2021/10/05

部落学の研究主体

部落学の研究主体


部落学構築に際して、なによりもまず解決しておかなければならないことがあります。

それは、部落学を「万人の学」として遂行するために必要な、部落学の研究主体の検証です。部落学が学であるためには、その研究主体として、すべての人が関与できるものでなくてはなりません。先行する部落学の提唱者が主張しているように、その研究主体を「被差別部落民」に限定することは許されないと思います。

部落学は、被差別部落民の自己理解の学ではなく、日本社会に存在する部落差別問題の解消を目的とする学ですから、差別・被差別の枠を超えて、それを願うすべての人に開放されなければなりません。

「被差別部落の人々の痛みや苦しみは、当事者でなければわからない・・・」ということが、さも、まことしやかに言われますが、本当にそうなのでしょうか。確かに、心情的にみると、その主張もあながち間違いではないのですが、同じ痛みや苦しみを経験するかしないかで、他者の痛みや苦しみを理解することが容易になることは否定すべくもありません。

ある病気を経験した人は、その病気を経験したことのない人よりも、今、その病気で苦しみ悩んでいる人の気持ちをよりよく察することができるというのはあり得ることです。しかし、経験や体験の共有が、人の痛みや苦しみを共有する唯一の道だとすると、病気を患っている人の治療にあたる医者や看護師は、患者と同じ病気を患った経験や体験がないと、その患者の痛み苦しみを本当の意味では理解することができないということになってしまいます。よき医者や看護師は万病を患った経験がある人ということになります。それでは、医者や看護師は身がもちません。

それは、殺風景な光景です。人間というのは、そんな殺風景な光景にはなじみません。人間は、隣人や他者の痛みや苦しみを「想像」によって、思いやることができる存在です。「想像」できなければ、隣人や他者の痛みや苦しみに耳を傾けることによって、隣人や他者の痛みや苦しみを教えてもらうことができます。心を向けて、「聴く」ことで、なんらかのものを共有できるの思われるのです。

部落学構築に先立って、「差別」と「被差別」をどうきり結ぶのか、ある程度見通しをつけておく必要があります。差別者と被差別者がどう向き合うのか、心情レベルではなく、認識レベルで確認しておく必要があります。

従来は、部落解放運動を担う側から、「差別」と「被差別」が厳しく峻別されました(図1)。被差別の側に身を置いてなければ、差別の側に身を置いているとみなされ、ちょっとしたことでも糾弾の対象にされました。

私が所属する宗教教団のある教区で開催された同和問題研修の場で、当時の部落解放同盟中央本部書記長の小森龍邦氏は、「差別者は、被差別者にはなれない。しかし、差別者は限りなく被差別者に近づくことはできる。あなたがたは、被差別者に限りなく近づく努力をしてほしい・・・」と訴えていましたが、小森の主張は、極めて観念的なものです。現実の差別者と被差別者の関係はそんなに単純なかたちで表現できるものではありません。

山口に赴任して以来、所属する宗教教団の同和問題担当にさせられました。8年間担当をしたあと、その担当を辞退したのですが、筆者は担当をおりたあとも、部落差別問題との取り組みを続けました。既述のとおり、山口県北の寒村にある、ある被差別部落の古老との出会いがあったためですが、筆者の浅い経験でも、現実の差別・被差別の関係は非常に複雑で、「差別」・「被差別」の二分法では把握できるとは思えません。

そこで、私は、集合演算の自然結合を使用して、「差別」・「被差別」の関係を16パターンに分類することにしました。

まず、観念的な二分法を、「被差別(真)」と「差別(真)」と表現することにします。

「被差別(真)」は、本当の部落民を意味し、逆に、「差別(真)」は、部落民でない一般の人を意味することとします。両者の関係は、

 「被差別(真)」-「差別(真)」

と、表現されます。

ところが、現実は複雑で、「被差別(偽)」や「差別(偽)」が存在します。

「被差別(偽)」というのは、周囲の人々から「被差別」とみなされているが、実際は「差別」の側に身を置いている場合がこれに該当します。部落差別問題に熱心にかかわる学校の教師や宗教家は、「本当は部落民ではないか・・・」と差別・被差別の両方の側から疑われるようになりますが、その場合は、みかけと実際とは異なるわけですから、「被差別(偽)」と表現されます。

一方「差別(偽)」というのは、本当は「被差別」の側に身を置いているのに、それを否定して生きている場合がこれにあたります。被差別部落の青年は通常、高学歴を身につけると被差別部落でない人と結婚して、再び、被差別部落に戻ることはないといわれます。部落解放同盟の上杉佐一郎は、「部落内外の通婚が増えてきています。どうして増えてきているかと言えば、奨学金ができることによって、高校・大学に行き、就職する、そして職場で恋愛をして通婚ができる。このようなケースが一般との通婚の実例をみると八〇%をしめています」といいます。彼ら大半は、中産階級の中に身を投じることによって、身元を隠して生きることになるのです。「被差別」の側にありながら、一般の側からはそのようには受け止められない存在、「差別(偽)」は、そのような有り様を指して用いることにします。

つまり、差別・被差別を考察するときの基本的なパターンとして、被差別の側に「被差別(真)」と「差別(偽)」、差別の側に「差別(真)」と「被差別(偽)」を設定します。すべての人はこのいずれかに属すると仮定します。

そこで、差別・被差別の関係を論じるために、集合演算の自然結合を適用して、差別・被差別の関係を4×4の16パターンに類型化します。

 被差別(真)→ 差別(真)
 被差別(真)→ 差別(偽)
 被差別(真)→ 被差別(真)
 被差別(真)→ 被差別(偽)

 被差別(偽)→ 差別(真)
 被差別(偽)→ 差別(偽)
 被差別(偽)→ 被差別(真)
 被差別(偽)→ 被差別(偽)

 差別(真)→ 差別(真)
 差別(真)→ 差別(偽)
 差別(真)→ 被差別(真)
 差別(真)→ 被差別(偽)

 差別(偽)→ 差別(真)
 差別(偽)→ 差別(偽)
 差別(偽)→ 被差別(真)
 差別(偽)→ 被差別(偽)

現実の複雑な差別・被差別の関係を、この16パターンに縮減して考察することになりますが、私は、長い間、このパターンで、部落差別問題のすべての領域で、「差別(真)」に立っている筆者と、「差別(真)」・「差別(偽)」・「被差別(真)」・「被差別(偽)」に立っているひとびととの関係を認識・判別してきました。

差別・被差別の関係を、この16パターンに類型化して考えることのメリットは、関係を類型化することで、様々な差別事件や差別事象を合理的に説明することが可能になるということです。

まえがきで紹介した、山口県北の寒村にある、ある被差別部落の古老と、『部落学序説』の筆者である私との出会い、その関係は、「被差別(真)」-「差別(真)」で表現されます。由緒正しき「穢多」の末裔と由緒正しき「百姓」の末裔との関係で、小森がいう、「差別者は被差別者にはなれない。しかし、差別者は限りなく被差別者に近づくことはできる。」という典型的な理念型が現実になった場合です。

現代では、極めてまれなケースかも知れません。しかも、江戸時代三百年間、明治以降百数十年間の歴史を見据えての話ですから・・・。

部落学のような、差別・被差別の峻別が求められる学問にあっては、差別・被差別の関係の有り様を、自律的にその学問の内部で決定する必要があります。まかり間違っても、様々な運動団体の理念や目的を持ち込んだり、概念の借用をしてはならないと思うのです。

民俗学の創始者・柳田国男は、「己を空しゅうする」ことの大切さを説きました(「学生生活と祭」)。それは、常識や通説から自由になって、研究対象をあるがまま受け入れるところから、ものごとの本質に迫ろうとする姿勢です。柳田がいう、「いかなる専門に進む者にも備わっていなければならぬ」「史心」も同じことを指していると思われます。

「己を空しゅうする」というのは、「部落学」を遂行するものが、「部落学」を遂行する己に対して無自覚でいるということではありません。逆に、おのれを自覚して、安易に政治的イデオロギーや各種運動の基本理念に依拠しないということです。

「己を空しゅうする」とは、「自由な大地に自由な精神を持って立つ」ことを意味します(ゲーテ『ファウスト』の中に、「自由な土地に自由な民と共に立ちたい」ということばがありますが、筆者流に読み替えました)。『部落学序説』の筆者である私は、自分の立場を「差別(真)」として把握していますが、それは、筆者の本質が差別的であるという意味ではありません。方法論上の作業仮設として、筆者の立場を「差別(真)」として把握するという意味に過ぎません。

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