2021/10/03

「部落学」構築途上における障碍

 「部落学」構築途上における障碍


読者の希望で、『部落学序説』の記述を一時中断して、島崎藤村と『破戒』について若干論述してきました。

このテーマについては、『部落学序説』第5章、「水平社宣言批判」の中で取り上げる予定でいました。近世幕藩体制 下の司法・警察である「穢多」が、明治4年の太政官布告によって、なぜ「賤民」(明治政府が作った行政用語・のち に歴史学者が学術用語として使用する)という近代的な身分制度の最下層の中に置かれなければならなかったかという 、歴史的な背景を検証しないと、島崎藤村や、その作品である『破戒』の精神的な背景を十分に把握することができな いからです。

この『部落学序説』は、その筆者である吉田向学、ただ独りによって構築されてきたものです。

その背後に「研究集団」のようなものが存在しているわけではありません。「部落学」構築を目的として徳山市立図書館や書店の店頭に並ぶ、部落研究・部落問題研究・部落史研究に関する書籍や論文章を漁りだしてから、しばらくして、ふと気がついたのは、筆者の研究は「独白」(ひとりごと)でしかないということでした。

「部落学」構築に関して必要なデータは、すべて、自分で模索しなければなりませんでした。そしてその史料や資料から分析して抽出した命題は、やはり「独白」として成立しました。孤独な作業を延々と続けなければならなかったのです。

もちろん、「部落学」構築の過程を、いろいろな人に話してきました。筆者が所属している宗教教団の同和問題担当部門の長になる「上司」にも、おりにふれて、研究内容を明らかにしてきました。しかし、あるとき、気がついたのです。その「上司」は、彼がいう「部落解放運動」には熱心であるが、部落研究・部落問題研究・部落史研究についてはまったく関心がないか、あったとしても二次的な山治的な意味合いしか持っていないというこに。

被差別部落出身の「上司」に話をしても、何も伝わらない・・・。それどころか、彼は、「被差別部落の先祖である穢多が近世の警察であったという説を認めた日には、「みじめで、あわれで、気の毒な」存在であり、「いわれなき差別を受けてきた」として、同和対策事業を要求してきた部落解放運動が根底から否定されることになる。そんな教説を信じることはできない」と言います。

「あなたの説は、誰にも認められていない。世の中が、あなたの説を認めたら、私も認めてあげよう」。

私は、その言葉を耳にしたとき、「ああ、この人は、私の研究をつゆも評価していないし、それ以上に評価するための精神的な背景も基盤もを持っていない・・・」のだと思わされました。

それ以来、ますます、「部落学」研究を、「独白」として継続しなければまりませんでした。

筆者が所属している教団の同和問題担当部門の教区の委員をしていた8年間、もう一四、五年前になりますが、山口県の被差別部落数カ所に出入りをしていました。ある被差別部落の人々は、筆者に「山口県の部落問題について論文を書くそうですが、私たちの部落のことについては一切触れないでください・・・」と要求してきました。理由は、「有名な人が、自分たちの部落のことについて論文の中で取り上げてくれるならともかく、学歴も資格もないただの人に書いてもらっても何の意味もありません・・・」ということでした。筆者は、山口県の被差別部落の人々から聞いた話は、この『部落学序説』の中では、一切触れないことにしました。

被差別部落の中で開かれる学習会で聞いた話の中には、今は逝去されて久しいのですが、部落解放同盟の支部長をされていた方は、とても楽しそうに被差別部落の歴史を話していました。「エタ」といわれて「ネス」と切り返していた・・・という話は、とても興味深いものでした。そういう会話を成立させる「生活の座」(SitzinLeben)を検証しているときに、明治4年の太政官布告の本当の意味を示唆するものに行き当たりました。

しかし、約束ですから、山口県の被差別部落の中で見聞きしたり、聞き取りをしてきた話は、触れないことを前提にして、この『部落学序説』を執筆しています。

『部落学序説』は、徹頭徹尾、部落解放運動家がいう「差別」の立場にある一宗教家の「独白」(ひとりごと)に過ぎないのです。

『部落学序説』を執筆する際に、具体的に交流のあった被差別部落で目にし耳にしたことには触れて欲しくなくないとの、被差別部落の側の本音を耳にしたとき、『部落学序説』を執筆する指が重くなり、停滞しました。しかし、その抑止力より、「まえがき」の中で紹介させていただいた、山口県北の寒村にある、ある被差別部落の古老との出会いが私に与えた衝撃の方が勝っていました。その出会いがなければ、「私たちの部落のことについては一切触れないでください・・・」と語る被差別部落の人々の要求に応じる形で、『部落学序説』執筆の旅は潰えていたと思われます。古老との「出会い」は、筆者に、その障碍を克服させるのに十分な力を与えてくれました。その力のゆえに、筆者は、「独白」としての「部落学」構築のための単純で長時間に渡る文献批判の作業を続けることができたのです。さまざまな障碍を乗り越えて、通説に反する被差別部落の古老の証言を、真実として検証する作業を継続できたのは、山口県北の寒村にある、ある被差別部落の古老の、身元を隠すことなく歴史を担って生き続けているその真摯さにありました。

聞き取り調査をさせていただいた、山口県北の寒村にある、ある被差別部落の古老は、誰も耳を傾けてくれない、彼らの先祖の歴史を、明治以降もずっと語り続け、彼らなりの「独白」を繰り返してきたのではないかと思います。古老の持っている百数十年の「独白」の持っている重みは、筆者のわずか十数年の「独白」とは比べ物になりません。

もちろん、先祖の歴史を「独白」し続ける被差別部落の人々は、他にも存在します。

長州藩本藩は、「萩藩」ともいわれます。その萩の城下にはいるには、いくつもの検問を突破しなければなりません。その検問の役をになっていたのが、萩城下の「穢多町」の人々でした。あるとき、その「穢多町」の末裔の人が書いた《隠語に付いて》という文章を入手したことがあります。

その冒頭にこのような言葉がありました。

「部落に伝えられている隠語は、専制政治の幕藩時代は勿論、明治以降における、今日の政治政権下、官憲の圧迫、一般民衆の迫害、喜び、悲しみ、憤り、恐怖に曝されながらも、尚私共部落民は人間としての誇りを失わんがめたの糧であった・・・」。

萩城下の穢多町の末裔が語り伝えている、被差別部落の「隠語」は、近世司法・警察である「穢多」の「隠語」なのです。現代の警察の世界で用いられている「隠語」と比べると、やはり時代的変遷を感じさせられます。しかし、その内容は、被差別部落に伝えられている「隠語」の多くは、近代・現代の警察の世界で使われている「隠語」に匹敵するのです。

彼らは、近世幕藩体制下の司法・警察官である「エタ」と比べて、近代・現代の「エタ」である司法・警察官の不遜な姿、「法」に準拠するといいつつ、「法」よりも「権力」に忠実な、場合によっては、「権力」装置の一翼として、一般民衆を迫害・圧迫していく樣を「ネス」(しろうと警察)と呼んでいるのです。

萩城下の穢多町の末裔が語り伝えている、被差別部落の「隠語」は、明治政府という権力と、「賤民史観」を吹聴する学者や教育者によって、地位も名誉も剥奪され、「賤民」として、明治の近代身分制度の最下層に貶められたものの、歴史の真実はそうではないという抗議の響きが内包されているのです。

また、長門国の穢多の末裔である、ある被差別部落の人は、山口県の水平社創立時に、水平運動に参加した人々の中に「同胞」だけでなく、多数の「同志」もいたということを語り伝えています。

「同胞」とは何か、お尋ねすると、近世幕藩体制下の「穢多」の末裔のことであるといいます。そして、「同志」というのは、「穢多・茶筅・宮番」等の末裔ではないけれど、水平社宣言に賛同して集まってきた一般の人々(武士や百姓の末裔)のことだといいます。山口県の水平社運動は、明治という近代化の流れの中で、天皇制の枠組みの中で、取り残され、「みじめで、あわれで、気の毒な」存在に追いやられた人々の総称でもあるというのです。

山口県の被差別部落の古老の語る言葉に、すなおに耳を傾ければ、差別的な言辞の飛び交う人間の会話の中に、歴史の真実を伝える潮騒の奏でる響きが、私の耳元にも伝わってくるのです。萩城下が置かれ、幕府から幽閉された半島の国・長門の国をとりまく、日本海・玄海灘・瀬戸内の潮騒にまじって、悠久の彼方から響いてくる歴史の真実の訴えが聞こえてくるのです。

最初、「山口県の部落問題について論文を書くそうですが、私たちの部落のことについては一切触れないでください・・・」、「有名な人が、自分たちの部落のことについて論文の中で取り上げてくれるならともかく、学歴も資格もないただの人に書いてもらっても何の意味もありません・・・」と、被差別部落の方々のこのような言葉を耳にしたとき、「部落学」構築は大きな岩場に座礁しかかったような感じがしました。

しかし、筆者は、山口県の被差別部落の古老の語る言葉が「真実」であることを確信したときから、その「真実」は、山口県の被差別部落の伝承に依拠しなくても、それが「真実」である限り、日本全国の史料や資料の中に、そして、日本全国の被差別部落の人々が、島崎藤村の『破戒』の主人公・丑松のように、勇気を持って、その出自を語り、臆するとこなく、「我は穢多なり」と告白し続けている人々がいる、彼らの語る言葉の中に、それを探っていけば、山口県の被差別部落の古老たちが語っている歴史の真実にたどりつくことができる手がかりがあるに違いない・・・、筆者である私は、そう思って、「部落学」構築を目指して、遅々たる歩みを続けてきたのです。

そして、このブログ上で、今も「独白」を続けているのです。

日本の社会の中に、空気のように存在する、日本の歴史学の中に内在する差別思想である「賤民史観」を取り除くための、孤独なる闘いを続けているのです。

私が所属している教団の同和問題担当部門のトップ、被差別部落出身の「上司」に対して、「あなたは本当に被差別部落出身なのですか」と問いかける私に、彼は、「あなたは、本当は部落出身ではないのですか」といいます。

というのは、私は、その「上司」と十年つきあっても、二十年つきあっても、山口県の被差別部落の古老が語り伝えるような、「穢多」として生き抜いてきた歴史の重みが感じられないという点にあります。「私たちは、いわれなき差別を受けてきた。どないしてくれるんだ。少しでも悪いと思うなら金よこせ。」式の運動を展開している「上司」と、私が山口県で出会った被差別部落の古老の姿の間に大きなギャップを感じるためです。

「上司」である彼に、「私が部落出身であるとなぜ思うのか」と聞き返すと、彼はこのようにいいます。「あなたは、いつも背広を着ている。私は、母親から言われた。いつもみなりをきれいにして背広を着ていれば差別されない。だから、私は背広をいつも着ている。私は、あなたが背広を着た姿しか見ていない。だから、自分と同じだと。あなたは、部落出身者であると思っている・・・」。

部落解放運動というのは、その本質において、軽佻浮薄なのでしょう。
差別をなくすための運動をしている人の言葉とも思えません。

私は、宗教家になる前は、商社につとめるサラリーマンでした。しかも、紳士服関連の・・・。背広を着て、アタッシュケースを持って歩くのは、その頃からの習慣でした。いつも背広を着てあるく人を見て、あの人も部落出身であるに違いないという視点から見たら、日本全国・背広を着た「部落民」ばかりになるではありませんか。

部落解放運動なんて、とっくの昔に瓦解しているのかも知れません。

人間は、本質的には、自分のうしろ姿は見えないのです。人間の目は前方にのみ付いています。夏の木立の中でけたたましく鳴く蝉のように、自分の背中を見る目は持っていないのです。そういう意味では、被差別部落の人々は自分のうしろ姿を見ることができないのです。

彼らはよく、「部落民でないと部落民の気持ちはわからない」といいますが、それは、部落民として見ることができる世界のことだけが見えるということで、部落民のうしろ姿も見えるというわけではありません。

この『部落学序説』は、極論すれば、「部落民のうしろ姿」を描こうとしていると言ってもいいのです。

インターネット上の部落差別について書き込みは、いろいろな批判や中傷に曝されるとうわさで聞いていますが、このブログは、なぜか、そのような状況にはありません。差別・被差別の両側から批判や中傷はありません。「部落民のまえ姿」ではなく、「部落民のうしろ姿」(部落民の真実な姿)を描こうとしているからかも知れません。

筆者が所属している教団の同和問題担当部門のトップは、あるとき、このように言いました。
「差別的な人に対する、被差別部落の側の反論は、彼を差別者として糾弾するのではなく、彼を私たちと同じ被差別部落出身だと証言することだ」と。

被差別部落の人々から、しかも、部落解放運動に携わっている人々から、「あいつは、おれたちの仲間だ」と宣言されたら、その人は、自分の意図しない場面で、周囲の人から差別的な扱いを受けることになるでしょう。

被差別部落出身の「上司」の言葉は、長い間、部落差別と取り組みながら、部落差別が何なのか何も知らない人の言葉です。私はときどき、彼に疑問をぶつけます。「あなたは、本当に被差別部落出身なのですか。私には、たまたま被差別部落に生まれてきた差別者以外の何ものでもないと思われるのですが・・・」。

『部落学序説』は、差別・被差別を越えて成立する、単なる学的研究に過ぎません。

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