2021/10/03

渋染一揆(穢多が穢多であるための闘い)

渋染一揆(穢多が穢多であるための闘い)


柴田一著『渋染一揆論』は、何回となく精読しました。この書から、「部落学」に関する多くのことを学ばせていただきました。これからも、なお、多くの示唆を受けることになると思います。

柴田は、「幕藩制確立期の岡山藩主池田光政」の「穢多」についての施策を、かなり評価しています。しかし、残念ながら、日本の歴史学の差別思想である「賤民史観」を不問に付し、それを自説の前提としている関係で、彼の研究は、「通説」とあまり違いのない結論に達しています。

柴田は、岡山藩の「穢多」に関する施策について、「正徳3年(1713)のころを境に、手のひらをかえすように差別政策に転じた」といいます。正徳3年以前は、「穢多」の一部に「御徒格に準ずる厚遇」を与えたといいます。徳山藩で、「徒士」は、20石取りの藩士になります。それと同格というのですから、岡山藩は、さらに俸祿が上だったのではないかと思います。

ところが、柴田は、正徳3年以降は、「幕府・諸藩ともに部落差別を強化する方向に転じた時期」に、岡山藩も、それまでの善政と違って、「手のひらをかえすように差別政策に転じた」といいます。

部落史の研究者は、正徳年間の幕府の宗教政策について、あまり重きを置いていません。しかし、正徳年間は、新井白石が幕府の政務に関わっていた時代で、最後の宣教師、ヨハン・シロウテが日本に対するキリスト教布教のため、その偵察を兼ねて潜入するというショッキングな出来事がありました。その時代は、衝撃を受けた幕府が、キリシタン禁教の政策を確認し、もう一度、日本全体をキリシタン禁令下に置くために、宗教警察を強化した時代でもあります。

宗教警察は、穢多・非人だけでなく、それぞれの藩の宗教奉行以下、それ相当の人員が配置されていました。徳山藩の「家中諸法度定」によると、第一条に、「幕府の法令を堅く守り、吉利支丹宗は手がたくとりしまり、五人組として互いにせんさくすべきである」とありますが、この法度は、正徳年間で再び強化策が展開されました。

ただ、かっての島原の乱のように、血なまぐさい弾圧を「効果なし」として、直接的なキリシタン弾圧を避けようとした幕府と、近世幕藩体制下の中で、戦争のない安定した生活を営み、それなりの社会的実力を身につけてきた百姓は、「道理にはずれた無理非道な政治をおこなえば、黙って忍従するような農民では決してない。」という状況にありましたから、幕府は、正徳年間に再度、キリシタン禁令を強化するために、直接、百姓を取り締まるのではなく、キリシタンを「取り締まる側」、つまり、近世幕藩体制下の「非常民」の宗教警察としての機能を強化しようとします。

当然、「穢多・非人」は、キリシタンの探索・捕亡・糾弾等の第一線で活躍することを求められます。

年に1回実施される「宗門改め」だけでは、キリシタン禁教令を徹底することができないと悟った幕府・諸藩は、宗教警察としての「穢多」に対して、二人一組で、「戸別調査」を実施させたと思われるのです。彼は、宗門改め人別帳の写しを手に、「戸別調査」の対象に質問をしたと思われます。そして、記録と口頭による応答との間に相違があれば、また、疑わしい点があれば、一定の手続きに従って、キリシタンの探索・捕亡・糾弾を実施したと思われます。

キリシタンが見つかったときは、「穢多」はもちろん、「藩」にも、自由に処罰する権限はありませんでした。いつも、幕府に届け出て、その裁可に従わなければなりませんでした。

幕府は、その寺社奉行のもとで、すべての諸藩の宗教警察としての「穢多」を把握・管理していたと思われます。キリシタン禁教令をより徹底して実施するため、「穢多」組織の管理・強化を図るのですが、日本宗教史・キリシタン史に関心を持たない、部落史研究家によって、正徳・享保年間に実施された、宗教警察としての「非常民」の管理・強化、その一端としての「穢多」組織の管理・強化が見落とされてしまいます。

近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての「穢多」の存在が不問に付された結果、「穢多」に対する「差別強化」のみがクローズアップされるようになってしまいます。

正徳3年(1713)から、渋染一揆の原因となった安政2年(1855)の「御触書」が出されるまでの142年間、長期間に渡って、幕府のキリシタン禁教政策は功を奏し、取り締まられる「常民」だけでなく、取り締まる「非常民」の意識の中から、キリシタン弾圧の記憶が薄らいでいきます。

明治24年頃、旧幕代官手代八州取締・宮内公美は、「・・・考察などに切支丹宗門云々と書いてありましたが、切支丹というのは何の訳だか分からずに、まあ訳の分からぬ方が多いのでしたから、関東ではただ、切支丹・バテレンは恐ろしいものだという考えでいた位のことです。」といいます(『旧事諮問録-江戸幕府役人の証言-(下)』岩波文庫)。

安政2年(1855)年の「御触書」がだされる2年半前の嘉永6年(1853)、キリシタンが大挙して日本にやってきます。それが、「黒船」来航です。イタリアの宣教師が日本再布教のため単身日本にやってきたのとくらべて、「黒船」来航の際には、巨大な大砲を搭載した巨大な軍艦と共に日本にやってきたのです。

1854年、再度日本にやってきたペリーと幕府との間で、「日米和親条約」が締結されます。幕府は、アメリカ同様、イギリス・ロシアに対しても、「和親条約」を締結します。アメリカ・イギリス・ロシアの国は、いずれもキリスト教を国教にしている国々です。

幕府は、キリスト教の日本上陸を阻止しようとします。

岡山藩は、「幕府の命令で房総半島、ついでに摂津の沿岸の警備のために家老以下千数百人もの番兵・人足を動員した。」といいます。「巨額の費用をついやしたうえ、天災地変による莫大な災害復旧費がうわずみされた」といいます。岡山藩の借銀高は、年間支出総額の3倍を越える額に達していました。「破産寸前」の岡山藩は、領内への「黒船」侵入に備えて、洋式大砲や洋式銃の装備や、「非常民」の近代化を図らなければなりませんでした。

特に、「異国人徘徊」は、藩主のみならず、藩全体にとって、避けて通ることができない重大問題であったと思われます。

欧米の外交官の記録をみると、「異国人徘徊」は、幕府役人だけでなく日本の民衆、「常民」・「非常民」に大きな影響を与えたようです。日本人なら、当時の司法・警察が誰であるか、その身なりが少々違っていても、敏感に認識することが可能であったでしょう。

ところが、外国人には、「常民」と「非常民」の区別ができません。そのため、外交官の中には、「非常民」に対して、傍若無人的な態度をとる人がいましたし、また、「非常民」も、「切支丹・バテレンは恐ろしいものだ」という先入観から、キリシタンの前から、職務を忘れて逃亡する場合があったようです。

当然、岡山藩主は、「領内への「黒船」侵入に備えて、洋式大砲や洋式銃の装備」の他に、「領内への「黒船」侵入に備えて」、「警察」機能の改革と充実とをはかります。

そのひとつに、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての「穢多」を、司法・警察官として、顕在化させることでした。領内の司法・警察の顕在化によって、侵入・上陸してくる欧米人(キリシタン)に対する司法・警察官である「穢多」の存在を鮮明にするために、「非常民」としての「制服」、渋染・藍染の木綿でつくられた「制服」で統一しようと計画されたのです。

「渋染」・「藍染」が、差別の色であるという説は、日本の歴史学上の差別思想である「賤民史観」が作りだした、幻想・錯誤・誤認であったと思われます。

安政2年の「御触書」は、「全文29カ条からなり、そのうち前24カ条は、郡内の農・工・商・医者など、いわゆる「平人」を対象とするもの・・・」です。しかし、その「御触書」には、さらに5カ条が付加されていました。いわゆる、「別段御触書」と言われている部分です。

「賤民史観」に立つ部落史研究者は、「別段御触書」の5カ条を、「常民」を対象にした「倹約御触書」である、前24カ条から区別して、「差別法令」と解釈します。

『渋染一揆論』の著者・柴田一も、「岡山藩が部落差別のしかたにもことかいて、服装・持物など、一見してすぐにそれとわかるような露骨な措置をうちだしてきた藩当局のねらいはなんであったのか」といいます。

柴田は、その背景に、岡山藩の「部落差別のしかたが内面的差別から外観的差別へ、その重点のおきかた」が変わったことがあるといいます。柴田は、「外観的差別」が導入されることで、「百姓・町人と部落民衆とを意識的に引き裂き、逆に憎しみあう条件を作り出そうとしたのである」といいます。柴田は、「差別法令」の背後に、百姓と穢多の分断支配が存在していると主張しているのです。

『部落学序説』でこれまで確認してきた命題に従いますと、岡山藩の安政2年の「御触書」の前24カ条は、「穢多」の「家職」(農人)に対する規制、後5カ条・「別段御触書」は、「穢多」の「役務」(司法・警察官である「非常民」としての穢多の職務)に対する規制であると理解できます。

「村役人」から「穢多」に対して、この「御触書」が読み上げられ、「請取書」にサインを求められたとき、「穢多判頭」が答えた言葉の中にその裏付けが含まれています。

「此度御倹約之義に付、御百姓一同之御請は仕候得共、私等衣類格別の御請ハ御断申上べき」。

「穢多」の「家職」に対する「御百姓一同之御請」は承諾するけれども、「穢多」の「役務」に対する「衣類格別の御請」は承諾することができないというのです。

岡山藩が、別段御触書で、「穢多」の衣類を「無紋渋染・藍染」に限定する理由として、「平日の風体」を「御百姓」と区別するためのものであることが、第26条に明確化されています。

岡山藩の穢多たちは、「別段御触書」の撤回を求めて、藩に「嘆願書」を提出します。『渋染一揆論』の著者・柴田一は、その「嘆願書」の第5条をこのように要約します。

「すなわち、第5条では、部落住民は盗賊の追捕・治安維持のために身命を堵して働いているが、その部落住民を差別すれば、忠勤の意欲も仕事への情熱もたちまちうすれ、やがては、治安が乱れ盗賊が横行するべき結果をまねくであろうと述べている」。

私は、柴田の要約は、本文を無視しているように思われるのです。

まず、「穢多」を安易に「部落住民」(同和地区住民を想起させる)と言い換え、「無紋渋染・藍染」の木綿の強制を、「部落住民を差別」という言葉に置き換えています。柴田の中にある、日本の歴史学上の差別思想である「賤民史観」が災いして、柴田は、「嘆願書」第5条から、「差別法令」を読み込んでいくのです。

柴田の要約は、故意に、読者から、渋染一揆の本質を遠ざける側面をもっています。「嘆願書」に目を通してみましょう。筆者の意訳です。

「御国中、穢多共の内、御城下近在の5か村の穢多どものうち、番役など仕えているというものがいます。藩の牢屋や刑場で死罪判決がでた者の処刑が実施された場合は、その際、刑の執行に携わったものもあまたいます。そのため、5か村の穢多はもとより、その他の穢多村も同様、御用を仰せつかった穢多は、役人に対する報酬として、御米4俵宛受け取ってきました。それは、諏訪御用の節、御忠勤をつくしたてまつる身分であるがゆえに、御百姓も御承知されていることがらです。(穢多の在所は)役人村と呼ばれることもあります。盗賊または強盗・荒破者が出たときには、穢多村にひきとり、・・・番にある役人はいうに及ばず、無役の穢多に至るまで、一命にかかわることも厭わず、御用に励み、御忠勤を尽くしてきました。別段御触書に記された渋染・藍染の衣服を身にまとっていては、御城下はもちろん、村々、浦々に至るまで、盗賊や疑わしい人々は、遠く離れたところからも、渋染・藍染の制服をきた、司法・警察である穢多に気づいて身を隠してしまいます。これでは、巡邏の際に不審人物に職務質問することはさらに難しく、犯人の逮捕は難しくなります。詮なきことを続けていては、御用に携わる意気も低下してきます」。

岡山藩の穢多が、「渋染・藍染」を拒否したのは、それが、「差別」であるからではなく、「穢多」の役務である、近世幕藩体制下の司法・警察である「穢多」の役務の妨げになるからであるということがよく分かります。渋染一揆の原因は、岡山藩の「穢多」の「穢多」であることの熱心さに由来するものです。

「藩主」と「穢多」との間に立っていた「村役人」の誤解が、「穢多」をさらに危険な方向へと追いやっていきます。「村役人」が正しく「穢多」の真意を藩に伝えれば、「渋染一揆」に発展することはなかったでしょう。

岡山藩の「穢多」は、百姓一揆や農民一揆のような「一揆」ではなく、「穢多」が「穢多」として役務に携わるための嘆願でした。しかし、一見、百姓一揆や農民一揆に見える行動をとるため、「穢多」たちは、「穢多」の「嘆願」に相応しい行動をとります。

それが「竹槍1本たずさえない強訴」になったのではないでしょうか。

柴田はいいます。「村役人たちは6尺棒を揮って戦ったが、屈強の強訴勢は村役人どもを素手で掴み左右に投げ・・・」たのです。その両手に一切の武器を持たず「丸腰」であったことは、近世幕藩体制下の司法・警察としての「非常民」である「穢多」の「穢多」であり続けようとする強い意志を感じます。

柴田は、「この一揆こそ、近世における部落住民の解放運動の最高水準・到達点を示すものだと思う。」といいます。

筆者は、柴田と違って、「渋染一揆」は、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての「穢多」が「穢多」であり続けるための、その「役務」に対する熱心さから出たものであると思っています。「渋染一揆」は、決して、「部落住民の解放運動」ではありません。柴田がいう、「部落差別に対する抵抗運動」でもありません。岡山藩の「穢多」は、「穢多」であることを誇りと自信を持っていたのです。「穢多」が「穢多」の職務、犯人の探索・捕亡・糾弾に際して、「渋染・藍染」は、職務遂行の妨げになるので、撤回してほしいと訴えたに過ぎないのです。

徳山藩の「家中書法度定」の最後の条文は次のようなものです。「先例をひいて、とかくの愁訴嘆願を禁ずる。これに一味加担するものは、大小身によらず罪料に処する」。岡山藩に同種の法度の条文があるかどうかは知りませんが、恐らく、岡山藩の「穢多」も、「愁訴嘆願」の内容によってではなく、「愁訴嘆願」の行為そのものによって裁かれたのであろうと思います。

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