2021/10/03

被差別者からの声「一般の人たちの差別意識・・・自分たちもしりたい」

被差別者からの声「一般の人たちの差別意識・・・自分たちもしりたい」(旧:部落学序説余話 その3)

福岡安則氏は、「何を聞き取るのか、をあらかじめ固定してしまったら、聞き取りにならない。」といわれます。

「調査する側が、あらかじめ持っている枠組みを、語り手の生活世界へ押しつける・・・」とき、「部落問題に何年かかわったか。被差別部落へ何回行ったことがあるか。住民意識調査、実態調査を何回したか・・・」、そのことを主張しても、その調査は、「知的頽廃」以外の何ものでもないと「自戒をこめて、そう思う。」と言われます。

福岡安則氏のことばを逆に考えますと、それが、数少ない聞き取り調査であったとしても、被差別部落のひとびとから、その歴史と文化、生活と暮らしを文字通り聞き取ることができたとしたら、それは、「学歴・資格」を持たない、<ただのひと>によってなされた聞き取りであっとしても、「知的探求心」の真の発露としての聞き取り調査になるわけです。

部落研究・部落問題研究・部落史研究の学者・研究者・教育者が「あらかじめ持っている枠組み」としての、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」については、『部落学序説』の中で繰り返し指摘してきましたが、日本の社会学のなかにも、社会学が「あらかじめもっている枠組み」のようなものはあるのでしょうか・・・?

福岡安則・好井裕明ほか編著『被差別の文化・反差別の生きざま』(明石書店)の、聞き取り調査方法、「奈良県御所市の小林部落」で聞き取り調査、調査結果の批判・研究を読んでみますと、漠然とではありますが、社会学のなかにも、社会学が「あらかじめもっている枠組み」のようなものがあるあのではないかと想定されます。

その可能性をしめしてくれたのが、福岡安則氏の「差別意識把握への社会学的可能性」(1981)という論文です。

福岡安則氏は、あるとき被差別部落の側から「問題提起」をされたといいます。その問題提起というのは、「被差別部落での聞き取りを続けるなかで、あるとき、”われわれが受けてきた差別の体験を聞くのもけっこうだが、いわゆる一般の人たちの差別意識の調査をやるべきではないか。まわりの衆がなぜこうもわれわれを差別するのか、”自分たちも知りたい”との提起をうけた。」というものです。

被差別部落の側からの問題提起に対して、福岡安則氏は、このように記しています。少し長い引用になりますが、そのまま引用します。

「もっともな問題提起だ。たしかに、部落差別をはじめとする社会的差別は、差別する側に位置するものと差別する側に置かれたものとの関係性の問題として解明されなければならないものだ。もっと端的にいえば、差別する人たちがいるからこそ被差別者が存在せしめられているのだから」。

被差別部落の側からこの問いかけをうけた福岡安則氏は、「被差別部落での聞き取り」だけでなく、部落差別する側の「一般部落での聞き取り」を引き受けることになった・・・と思いきや、「だが、そのときは、その提起をお断りしようとした。」といいます。

「理由は二つ。一つは、現在部落問題に適用されているような社会学的な意識調査では、タテマエ意識の背後のホンネ意識までは把えられそうにないこと。どうせあらかじめ予想のつく程度のことを再確認するだけの調査であれば、やっても無駄である。いま一つは、差別意識の調査をするということは、時に潜在化した差別意識を顕在化せしめることにもなる。ここは行政による啓発活動も、なにも行われていないに等しい状況だ。調査する側なり解放同盟の側でしかるべき体制が準備されていなければ、それは危険なことでもある。やっても無駄で、やれば危険なことにもなりかねない調査はよしにしましょう、というのがぼくの言い分であった」。

福岡安則氏は、『被差別の文化・反差別の生きざま』(1987)のなかで、社会学者の聞き取り調査は、「失敗」を経験しながらの作業であったことを語っておられますが、「失敗」を広範にとらえますと、「差別意識把握への社会学的可能性」(1981)は、その6年前の話ですから、『部落学序説』の筆者の目からみますと、問題ありと見える「差別意識把握への社会学的可能性」の記述も、福岡安則氏にあってはすでに克服・払拭されているのではないかと思われます。

しかし、「無学歴・無資格」の筆者の手元にある福岡安則氏の論文は極めて限定された少数でしかありませんので、福岡安則氏の研究史・精神史について言及することなど遠く及びません。これまでの『部落学序説』の記述のように、筆者の「無学歴・無資格」の愚をあえておかして発言すれば、福岡安則氏の上記のことばのなかには、福岡安則氏が「あらかじめもっている枠組み」が明確に存在しているように思われます。

1.被差別部落の聞き取り調査方法は、被差別部落を対象に特化したものである。
2.その聞き取り調査方法は、差別者の聞き取り調査方法として転用できない。
3.あえて適用しても、入手することができる調査結果は表層的なものでその真意を解明することはできない。
4.むしろ、差別者に聞き取りを実施することで、「潜在化した差別意識を顕在化せしめる」ことにもなり、部落解放運動のさまたげになる。
5.その「危険」性がある限り、差別者に対する聞き取り調査は実施すべきではない。

福岡安則氏は、その論文のなかで、「どうせあらかじめ予想のつく程度のことを再確認するだけの調査であれば、やっても無駄である。」といわれますが、「無学歴・無資格」のしろうと学の筆者の目からみますと信じがたい学者・研究者・教育者としてのことばです。

「どうせ」ということばほど、学者・研究者・教育者にふさわしくないことことばはありません。

「どうせ」ということばは、森田良行著『基礎日本語』によりますと、「細かな問題をあれかこれかと詮議している場合、そのような問題設定以前に、すでにより基本的な大前提が定められていて、いずれにせよ結局はその前提通りに事が落ち着くのだという発想。」を表現することばです。

森田は、このように説明を続けます。

「どうせ」には、事態はすべて大前提に支配され、その基本の流れに従うのだから、末梢的問題を顧慮するのはむだだという、投げやりで無責任な意識が潜む。細かい考慮・思惑・思考の中から解決のいとぐちを見つけ出し、一歩一歩前進しようという真摯な態度がない。一足飛びに終着点に結論を持っていくという無茶な決断である。AになるかBになるかを問題とせず、”結局なるようにしかならないのだから、そんなことに心を煩わすのはむだだ”という思考である」。

「どうせ」ということばほど、学者・研究者・教育者にふさわしくないことばなないのではないかと思わされます。それは、学者・研究者・教育者として徹底しなければならない研究の無責任な恣意的な放棄を意味するからです。

福岡安則氏のことばを耳にして、被差別別部落の側がどのように反論したのか、想像に難くありません。

福岡安則氏は、このように記しています。

「ただし、このぼくの言い分は、ただちに、”あなたも社会学でメシを食っているなら、タテマエにおわらずホンネに迫れるような調査のやり方を考えてほしい。調査ということで部落問題をつきつけられて、悪い意味で寝た子がおきるということはあるだろうと思う。そこは、ホンネをきけるだけきいたところで、あなたの言ったことはまちがっていると説得するなり、わかりやすいパンフレットを作って読んでもらうなり、どういう手をうつかは一緒に考えようではないか”ときりかえされたのではあるが」。

部落差別はなぜ存在するのか・・・?

33年間15兆円をかけて実施された同和対策事業・同和教育事業にもかかわらず、部落差別はなぜ存在するのかという問いに対して、十分納得のいく説明を提供していません。

むしろ、明治以降、日本の社会の中に部落差別を普遍化してきた、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」は、奈良県御所市の「小林部落総合実態調査団」結成の呼びかけ人のひとりである、歴史学者・社会学者の沖浦和光氏等によって、ますます、現代的装いを与えられて、一般化・普遍化されようとしています。

『部落学序説』の、「無学歴・無資格」の筆者は、福岡安則氏のいわれる<ただのひと>であると同時に、<どうせあらかじめ予想のつく程度・・・>の「差別(真)」の側からの、山口県北の寒村にある、ある被差別部落の古老に対する聞き取り調査とその批判・検証、分析と総合の一試みを遂行しているに過ぎません。

社会学に内在する差別思想があるとすれば、それは、「愚民論」ではないでしょうか・・・?

つねに「愚民」にくみいれられ、批判と中傷にさらされる『部落学序説』の筆者である私は、これからも「無学歴・無資格」を標榜し、素人学に徹し(この形でしか「学」に関与する道がない・・・)、「差別者」の側、「差別(真)」の立場から、「部落学」を遂行し、季節はずれの部落差別完全解消へのあらたな道を提言していくことになります。

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