2021/10/04

御用の節は御忠勤尽くし奉る身分・・・

 御用の節は御忠勤尽くし奉る身分・・・

『部落学序説』の素材を、長州藩の具体的な史料から選択するとき、よく指摘されることは、「それは、長州藩だけの例外事項に過ぎない・・・」という批判です。

例外というのは、ひとつかふたつかなら、例外であると断定してもいいかもしれませんが、例外が無数に存在するようになると、果たして、それを例外として処理していいものかどうか検証しなければならなくなります。

少岡ハ垣ノ内
山部は穢す皮張場
長吏の役ハ高佐郷
何そ非常の有時ハ
ひしぎ早縄腰道具
六尺弐分の棒構ひ
旅人強盗せいとふし
高佐郷中貫取

「高佐郷の歌」の中で、穢多が自分たちの存在を「非常」に関わる民であると歌っているのは、決して、長州藩だけの例外ではありません。長州藩内部にあっては、「穢多」以外の「手子」も、同じように自分たちのことを表現しています。

山口県北の寒村にある、ある被差別部落・・・、その村に伝えられた古文書によると、「○○○手子元之由来ハ、第一に他国御境目、御城下よりハ御手遠ニ付、火急之御間合兼候故、何ぞの節は御用役ニも可被召仕・・・」として、「先祖代々伝来の鉄砲を持伝へ、緩なく鉄砲稽古に励んでいた」と伝えられています。毛利が、周防国・長門国の長州二カ国に減封される前に、その地方にいた郷士身分がその前身であると言われています。

また、長州藩の周辺諸藩においても、同じような表現を史料の中に見いだすことはそれほどむずかしいことではありません。中国地方においても、四国地方においても、少しくその地方の歴史資料をひもとくと、同種の証言を収集することができます。

「諏訪御用之節奉御忠勤尽身分」といってのけたのは、岡山藩の「渋染一揆」に参加した穢多たちでした。「役人村」に住むことを許されている穢多たちは、「盗賊」・「狼藉」・「荒破者」・「一揆起之族」によって引き起こされる非常事態に際しては、「番人」として任命されたものだけでなく、穢多村の住人「一統」が、「不顧身命」、「御忠勤」を尽くしたてまつる存在であると証言しているのです。

長州藩・高佐郷の穢多と同じように、「上から押しつけられていやいやその仕事に従事していた・・・」というのではなく、むしろ、彼らに与えられた職務に忠実に、責任と使命を持って対処しようとする穢多の姿が描かれています。

穢多といわれた人々が、おのれを「非常の民」として了解していたという記録は、決して珍しいものでも、例外的なものでもありません。幕藩体制下のもとで、日本全国津々浦々に存在していた穢多たちの共通の姿勢なのです。

穢多たちの職務は、現代でいう「警察官」そのものでありました。彼らを指して、「衛手(エタ)」(まもりて)と呼び、「非常の民」、「非常民」と呼ぶのは決して的外れではないのです。

岡山藩の穢多が当時の警察官、「非常の民」であることを見失ってしまいますと、彼らの本当の姿を描くことができなくなってしまいます。「渋染一揆」の性格すら、間違って解釈されてしまいます。

『渋染一揆論』(柴田一著)は、渋染一揆に関するすぐれた研究書です。

しかし、「賤民史観」にどっぷりと浸かっているため、渋染一揆の本質を十分に把握できないでいます。柴田が書こうとしたのは、「差別や迫害に対して真っ向から挑戦する、たくましい部落民衆」なのでしょうか。柴田は、「部落解放の展望に役立つ新しい近世部落を再構成するための突破口」として『渋染一揆論』を執筆したといいます。そんな柴田の目に写る、渋染一揆の時の指導者の一人稲坪の友吉が、明治四年の太政官布告の次の年、稲坪の小学校の教授になったことについて、「郡中切っての秀才で頭脳がよかった」という伝承の存在を認識していながらも、「一揆を指導した弥市・友吉といった知識人は、いったいどこでどのような勉強をしてその知識を身につけたのか、いまもって謎である」といいます。

柴田の、渋染一揆に関わった穢多に対して、低く評価した上での推測でした。

時代的制約や時代的要請があったとはいえ、穢多に対する、柴田の前理解、偏見と予見がわざわいしていると思われるのです。

柴田は、「岡山藩が部落差別のしかたにもことかいて、服装・持物など、一見してすぐにそれとわかるような露骨な措置をうちだしてきた藩当局のねらいはなんであったのか」と自ら問いかけていますが、柴田は、自ら立てた問いに対する答えに失敗しています。失敗させたのは、「賤民史観」です。自らを非常民として証言する穢多の声に耳を傾けることに失敗したのです。

幕末の外交問題で揺らぐ時勢にあって、岡山藩は、藩内の警察機構を近代的なものに変えようとしました。それは、近世警察の顕在化でした。日本人だけでなく、外国の人も街道を往来する可能性のあることを認識した上で、近世警察の本体である穢多に対して、それとわかる制服(渋染・藍染)を着せ、日本人だけでなく、外国の人に対しても、警察権力そのものを顕在化させることでした。

しかし、岡山藩から出てきたお触れに対して、岡山藩の穢多たちは、近世警察としての職務遂行上の理由から、そのお触れの撤回を藩に求めるのです。穢多が一目で分かる制服を着せられると、逮捕しなければならない盗賊が、遠見より穢多の姿を見て進むべき道を変え、犯人逮捕のさまたげになる・・・というのが、岡山藩穢多の主張でした。それは、差別に対する抵抗ではなく、穢多の本来の職務に対する、穢多が穢多であり続けるための藩に対する訴えでした。

非常に関わる民が、非常を引き起こすことにためらいを持つ岡山藩の穢多たちは、普通の百姓一揆の仕方ではなく、近世警察として相応しい訴えの形式を選択します。それが、「竹槍一本持たない強訴」の形になったのです。村役人が、六尺棒を振るう中、丸腰の穢多たちは、それを手で払いながら、粛々と陳情のために歩を進めたのでした。

柴田によると、そのとき、「百姓は少なくとも藩側、役人側に加担していない」といいます。むしろ、百姓は、「皮多の者もこの責てに、二夜三日の住居(野宿)さぞ苦しかるべし、清水なりとふるまわん」と、「熱暑のもと渇きと疲れに苦しんだ」穢多たちに冷たい水を差しだすのです。

私が、渋染一揆を見るときの視点は、渋染一揆の指導者が投獄された牢庄屋・利介の目です。彼は、一番牢という、「入ったからには、まずは生きて出られない」という「重罪人の牢舎」のぬしをしていた人ですが、周防国玖珊郡柳井町の百姓(長州藩では、百姓)であった人ですが、自分たちは重罪を犯したのであるからこの牢獄に幽閉されるのもやむを得ないが、渋染一揆によって捕らえられ裁かれ入牢させられている穢多たちから話を聞くにつれ、利介は、彼らに責めるべき罪が見当たらないことを確信していきます。そして、長引く入牢生活で、一人二人と、近世警察官が倒れ息をひきとっていく様を見て、大犯罪人、長州藩周防国玖珊郡柳井町の百姓・利介は、渋染一揆の首謀者たちの赦免要求の嘆願書を提出するのです。

渋染一揆は、穢多たちに対する差別への抗議ではなく、穢多の職務熱心から出てきた要求であったのです。穢多が穢多であるための・・・。それが、牢庄屋・利介という犯罪者による、もうひとつの犯罪者への赦免要求の背景でした。

「すわ、御用の節は、御忠勤尽くし奉る身分にて・・・」と、自らを、「非常の民」、「非常民」として証言するのは、長州藩の穢多も、岡山藩の穢多も同じであったのです。

少岡ハ垣ノ内
山部は穢す皮張場
長吏の役ハ高佐郷
何そ非常の有時ハ
ひしぎ早縄腰道具
六尺弐分の棒構ひ
旅人強盗せいとふし
高佐郷中貫取

長州藩高佐郷の穢多の歌は、岡山藩の穢多の歌でもあるのです。そこには、穢多であることの責任と使命、近世警察としての誇りと意地があります。『部落学』は、渋染一揆に関わった穢多たちについても、その名誉を回復することをひとつの課題にしなければなりません。 

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