2021/10/03

明治2年公議所と「国辱」談議

明治2年公議所と「国辱」談議


「穢多」談議・・・一風変わった主題に戸惑われるひともおられるかもしれません。

これは、明治2年2月に明治政府によって開設された「公議所」においてなされた、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての「穢多」に関する「談義」(話し合い)を批判的に検証する・・・という意味です。

最初、「論議」という言葉を使っていたのですが、「論議」より、「談議」の方が相応しいのではないかと思って、上記の主題になったわけです。

「公議所」は、「公議人」によって構成されていました。「公議人」は、各藩から1名ずつ選出されました。明治維新の際の官軍・賊軍に関係なく、すべての藩から、「公議所」に「公議人」が送られたのです。当然、幕末期の支配階級の中から人選されました。「封建郡県」論では、「郡県」よりも「封建」の方が有力であったし、廃刀案が提出されたときは、提案者を除く全公議人が反対を唱える場面もありました。要するに、五箇条の御誓文に、「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ」の言葉に沿って実施された会議は、旧支配階級の発言の場所を提供するに留まったのです。

「公議所」において、被支配階級である民衆の意見が反映されるというようなことはほとんどあり得ませんでした。

『明治維新と部落解放令』の著者・石尾芳久は、「坂本竜馬の死-言論と暴力-」の中で、坂本竜馬は、「武闘を克服して・・・言論を尽くしての国家形成の方法が最良である」と考えていたといいます。坂本竜馬が抱いていた理想は、「議会中心主義」でした。

石尾は、坂本竜馬は、「討幕を推進する根拠となる世論を形成しようとした」といいます。坂本竜馬は、その世論の担い手として、「賤民」層を想定していたといいます。坂本竜馬は、その「賤民」層に属する人々として、「穢多・非人」ではなく、「耶蘇教徒」、つまり、「キリシタン」を想定していたといいます。近世幕藩体制下において、「非人身分、賤民身分に身分貶下された」人々として、「キリシタン」を想定していた・・・というのです。

日本の近代国家は、近世幕藩体制下で、身分外身分、社会外社会として、「賤民」として、排除・抑圧・弾圧されてきた「キリシタン」に対しても発言の自由を与えるものでなければならないというのです。

もちろん、坂本竜馬は、討幕後、近代国家を建設するときには、「国体」を、「神道ヲ基礎トシ、儒道ヲ輔翼トセン」といいます。

慶応3年(1867)、「浦上四番崩れ」と言われる、長崎浦上の隠れキリシタン達が、その信仰を告白するという事件が起きた直後のことです。

もし、坂本竜馬の説く「議会中心主義」が主流を占めていたら、近代日本国家は、諸外国との間の不平等条約(治外法権と関税自主権)の撤廃に、すみやかに漕ぎ着けることができたのではないかと思います。

しかし、キリシタンをも含む、徹底した「議会中心主義」の思想は、幕府側・反幕府側の両方から批判の対象にされてしまいます。そして、坂本竜馬は、「民衆の平等、賤民身分を克服する平等の実現」を主張したために、暗殺という「暴力」によって、この世から取り去られてしまいます。

坂本竜馬は、司馬遼太郎のいう、「第1級の人物」に該当するといっても過言ではありません。

明治政府は、「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ」と唱えても、そこには、民衆の声まで反映させる意図は持ち合わせていなかったのです。百姓・町民の民意を聞き、それを含みながら、国政を行うという発想は皆無ではなかったかと思われます。

官軍・賊軍と別れて戦った藩が、刀の血のりが乾かぬ間に、「公議所」というひとつのテーブルについて、国政について議論をする・・・、というのですから、その内容は容易に推測できます。彼等に斬新さを求めるのは、木に登って魚を求めるに過ぎなかったのではないかと思われます。

筆者は、『明治維新と部落解放令』の著者・石尾芳久の説に、深い関心を持ちます。

なぜなら、土佐藩士・坂本龍馬は、近世幕藩体制下の「賤民」として、「穢多・非人」ではなく、「キリシタン」をあげているからです。

このことは、幕末期において、「穢多・非人」は、「賤民」の部類に数えられていなかった・・・ということを物語っているのではないでしょうか。「穢多・非人」が、今日の「賤民史観」に立脚した部落研究・部落問題研究・部落史研究に携わる学者や教育者が言うように、「身分外身分」・「社会外社会」であるなら、当時数十万人いた「穢多・非人」に発言の自由を与える方がより大きな意味を持ったのではないかと思います。

しかし、坂本竜馬は、一度も「穢多・非人」について言及していないということは、坂本竜馬の目から見ると、「穢多・非人」は、賤民ではなかったということなります。

事実、「公議所」での談議中、「穢多・非人」を論じるときも、「穢多・非人」を指して、「賤民」と呼ぶ事例はありません。「穢多・非人」は、「穢多非人」あるいは「穢多非人ノ類」等として、ストレートに表現されています。

明治新政府は、諸藩からの声に耳を貸しているように見える「公議所」ですが、「実際には、中央政府の指導者が諸藩の指導者にスローガンを与えて・・・、あたかも諸藩の自由な発意からでたかのように利用している」(『オーストリア外交官の明治維新』)に過ぎません。

明治2年2月から8月までの「公議所」での談議の内容は、新聞『公議所日誌』によると、「日本の国辱をどのようにしたら、すみやかに取り除くことができるか」という一点に集約されると思います。

「公議所」のオピニオン・リーダーは、岩倉具視です。

岩倉は、「目今ノ如ク外国ノ兵隊ヲ我ガ港内ニ上陸セシメ、又居留洋人ノ我ガ国法ヲ犯スモノアルモ彼ガ国ノ官人ヲシテ之ヲ処置セシムル等ハ、尤我ガ皇国ノ恥辱甚キモノ」といいます。

岩倉は、諸外国の人が来日する件数が増加しているが、それに連れて、日本人と外国人の間の殺傷事件が発生している、日本人によって外国人が危害を受けた場合、その国の政府によって抗議を受け、毎回多額な賠償金を要求される、しかし、外国人によって日本人が殺傷事件の被害者にされるとき、その国の政府は一銭の賠償金も出さない。日本人被害者は泣き寝入りを余儀なくされている。憤懣やるかたない・・・、とその真情を露にします。

岩倉は、「皇国ノ大恥辱」を取り除くことを、 最優先課題にします。明治2年2月28日の岩倉具視の言葉です。

岩倉具視は、全国から「公議所」に招集された「公議人」をして、この「皇国ノ大恥辱」を取り除くべく、「対外関係について我が国の恥辱を拭い去る方法に関する17項目」を、日本国民の民意として提言させたのではないかと思います(講談社学術文庫『英国外交官の見た幕末維新』)。

その13項目にこのような提言があります。

「外国人追々兵員を居住せしむるは、我政府内外人民を保護する能わざるを察し、その殺生与奪の権、政府に帰着するまでは兵隊を本国へ帰還することなりがたきを陳言す。それ殺生与奪の権政府に在り、内外人民を保護し、以て信義を貫くに在り。今や外国より我が国内の可否を制するに至る。此の汚辱を洗浄するの実計、果して如何」。

「公議所」で談議された、「穢多」に関する議題は、すべて、この「国辱」と深く結びついています。明治政府は、「あらゆる手段を尽くして」(『英国外交のみた幕末維新』)、この「国辱」を早急に晴らそうとします。

明治4年8月の太政官布告第61号は、この文脈の中で解釈されるときにのみ、その本当の姿を現すことになります。

日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」は、明治4年8月の太政官布告第61号の本質を著しくゆがめ、それを、「解放令」・「部落解放令」・「賤民解放令」・「賤称廃止令」・・・等と曲解します。

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