2021/10/04

部落学固有の研究対象

 部落学は、部落に関する学です。

歴史学が歴史に関する学であり、社会学が社会に関する学であり、民俗学が民俗に関する学であるのと同じように、部落学は部落に関する学です。

部落学の研究対象としての「部落」を表現するにはどのような言葉があるのでしょうか。近世の幕藩体制の中で、「穢多村」と言われていたところは、明治4年の太政官布告以降は、「旧穢多村」と呼ばれるようになりました。

近世の幕藩体制下の「穢多村」と近代の明治初期の「旧穢多村」を同定するには、批判・検証が必要になるとおもいますが、「穢多村」と「旧穢多村」の外延はほぼ共通している・・・、と推定しても差し支えないのではないかと思います。

その「旧穢多村」は、日本が「国辱」として認識していた、治外法権という不平等条約撤廃の実現の可能性が見えはじめた頃から、「旧穢多村」に代えて、「特殊部落」という言葉が使用されるようになりました。

しかし、「旧穢多」から「特殊部落」への移行は、単なる名称の変更ではありませんでした。行政用語としての「特殊部落」は、「一般部落」から差別的に区別された表現として使用され、その外延は、「旧穢多」だけでなく、「その他の人々」をも含有するものでした。「旧穢多村」から「特殊部落」への名称の変更は、単なる名称変更ではなく、その概念の外延について、急激な拡大をともなっていたのです。外延がかわると、当然内包も変わってきます。

「旧穢多村」から「特殊部落」への概念の変遷は、単なる名称変更ではなく、概念の外延と内包において、大幅な変節がともなっていたのです。「特殊部落」という言葉がささやかれはじめた頃、「旧穢多」の外延は、明治政府の統計調査によると、約80万人でした。しかし、水平社宣言の頃には、「特殊部落民」の外延は約300万人であると言われています。「特殊部落」という言葉は、その外延として、「旧穢多」に加えて、その約3倍の「その他の人々」を含んでいたのです。

水平社宣言は、「全国に散在する我が特殊部落民よ・・・」という言葉ではじまっています。水平社宣言を朗読してみれば分かるのですが、後半に入ると、突然、「我々がエタである・・・」という言葉がでてきます。

最近の水平社宣言の研究によると、水平社宣言は、2種類の資料(西光万吉と栃木重吉の2者による執筆)から構成されていると言われます([07-50])。つまり、「特殊部落」に関する部分と、「エタ」に関する部分。両者は、本来異なる資料に属するというのです。その2種類の資料が併合・編集され、最後に、今のような宣言になったというのです。つまり、水平社宣言は、「特殊部落民」としての宣言と、「エタ」としての宣言と、その両方が編集によって合体されたものだというのです。

水平社宣言が出された当時、「旧穢多」身分の人々の中には、「特殊部落民」に数えられることを拒否した人々が相当数いたことが記録されています。彼らは、自らが「旧穢多」であることを認めつつ、「その他の人々」(明治後期に、政治的・社会的・経済的にその時代から取り残された士族や平民たち)と、混同されて同一視されて、「特殊部落民」とされることに強い反発を感じていたものと思われます。

「特殊部落」・「特殊部落民」は、「旧穢多」や「その他の人々」が、自分たちの存在を表現するために、自分たちの中から紡ぎだした言葉・表現・概念ではありませんでした。「特殊部落」・「特殊部落民」は、行政用語として、当時の政治家や官僚、学者・教育者等によって、「旧穢多」と「その他の人々」に、政策上、押しつけられた用語だったのです。水平社運動に参加した人々の多くは、行政用語としての「特殊部落」・「特殊部落民」という概念を自分たちの存在を示す表現として採用していったのです。「一般部落」から区別された、非常に差別的色彩の強い「特殊部落」という言葉を、自分たちの存在を示すことばとして受容していたのです。

水平社宣言の限界と問題点は、水平社運動に参加した人々が、当時の行政によって押しつけられた「特殊部落」・「特殊部落民」という差別的な表現をもってしか、その存在を表現することができなかったというところにあります。もし、水平社運動に参加した人々が、行政用語としての「特殊部落」・「特殊部落民」という概念に代えて、彼らのレーゾン・デートル(存在理由)を表現する呼称を提案していたとしたら、今日に続く、「特殊部落」・「特殊部落民」をめぐる概念のあいまいさに翻弄されることはなかったでしょう。

「明治政府・地方行政は、「特殊部落」・「特殊部落民」と差別的な表現で我々を見るけれども、それは間違った見方である。我々の本質は、○○。我々は、我々自身を○○と呼ぶ・・・」と宣言しそれを明文化していさえすれば、今日のように、「特殊部落民」・「未解放部落民」・「被差別部落民」・「同和地区住民」・「被差別市民」等、その時々の施策や運動によって、「部落」・「部落民」概念の外延・内包について、恣意的な解釈を許容し、「部落差別問題」を解決不能と思われるような混乱状態を引き起こすことはなかったでしょう。

戦後、「特殊部落」という言葉は、「未解放部落」という言葉に言い換えられ、「未解放部落」もやがて「被差別部落」という言葉に置き換えられていきます。概念自体に差別性を含まない言葉へと、表現が変化していく訳ですが、「特殊部落」→「未解放部落」→「被差別部落」という概念の変遷は、単なる言葉の言い換えではありませんでした。

「特殊部落」が「未解放部落」へ、また「未解放部落」が「被差別部落」へ、概念の名目が変更されるだけでなく、「旧穢多村」から「特殊部落」へ概念の変遷が行われたときと同じように、概念の外延が拡大され、内包も変節されていったのです。

明治4年の太政官布告が出されて「穢多村」が「旧穢多村」になり、「旧穢多村」が「特殊部落」になり、「特殊部落」が「未解放部落」になり、「未解放部落」が「被差別部落」になっていく都度、「穢多村」を核として、その周辺に「その他の人々」が配置され、その外延が徐々に肥大化・拡大化させられた結果、現代の「被差別部落」は、明治初期の「旧穢多村」とは似ても似つかぬ存在になってしまったのです。

「特殊部落」・「未解放部落」・「被差別部落」、それらの概念がどのような意図で創設されていったのか、それを取り上げた文章に、京都大学名誉教授・井上清(唯物史観の歴史学者)の《「未解放部落」と「被差別部落」》([22-15])があります。

この、約二千字の短文は、どちらかというと、功なり名を遂げた歴史学者が、学生を前に語って聞かせる、ちょっぴり自慢話を含んだ裏話である「歴史学夜話」のような文章ではないかと思われます。夜話なら夜話らしく、面白くおかしくその話を楽しんだなら、それは酒の席での話であると、すぐ忘れてしまった方がいい。それをことさら取り上げるのは問題である・・・、というように考える人もいるかもしれません。しかし、逆に、夜話であり、裏話であるからこそ、それを井上清はほんとうのことを物語っていると考える人もいるかもしれません。ともかく、筆者が、余話として書かれた短文を、ひとつの重要な論文としてとりあげるとき、多くの人々から失笑をかうことになるかもしれません。しかし、ここでは、その愚をあえておかして、その歴史学夜話を取り上げることにしましょう。

井上は、「自分で自分を特殊部落と呼ぶことと、他人がその語を用いるのを糾弾することは、表面的には矛盾なしとはしない。けれども全国水平社は、これに代わるよび方をつくらなかった」と指摘します。この「特殊部落」という言葉は、戦後5年後の1950年頃まで継続して使われ続けたと言われます。

井上は、部落解放全国委員会書記長北原泰作との話し合いの中で、「未解放部落」という表現を勧め、北原は、その1年後、その著作の中で、「特殊部落」と書いたところは、すべて「未解放部落」に変更したといいます。

しかし、井上は、「未解放部落という語も適当でないと思うようになった」といいます。「未解放とは封建的身分差別から解放されていないという意味ですが(・・・中略・・・)現在の部落解放は、資本主義とその権力からの解放でなければならない。その意味では、日本のすべての労働者・農民も未解放である。それなのに未解放部落の解放運動といえば封建制からの解放運動になってしまう。これはいけないではないか」と考えたといいます。

井上は更に続けて、「そこで私は、何から解放されるのかという問題にはふれないで差別されている部落だから、少々どぎついけれども、そのものずばり「被差別部落」といえばよいではないか、と考えた」といいます。井上の提案は、すぐには一般的に受け入れられることはありませんでしたが、1966年頃から、「被差別部落」という表現が一般的に使われはじめたと言われます。井上は、「遺制とする見方から、現代資本主義とその権力の人民収奪と支配の一形態であるという見方への移行を意味している」といいます。

要するに、一人の歴史学者によって、「特殊部落」→「未解放部落」、「未解放部落」→「被差別部落」という概念の変遷が作り出されていったのです。

筆者は、「未解放」というのは、時間的概念であると思います。「被差別」というのは、空間的概念であると思います。唯物史観の歴史学者・井上の、あいつぐ、歴史的な基礎概念の見直し作業によってもたらされたものは、単なる名称変更という表面上の変更にとどまりませんでした。歴史学上の批判・検証をより徹底して、概念を明確化、「特殊部落」という概念を、縮小し、解消へと導くというのではなく、逆に、学者の思いつきでもって、時間的にも空間的にもその枠組と内容が拡大されていったのです。「部落」概念は、拡大されればされるほど、焦点がぼやけ、複雑さ矛盾を孕み、錯誤と混乱を自らの概念のうちに抱え込む結果に陥ってしまったのです。

それにしても、概念が「元穢多」から「未解放部落」へ、「特殊部落」から「被差別部落」へと、何度も変遷されていったにもかかわらず、「部落」の当事者からは自分たちを正しく表現する概念が一切提示されることがなかったのは、なぜなのでしょうか。

明治の女性解放運動家に、青踏社の平塚雷鳥がいます。彼は、このような言葉を残しています。「原始女性は太陽であった。真正の人であった。今は、女性は月である。他によって生き、他の光によって光る病人のような青白い顔の月である」。他者によって、権力者や政治家、学者や教育者によって定義づけられた「旧穢多村」、「特殊部落」、「未解放部落」、「被差別部落」といった言葉でしか、自分たちの存在を表現できないでいる、部落学の固有の研究対象である「部落」の人々は、まさしく、この「青白い顔の月」、「他によって生き、他の光によって光る病人のような」存在であり続けているのではないでしょうか。今日に至るまで・・・。

水平社宣言の中で、声高々に歌われている言葉、「吾々がエタである事を誇り得る時が来たのだ。吾々は、かならず卑屈なる言葉と怯懦なる行為によって、先祖を辱しめ、人間を冒涜してはならぬ。」は、穢多の末裔である、栃木重吉の言葉であると言われています([07-50])。栃木重吉こと、平野小剣([19-01])は、東北福島県信夫郡浜辺村、阿武隈川畔の出身です。彼の先祖は、幕藩体制下の獄屋に勤める穢多身分でした。すべての番人は、藩からの祿米で生活していました。非常のおりには、一身を投げうってその職務に忠実に、場合によっては、村人のためにいのちさえかけて闘ったといいます。彼は、父親が逝去した次の年、福島県庁の給仕になろうとしましたが、「新平民だから採用はできぬ」と云って世話人から履歴書をつき返されたといいます。そのとき、彼の母は、「涙を一瞼に溢らして」、「こんな村に生まれ、こんな母を持ったお前は因果なものだ。許してくれ・・・」と云った、「あの悲痛な言葉は今でも耳底に残っている。」といいます。

栃木重吉は云います、「いったいどうすれば、俺は生きて行けるだろう。新平民のこの俺は、深い人間生存の道について悩まずにはいられなかったのだ。そうだ、俺の生き行く道は一つあった。俺はそれを考えはじめた」。彼の母は、「世の中の人はみな鬼だ。呪われるものは呪い返せ、そして最後は母の側に来い。母は温かい手をひらいて待っている・・・」と言って世を去っていったといいます。水平社運動に、西光万吉、坂元清一郎、米田富、駒井喜作、桜田規矩三、南梅吉等と参加した彼は、「他動的または受動的に慈恵と憐憫によって解放を希うは我々先祖に対する「最大の罪過」である」といい、そして、「自動的に我が祖先の霊を慰めんがため共通なる目標に向かって」生きることを宣言します。栃木重吉は、「穢多」こそ、自分を語る言葉、昨日穢多であった、今日も穢多である、そして明日も穢多であり続ける、そのことによってだけ、穢多はほんとうの自由を、解放を、自分の手にすることができると宣言したのでしょう。栃木重吉の言葉には、平塚雷鳥と同じく、「他によって生き、他の光によって光る病人のような」存在であることを拒否し、穢多の始源に立ち戻って己の存在理由を確かめようとした、他を寄せつけないような比類まれなる「熱」と「光」が溢れています。

政治家や運動家、学者や教育者が作り出す、「特殊部落」・「未解放部落」・「被差別部落」のような、熱くもなく冷たくもなく、生ぬるくて、吐き出したくなるような言葉ではなく、「穢多村」、そして、その住人として「穢多」という言葉が、復権され、本来の輝きを放つようになったときにだけ、部落差別のほんとうの姿が解明され、部落差別の完全解消が実現されるのではないかと思います。

明治の法学者のひとりは、「穢多を穢多視するは不当なり」([71-06])といいます。

「穢多は穢多にあらず・・・」。

主語として用いられている「穢多」(前者)と述語として用いられている「穢多」(後者)とはまったく異なる意味を持っています。ひとつは、被定義事項であり、もうひとつは定義事項です。「穢多」なる概念は二重定義なのです。「穢多」概念の二重定義、多重定義に気づいたひとはそう多くはありません。歴史学・社会学・民俗学などの個別科学研究がなしえなかったことに挑戦する、「穢多」という言葉を、明治以降の部落差別というるつぼから取り出して、本来の輝きを取り戻させる、それも、『部落学序説-「非常民」の学としての部落学構築を目指して』の大きな課題なのかもしれません。「穢多」という言葉は、彼らが自分の言葉で自分を語ることができる、たったひとつの言葉だったからです。

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