との間の葛藤が存在しているのです。その「葛藤」を正しく理解しないかぎり、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての「穢多」によって引き起こされた「渋染一揆」の本質は、誤解されたままになります。

0 件のコメント:

コメントを投稿

『部落学序説』関連ブログ群を再掲・・・

Nothing is unclean in itself, but it is unclean for anyone who thinks it unclean.(NSRV)  それ自身穢れているものは何もない。穢れていると思っている人にとってだけ穢れている(英訳聖書)。 200...