2021/10/04

穢多村の原風景

 近世の穢多村・・・


それは、どのような村なのでしょうか。

「被差別部落」出身ではない筆者にとっては、近世の幕藩体制下の穢多村を何とか想像してみようとするのですが、ほとんどこれといったイメージを思い浮かべることはできません。『部落学序説』を執筆するために集めた、歴史資料や伝承、昔話をひもといてみるのですが、近世穢多村の風景を描くとっかかりさえ手にすることはできませんでした。このブログの読者の中に、近世穢多村の伝承を継承し、近世穢多村が何であったのか、その原風景を知っている人がいたら、是非、教えていただきたいと思っています。

近世の穢多村がどのような村なのか、思いを馳せていたある日、小学校のとき、担任の教師が話していた、「水田・塩田・皮田」という言葉を思い出しました。水田を耕すのは、ただの百姓。塩田で塩をつくるのは、塩百姓。皮田で皮革を生産するのは皮百姓・・・。それ以上のことは思い出せないのですが、私が小・中・高で勉強していた頃住んでいたのは瀬戸内海に面した小さな町でした。そこは、江戸時代のときに、遠浅の海を干拓して、塩田が作られた場所で、日常、塩田で働く人々の姿をよく目にしていました。

「塩田で働く人々を昔、塩田百姓と呼んでいた・・・」と、その時耳にしたように思うのですが、まだ半世紀しかたっていないのに、私たちの生活や記憶から、その塩田や塩田百姓はその姿を消してしまっていました。小学校に上がる前までは、入浜式塩田でした。塩田百姓の人が、大きな熊手のようなもので、塩田の砂をならしていました。やがて、流下式塩田に変わり、昔の塩田の姿は、著しく様変わりしてしまいました。そして、高度経済成長の時代にはいると、今度は、真空式製塩法が採用され、潮を天火でほして塩を採るのではなく、油をどんどん炊いて、それでもって潮から塩を蒸留する方式へと変えられていきました。そして、中近東の戦争と石油の高騰で、真空式製塩法は経済的に採算がとれない状態になり、結局、塩田は姿を消し、そのあとには、工場や駐車場、商店街やボーリング場、JRの操車場へと姿を変えていきました。日本は、外国から、純度の高い岩塩を輸入するようになり、日本の製塩業は壊滅的打撃を受けました。

私は、小学校から帰ると、よく、塩田にいって、その岸壁から海を眺めたり、釣りをしたりしていました。夕暮れどきには、浜夕顔や月見草の花がきれいに咲いていました。潮風を思い切り吸うと、何かほっとするようなところがありました。ところが、そういう、ふるさとの光景が、高度経済成長にともなう、工業都市化、近代化によって、ほとんど姿を消してしまいました。岡山県倉敷市児島には、塩生(しおなす)という遠浅の海が延々と続く場所がありました。しかし、そのような、日本人の、瀬戸内に住む人々の原風景のひとつが姿を消していきました。「ふるさとにいてふるさとを失う」・・・、そんな淋しい思いを経験したのは、私ひとりではないでしょう。

塩田だけでなく、水田も同じです。自宅から小学校までの通学路、少し市街をはずれると、青々とした稲田が続く畑の中の一本道を小学校目指して歩いていったものです。水田と水田の間を流れる、ちいさなせせらぎや用水路は、学校の帰り際、小学生たちが、メダカをとったり、フナをとったりする遊び場でした。しかし、農業の近代化とかで、パラチオン製剤という農薬が撒かれた次の年には、メダカの姿はどこにもありませんでした。農薬で荒れた水田は、次第に、姿を消し、住宅地や工場へと変身していきました。塩田だけでなく、水田も、その原風景を失ってしまったのです。「故郷にいて故郷を失う」、その寂しさは耐え難いものです。

それでは、「皮田」は?というと、私が住んでいたところには、そういう場所はありませんでしたから、戦後の高度経済成長の中で、「皮田」がどういう運命をたどっていったのか、知るよしもありませんが、そうとう大きく変貌し、やはり、「故郷にいて、ふるさとを失う」、そういう経験をされたのではないかと思います。

「水田」や「塩田」については、私の中に、「原風景」が存在しますが、「皮田」については、何の記憶もありません。ただ、「水田」や「塩田」から類推・想像するのみです。

なぜ、「近世穢多村の原風景」を追求しようとするのかというと、それは、そういう作業をすることで、筆者の中にある先入観や偏見、意識・無意識を問わず、差別的社会の中で継承を余儀なくされているものの見方や考え方をできる限り排除するためです。意識する分だけ、筆者は、先入観や偏見から自由になることができると思っています。

あるとき、『部落解放史 熱と光を』(部落解放研究所編)の上・中・下3巻を読みました。『部落解放史 熱と光を上巻』(部落解放研究所編)の中に、「革製品となるまでの工程」として、全16工程が紹介されていました。その工程に着目しながら、「皮田」の立地条件を検証していて分かったのですが、「皮田」が存在・成立するためには、①豊富な川の水、②良質の塩、③上等の菜種油が必要なことがわかりました。

長州藩のいろいろな歴史地図をひもときながら、その条件にあう場所を想像してみますと、長州藩の「穢多村」の中で、最も大きな「穢多村」のひとつが、その条件を満たしていることが分かりました。その「穢多村」は、農村地帯の真っただ中にあって、春になると、「穢多村」周辺には、黄色の菜の花が咲き乱れたと思われます。江戸時代、菜種油は、貴重な資源でした。その「穢多村」は、島田川の上流にあり、「穢多村」の中を貫いて流れています。島田川を下ると、そこは、瀬戸内海の天然の遠浅、昔から、塩田(しおた)で塩を栽培していました。豊富な川の水、良質の塩、上等の菜種油が手に入るその「穢多村」は、長州藩最大の「穢多村」であり、幕藩体制下の「皮田」としての「穢多村」の立地条件を満たしていました。

そこで、ふと疑問に思ったのですが、島田川の上流に位置するその「穢多村」は、島田川の川の流れに原皮をつけます・・・。そして、近隣でとれた高品質の菜種油と、島田川の下流から舟で運ばれてきた瀬戸内の天然の塩を用いて、皮の加工をして革を作ります。百姓たちは、その島田川の、同じ水を飲料水にしたり、農業用水にしたりして、上流から「穢多村」を貫いて流れくる島田川の水を生活用水として使っていたのですが、百姓たちが、その水を問題にしたことは一度もないのです。「穢多村」から流れ出る「穢れた」水・・・、それを差し止めるために百姓一揆が起きたという事例はひとつもありません。そのとき、もしかしたら、江戸時代の百姓の穢れ観と、現代社会に住む私たちの穢れ観とはかなり違いがあるのではないかと思わされました。

『部落学』の研究対象である「部落」民でないものが、戦後の時代を通り過ぎ、戦前の昭和の時代、そしてもっと前の大正、明治の時代を通って、近世「穢多村の原風景」を手にすることができるというのは、本当に絶望的な試みです。しかし、どんなに時代がかわっても、なんらかの形で、その昔の原風景を伝えるものが残っているはず・・・。どんなにちいさな断片でもそれを寄せ集めて再構成することで、近世「穢多村の原風景」を復元することができるのではないかと思いました。

そんな思いをもって、史料を漁っていたとき、山口県立文書館の研究員・北川健の書いた論文の中に、長州藩・近世穢多村の原風景のような、山口県北の被差別部落に伝わる伝承を目にしました。

少岡ハ垣ノ内
山部は穢す皮張場
長吏の役ハ高佐郷
何そ非常の有時ハ
ひしぎ早縄腰道具
六尺弐分の棒構ひ
旅人強盗せいとふし
高佐郷中貫取

わずか8行の短い伝承ですが、北川は、近世、幕藩体制下での「穢多村の伝承」であるといいます。この伝承は、今日まで、近世穢多村の「景観と態様」、その「典型」を伝えているというのです。私は、この伝承の中に伝えられている「穢多村」の姿が、近世穢多村の原風景に一番近いのではないかと思いました。この伝承を精読し、分析していけば、江戸時代の穢多村のほんとうの姿を自分の目で見ることができるのではないかと思わされました。「水田」・「塩田」に続いて、「皮田」に親近感を覚えた瞬間でした。

当時、山口県立文書館の研究員であった北川健は、この8行詩を、《山口県の文芸の中の部落の歴史》と題した講演の中でも触れておられますが、この8行詩は、他の歴史学者や研究者、また民俗学者やその研究者の注目をひくところとはなっていません。私は、かえってそのことが幸いしていると思われます。この伝承は、差別的な歴史観や歴史解釈のケガレに染まっていない、純粋無垢な形で存在し続けている希有な伝承であると思わされました。

北川がいう、「近世被差別部落の景観と態様」を伝える、「典型」的な伝承は、それを正当に解釈してくれる、解釈者を求めていると、思わされました。この8行詩は、近世穢多村の住人が、住人が帰属する「穢多村」と「穢多」について歌いあげた歌です。

「部落学」を指向するものは、なんらかの形で、はるかに過ぎ去ってしまった遠き時代の、近世「穢多村」の原風景を己の中に復元しなければなりません。人は誰でも、何も描かれていない真っ白なキャンパスのような心や精神を持つことはできません。生まれてから現在まで、様々な言葉や像をこころに刻みながら生きています。自分で刻み込む場合もありますし、また自分の意志とは関係なく、外からの力で、教育や学習によって、刻み込まれる場合もあります。「真っ白なキャンパス」というようなものは、ありもしない幻想以外の何ものでもないのです。だから、できる限り、自分の心や精神が「真っ白なキャンパス」に近づくことができるよう、研究者が研究対象に対して抱く「原風景」を明らかにし、言葉化する必要があるのです。

「部落学」は、決して、学者や研究者が、己の中に無意識にもっている被差別部落に対する「原風景」を絶対化し、それを、賤民史観という枠組みの中で、みじめで、あわれで、気の毒な面だけを強調して描いてみせるような独善的な研究であってはならないと思います。「部落学」は、差別意識を、史料や伝承の中に読み込むのではなく、できる限り予断と偏見を排除して、仮説的に設定した「原風景」を検証しながら、歴史的にほんとうの「原風景」にたどり着くという営みでなければなりません。

近世穢多村の「景観と態様」を伝える8行詩の形をとった伝承・・・。この伝承を、どう読み取るか。

それは、「部落学」構築が可能かどうかの試金石になります。

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