2021/10/03

『河田佳蔵獄中日記』に記録された穢多群像

 『河田佳蔵獄中日記』に記録された穢多群像


他任妖気起満空
誠心一片不忘公
丈夫志決何関係
身落屠人桎梏中

徳山藩士・河田佳蔵が、徳山藩の浜崎の牢屋に繋がれたときに歌った詩です。

河田佳蔵が牢屋に繋がれたのは、元治元年(1864年)8月19日のことです。

佳蔵は、8月9日、児玉次郎彦・江村彦之進・井上唯一・浅見安之丞・本城清・信田作太夫の6名の藩士と共に、幕府 による第一次長州征伐を前に、幕府に恭順を誓い、哀願した当時の徳山藩の要職である富山源次郎宅を襲撃、源次郎を 刺殺しようとしましたが、源次郎の右肩に傷を負わせただけでその命を奪うにいたらず、その暗殺計画は失敗に帰して しまいます。

河田佳蔵は、徳山藩の追捕を畏れて逃亡します。

その逃亡の様子は、『河田佳蔵獄中日記』に克明に記されています。彼は、徳山藩領の来巻村の林杏庵を訪ね、そこで一夜を過ごします。その間に、刀・袴を捨て、「百姓ノ風」になって、翌日、山越えをして、本藩領・室積の港にたどりつきます。佳蔵は、船を雇って、上関・室津の小方謙吉を訪ねます。次の日、謙吉の船で、本藩領・伊保庄の知人を訪ね、長州征伐に関する情報を収集します。

翌12日、その情報を携え、徳山藩に戻るのですが、城下の至るところで厳しい「固メ」が行われていることを知って、再び徳山領を離れて、上関に向かいます。しかし、船は既に手配されていて、海路で上関に行くことを断念、陸路、岩国へ行こうとするのですが、追手の厳しい捜査に、佳蔵は山中に身を隠して夜、徳山藩領の来巻村を訪ね、夕食を馳走になったあと、夜を徹して、岩国城下を目指します。

欽明峠に夜明け頃ついた佳蔵は、知人から身を匿うことを拒絶され、行くあてを無くした佳蔵は再び、徳山藩を目指します。しかし、欽明寺峠手前で、岩国藩士十人の検問にあって、逮捕されてしまいます。二十三歳の佳蔵は、暗殺失敗後、パニックになったのか、迷走の旅を続けたのです。

18日、佳蔵は、徳山藩に引き渡されます。佳蔵を引き取りにきたのは、奉行処1人・下目付1人・検断1人・目明1人・平警固足軽4人の計9人でした。19日、徳山藩領内に入ると、その一行に穢多5人が加わります。そして、佳蔵は両手両足を縛られたまま籠に乗せられ浜崎の牢屋、源次郎刺殺未遂事件を起こした他の藩士と共に浜崎の牢屋に繋がれる身となったのですが、その時詠んだのが上の詩です。

河田佳蔵は、10月24日処刑されてしまいます。

8月19日から10月24日までの、約2カ月間、河田佳蔵は、浜崎の牢屋で牢暮らしを強いられることになったのですが、その間、佳蔵は、紙片に日記を記します。普通ですと、犯罪者の日記は、獄中の外へ持ち出されることはあり得ないのですが、それを看視する獄吏が見て見ぬ振りをしたのでしょう。今日、徳山市立図書館の郷土史料室で『河田佳蔵獄中日記』として読むことができるのです。

この『河田佳蔵獄中日記』を取り上げた歴史研究家は多いのですが、どの歴史研究家にも共通しているところが一点あります。それは、どの歴史研究家も『河田佳蔵獄中日記』の中に記されている徳山藩の穢多に関する記述には触れないという点です。

長州藩や4支藩において、穢多がどういう存在であったのか、「受刑者」の目から見た穢多の姿を認識することができるのですが、ほとんどの歴史研究家は、「穢多」に関する記述を黙殺してしまうのです。

河田佳蔵は、上司刺殺未遂事件後の逃亡生活中においても、徳山藩の「穢多」と出会います。

百姓に変装して逃亡している佳蔵のあと追ってきた「町人体之者」。「~体」というのは、「~」のように見えるが「~」ではないということを意味しています。それから、徳山藩から佳蔵の身柄を引き取りにきた「目明三郎」。彼は、佳蔵に縄を打つときに登場してきます。それから、佳蔵の護送に加わった「穢多」たち。浜崎の牢屋に身を置くことになった佳蔵は、その獄屋にいる「穢多」のことを、その詩の中では、「屠人」と呼んでいます。
徳山藩士は、浜崎の牢屋にいる「穢多」のことをどのように受け止めていたのでしょうか。

『河田佳蔵獄中日記』を通して、私たちは、近世幕藩体制下の「穢多」の本当の姿を見ることができるのです。

山口県北の寒村にある、ある被差別部落の古老を訪ねたあと、私は、徳山市立図書館郷土史料室を訪ねて、長州藩や徳山藩の「穢多」について調査をはじめました。今から十四、五年前のことです。私は、初期の段階で、この『河田佳蔵獄中日記』に遭遇しました。

そして、徳山藩北穢多村があった、現在のある被差別部落の集会で、『河田佳蔵獄中日記』の中に出てくる徳山藩の「穢多」について話をさせていただいたことがありますが、徳山藩北穢多村の末裔は、幕末期を生きた先祖が、どのような生き方をしていたのか、ほとんど知りませんでした。被差別部落の人々にとっても、徳山藩の「穢多」の具体的な姿を記した史料があったことは驚きでした。なぜ、それまでの歴史学者は、この史料に出てくる「穢多」について触れないのだろうか、どうして、「賤民史観」がいうところの「人の嫌がる仕事を強制された穢多」についてのみとりあげ、「穢多」の先祖が「みじめで、あわれで、気の毒な」存在であったことのみ強調して、「穢多」の職務に忠実に生きた、その役務に責任と自負心を持って生きてきた「穢多」について言及しないのか、私も、被差別部落の人々も同じ感想を持ちました。

『河田佳蔵獄中日記』と、あとで紹介する『浅見安之丞獄中日記』、関連史料『有志詰問録』、『本城清・信田作太夫・浅見安之丞暗殺事件調書写』が与えたインパクトは大きなものがありました。近世幕藩体制下の徳山藩の穢多の「役務」について、これほど如実に物語ってくれる史料は他にありません。

しかも、「穢多」自らが語った文章ではなくて、「穢多」によって看視され、やがて、処刑されることになる「犯罪者」の立場から、しかも武士の身分から書かれた文章であるということは、この史料の「穢多」に関する記述は、信憑性が非常に高いということになります。

これらの史料を読むと、当時の軍人である「武士」の冷たさ・残忍さに驚かされると同時に、当時の司法・警察である「穢多」のやさしさやあたたかさを認めざるを得なくなります。徳山藩の穢多の中にみる「やさしさやあたたかさ」というのは、どこから出てくるのか。私は、徳山藩の「穢多」の役務に対する責任と自負心、「穢多」の職務をまっとうしようとする姿勢から滲み出てくるのではないかと思います。

今回、前回に引き続いて、「死刑執行人の今と昔」(その2)を書く予定でしたが、坂元敏夫著『死刑執行人の記録知られざる現代刑務所史』を読み返してみて、これは、『部落学序説』の史料・資料にはならないと気づきました。

坂元の文章は、どちらかいうと、「暴露本」的なところがあるからです。

彼の文章には、何か、欠けているものがあります。それは、人としての「やさしさやあたたかさ」です。死刑執行に携わった刑務官の職務の厳しさがそうさせたのかも知れないのですが、彼の文章を読んで思うことは、近世幕藩体制下の「看守」(穢多・非人)と、現代の「看守(刑務官)」の置かれた状況は、ほとんど何も変わらないということです。坂元敏夫著『死刑執行人の記録知られざる現代刑務所史』を読み終わって思ったのは、この本に書かれていることは、本当のことなのだろうか、ということです。

それは、近世の「看守」と現代の「看守」は、大きく異なったものであってほしいという、私の内側にある潜在的な願望がわざわいをしているのかもしれません。現代の「看守」よりも、近世の「看守」の方が、より人間的なのを見て、また、受刑者に対して、「やさしさやあたたかさ」を持っていることを目の前にして、大いなる戸惑いを覚えるからです。

現代の「看視」・「死刑執行人」はともかく、徳山藩の『河田佳蔵獄中日記』・『浅見安之丞獄中日記』・『有志詰問録』・『本城清・信田作太夫・浅見安之丞暗殺事件調書写』に記録された徳山藩の「穢多」の姿、「穢多」の役務について考察してみましょう。


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