2021/10/03

部落史研究上の禁忌

部落史研究上の禁忌

(執筆時)この1カ月間・・・いたずらに無為な時を費やしました。あとに残ったのは、ただ無力感と疲労感のみ・・・。『部落学序説』執筆を開始してから、ただひたすらディスプレイに向かつて頭の中にある原稿をタイピングしてきたのですが、つい、タイピングにともなう誤字・脱字・余字の処理を後回しにしてしまいました。そのうち、『部落学序説』の読者の方(部落解放同盟の関係者の方)が、誤字・脱字・余字の訂正をしてくださるようになりましたが、筆者は、ありがたく感謝してそのご好意にあまんじていました。しかし、そのうち、単なる誤字・脱字・余字の訂正だけでなく、筆者の書く、文章の内容にまでコメントを入れられるようになりました。彼等が営みをしてきた部落解放運動の方向性に沿うように、筆者の『部落学序説』を誘導するねらいがあったようですが、筆者が、宮武外骨について触れ出した頃から、論文の方向性と内容について、明確な介入をはじめられました。そして、その結果として、執筆途上の(旧)第4章以下の文書群を削除することになりました。解放同盟の関係者の方からいただいた「抗議文」には、筆者の文章「被差別部落と姓」について、「部落民の自主運動を否定するような論法」、「配慮を絶対化することで、名前をタブー視する主張になっている」、「カミングアウトを抑圧する論理」、「差別現実への従属、支配された枠へとゆがめることになる」と激しい語調で批判が羅列されてありました。『部落学序説』の執筆を開始したとき、近寄ってこられ、そして、ある段階に達したとき、筆者の執筆する『部落学序説』の内容と方向性に違和感を感じられて、去っていくときの「決別状」がこの「抗議文」であったのであろうと思います。この1か月間の、彼等との精神的やりとりには疲れはて、(旧)第4章以下の文書群を削除したあとは、(新)第4章以下の執筆になかなか取りくむことができませんでした。なんとか自分を奮い立たせようと努力してみたのですが、部落解放同盟の関係者に対して抱き出した失望感と嫌悪感はいかんともしがたいものがあります。その原因は、とりもなおさず、筆者が、部落解放同盟の関係者の方が自主的に、『部落学序説』の誤字・脱字・余字の校正をしてくださることに、あまんじてきたことにあると思います。今後は、『部落学序説』の執筆計画、論文校正の内容、使用する史料や資料について、あらかじめ、他者に披露することはやめることにしましょう。不用意に楽屋裏を覗かせてしまったことが、今回のトラブルに発生したものであると反省することしきりです。本来、『部落学序説』は、「常民」である「百姓」の末裔としての立場から、「非常民」である「穢多」の末裔の「歴史」(物語)を書くことではじめたわけですから、筆者のものの見方・考え方と、部落解放同盟の関係者の方のそれとの間には、越えることができない「淵」があることは予測されていました。しかし、そういう「淵」が何もないかのごとくに、『部落学序説』を執筆開始後、しばらくしてから、校正をめぐって交流が生じた・・・ということは、結果として、良かったのか悪かったのか・・・。筆者の『部落学序説』の執筆を大きく頓挫させたという点では、部落解放同盟の関係者の方は、一定の仕事をされたと思います。「賤民史観」に依拠し、「賤民史観」にのっかつて部落解放運動を展開され、今後も「部落民の自主運動」として、「賤民史観」の線に沿って運動されようとしておられるのですから、今回何も起こらなくても、「水」と「油」のごとき関係が続いていたと予想されますので、今回、「抗議文」によって関係が破綻したことは、筆者と部落解放同盟の関係者の方の両者にとって、将来的には、すっきりした関係になってよかったのではないかと思います。「常民」の立場から書かれた論文と、「非常民」の立場から書かれた論文との間に齟齬があるのは当然です(「切支丹」の末裔と宗教警察である「穢多」の末裔との間には、当然齟齬が存在します)。近世幕藩体制下の、司法・警察である「非常民」としての「穢多」について言及しているうちならともかく、明治維新以降、近代国家建設途上における「元穢多」・「新平民」が、外交・国策の都合で、「特殊部落民」として切り捨てられていく・・・その過程について言及するときは、近世の「穢多」についての言及以上に大きなギャップが出てくることになるでしょう。部落解放同盟の関係者の方が、筆者の書斎・楽屋裏に入ってこられて、『部落学序説』の内容や方向性をあれこれ発言されるのは、両者の関係にとって、軋轢だけを積み重ねることになるでしょう。部落解放同盟の関係者の方に限らず、筆者の書斎、『部落学序説』執筆の楽屋裏は、二度と公開しないようにしたいと思います。

筆者は、近世幕藩体制下においては幕府や諸藩において、また、明治初年代において明治天皇制国家・政府によって、宗教弾圧を受けた「切支丹」(基督者)の「末裔」として、宗教警察という権力存置の主要な担い手として、「切支丹」弾圧(探索・捕亡・糾弾)に従事してきた「穢多」の「末裔」との間に、被差別(切支丹)・差別(穢多)の緊張関係が生じることは必定です。差別された側(切支丹)には、差別する側(穢多)に対して、当然、もの申す権利が発生します。

近世幕藩体制下で、「身分外身分」・「人間外人間」にされたのは、近世幕藩体制下で宗教弾圧を受けた人々なのです。代表的なものは「切支丹」や日蓮宗の「不受不施派」です。筆者が、「切支丹」(基督者)だけでなく仏教等他の宗教に関心を寄せるのも、この「宗教弾圧」という主題によります。

かつて、「朝鮮人」と「被差別部落」の関係が、「差別」・「被差別」の関係ではなく「被差別」・「差別」の関係であると指摘されたように、近世幕藩体制下及び明治初期においては、「切支丹」(基督者)と「穢多」(被差別部落)の関係は、「差別」・「被差別」の関係ではなく、「被差別」・「差別」の関係なのです。

部落解放運動に従事してきた人々は、日本の歴史学に内蔵されている「賤民史観」にのっかつて、自分たちを「みじめで、あわれで、気の毒」な「いわれなき差別をてきた人」として描きがちになりますが、本当にそうなのでしょうか。「切支丹」(基督者)の「末裔」の立場から見ますと、近世幕藩体制下の司法・警察である「穢多」は、「切支丹」(基督者)に対して、苛酷な取調べ(「糾弾」といいます)を実施し、その存在を密告しては、「切支丹訴人」として、宣教師1人銀300枚、修道士1人銀100枚、信者1人銀50枚を受け取ってきました。差別された、「みじめで、あわれで、気の毒な」人どころか、むしろ、「切支丹」(基督者)を「みじめで、あわれで、気の毒な」境遇へと追いやってきた側に身を置いてきたのではありませんか。

もちろん、大半の「穢多」は、そのような残虐非道な職務に従事することなく、近世幕藩体制下の司法・警察として、当時の法に従って、黙々とその職務を忠実にこなした人々であることは想像に堅くありません。「切支丹」(基督者)弾圧という、権力のしかけた「特別事業」に眼の色を変えて群がっていった人々は、「穢多」の中でも少数派であったと思われます。しかし、「穢多」の中に、このような人材を少なからず抱えていたことも事実です。

近世幕藩体制下の「穢多」が、やがて、「特殊部落民」として、差別され排除されるようになっていくのは、日本国家の「国辱」である不平等条約(治外法権と関税自主権)の撤廃を急ぐ、明治政府による国策・失策が大きな原因をなしています。明治政府は、近代国家建設時に想定していなかった選択を余儀なくされます。日本の政府は、その国策・失策をいつも念頭においていて、戦前は、融和事業、戦後は、同和事業を展開してきたのです。融和事業・同和事業の本質は、一般説・通説と違って、政府による、過去の国の国策・失策に対する「賠償金」に相当するのです。

同和地区の人々に対してだけ、特別事業が実施されるのは、そのような背景があるからです。

その証拠に、近世幕藩体制下、司法・警察である「非常民」としての同心・目明し・穢多・村方役人から、「切支丹」(基督者)故に迫害と弾圧を受け、「人間外人間」の苛酷な状況の中で尊い命を失っていった彼等に、近代以降の政府は、少しでも賠償をしたのでしょうか。近世幕藩体制下においても、明治以降においても、「宗教弾圧」を受けた側は、政府からいかなる賠償も受けていないのです。受けているのは、「宗教弾圧」に従事してきた「穢多」の側です。日本の政府は、それだけ、近世幕藩体制下の司法・警察であった「穢多」を切り捨てざるを得なかったことに、「痛み」を持ち続けていたのです。

政府は、歴史の事実をあきらかにしないまま、対症療法的施策のみを実施しましたので、「同和地区」という政策用語を創出して、「同和地区」として指定を受けた地区とその住民に対して、同和対策事業を展開したのです。当然、その中には、明治政府によって切り捨てられた、司法・警察官である「穢多」身分だけでなく、そのあとの社会変動で「特殊部落」に流れ込んできた、「武士」や「百姓」の末裔を含んでいました。対症療法的な施策に終始した政府は、「似非同和行為」を最初から想定し、黙認してきたのです。

部落差別の原因が「国」や「政治」にあることを究明しないという「密約」のもとに・・・。

「密約」を文書で確認しているわけではありませんが、部落研究・部落問題研究・部落史研究に従事してこられた歴史学者や教育者の研究動向を分析すればよくわかります。彼等は、常に、明治4年の太政官布告、通称「解放令」から筆を起こします。日本歴史学の差別思想である「賤民史観」にのっかつて、「近世幕藩体制下で差別されていた穢多は、明治になって天皇の聖意によって、被差別身分から解放されました・・・」と説いてきました。

究明しなければならないのは、明治4年の太政官布告までの間に、いったい何が起こったのか・・・という、その経過の解明であるはずなのに、その問題の中心に近付こうとする研究者や教育者は、常に、遠心力によって、明治4年の太政官布告の真意に達する前に、周辺的領域へとはじきだされてしまいます。部落史研究において、明治4年の太政官布告は、触れることに対して「禁忌」の状態に置かれているのです。明治4年の太政官布告の研究をした上杉聡にしても、彼の論文をてがかりに、明治4年の太政官布告の本当の意味を調べようとする読者を、その中心から限りなく遠くへ、遠心力ではねとばしてしまいます。見せるのは「賤民史観」的像だけであって、明治政府による政治的意図は伏せたまにしていると思われます。

筆者は、学歴も資格もなく、現在までの生涯において、高等教育を受ける機会は一度も与えられませんでした。今後もないでしょうから、学問とはまったく無縁の存在です。無縁の存在であるということは、学会の常識や通説・一般説に影響されないということでもあります。阿部謹也がいう、学問の世界における「世間」の影響を受けることはないということです。今後も、『部落学序説』執筆のさまたげになるような「世間」を持つことも、その中に入っていくこともないでしょう。

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