2021/10/03

独語「ゲマインデ」の訳語としての「部落」概念

独語「ゲマインデ」の訳語としての「部落」概念


明治政府は、日本の国にとって「国辱」として受け止められていた不平等条約(治外法権と関税自主権)解消のため、日本国内の諸制度の急激な西洋化をはかります。諸制度を西洋化・近代化することで、不平等条約改正の日を一日でもはやく、手元に手繰り寄せることができると信じていたからです。

その中でも、憲法・刑法・民法制定と、その施行は、避けて通ることができない課題でした。明治政府は、「憲法」発布を前に、近代中央集権国家及び近代天皇制国家に相応しい、政治体制を構築しようとします。「憲法」に先立って、「憲法」に相応しい諸制度を整備する方向で、さまざまな対策を講じていきました。

地方自治制度の確立もその課題のひとつでした。

日本の地方自治制度の確立のために力を発揮した山県有朋は、「後年、地方制度編纂をふりかえって」このように述べたと言われます。

「我邦従来ノ五人組、庄屋、名主、総代、年寄ヲ設ケタル制度ナ中ニ於テモ自治制度ノ精神個ヨリ存スト雖トモ、明治二十年トモナリテ欧米列國トノ間ヘ処スベキ当時ナレバ、他ノ制限トノ調和ヲ図ル為メ勢ヒ法案ノ形式ニ於テ欧州ノ制度ヲ参照スルノ必要殊ニ切ナルモノアリ」。

山県有朋は、日本の伝統的な政治的諸制度の中にも、近代においてなお存続させる価値のある制度の存在を認めていながら、日本国家の近代化によって、国辱である不平等条約改正のため、日本の政治上の諸制度を近代化・欧米化して欧米列國に比するものにならなければならないという、悲痛な決意をもって、大日本帝国憲法下で機能する、地方自治制度の改革に取りくんだというのです。地方自治制度だけでなく、警察制度をはじめ国政のすべての制度に、同じような方策が適用されたように思われます。

地方自治制度の確立のため、法律顧問として明治政府に仕えたモッセは、ドイツ(プロイセン)の地方自治制度を基礎として、ほとんど同じ制度を日本に移植しようとします。日本政府は、法律顧問を依頼するに先立って、日本の地方自治制度確立に一番参考になるのは、ドイツの地方自治制度であるとあらかじめ調査していたのでしょう。

明治19年来日したモッセは、明治20年(1887)、『自治部落制草案』を明治政府に提出します。そのあと、地方制度編纂委員が審議し、「市制」と「町村制」の二法律に分けられて審議が重ねられます。委員会として「決定案」を閣議に提出します。閣議は、その案に、少なからぬ修正を加え、地方自治制度をより強固に近代中央集権国家の下に置く措置を盛り込みます。ついで、法制局は法文の技術的調整を行った上「市制」「町村制」の政府原案として元老院に提出されます(亀卦川浩著『明治地方制度成立史』)。

その過程の中で、「ゲマインデ」=「部落」という定義が登場してくるのですが、そのときに採用された「ゲマインデ」の翻訳語・「部落」という概念は、近代日本の地方自治制度における重要な基礎的概念として使用されるようになるのです。

当然、その審議の中で、「部落」がどのように定義されていったのか、その過程が記録されたと思うのですが、「修正は、その回数においても、その量においても、往々またその質においても、相当のものがあった」(亀卦川浩)といわれます。「地方制度編纂委員が審議に費やした時日は二ヶ月内外・・・その中間の段階においていかなる修正が行われたか不明である」(亀卦川浩)と言われます。

しかし、この法は、全国に適用されたのではなく、北海道・沖縄・勅令をもって指定された島嶼には適用されませんでした。

モッセは、明治21年(1888)11月、『自治制講義』を出しますが、第3回『市町村論』に、「各種ノ「ゲマインデ」ヲ総括スベキ適当ノ語ナキハ世ノ甚ハダ遺憾トスル所ナリ。」と述べています。

日本語には、和語・漢語を含めて、ドイツ語の地方自治制度に関する重要な用語・「ゲマインデ」に該当する言葉がないというモッセの指摘は、国家の命令の伝わる、国政上の「最下層」の基本的な機関を示す「部落」という概念を、和語・漢語で解釈してはならないということを示しています。

明治政府によって、近代地方自治制度の基本概念として導入された「部落」は、ドイツ語の「ゲマインデ」の持っている意味内容から再定義されなければならないということを示しています。「部落」の意味は、漢字の「部」でも「落」でもなく、また、「部落学」という言葉でもなく、ドイツ語の「ゲマインデ」なる語から汲み取らなければならないということを示唆しています。

この場合、「部落」と言う概念は、アドホック(間に合わせの言葉)になります。方程式のXにあたります。

モッセは、「ゲマインデ」を説明して、人間に例えます。人間の中には、具体的に、Aさん・Bさん・Cさんがいたとして、彼等にはそれぞれ個性というものがあります。しかし、Aさん・Bさん・Cさんも全体像をみれば、みんな「ひと」であるといいます。「ゲマインデ」はこの、共通属性としての「ひと」に似ているというのです。

A村・B村・C村があったとして、それらは、それぞれの置かれた地理的環境によって、農村・山村・漁村ということなった属性をもっています。しかし、A村・B村・C村には、村落共同体として、共通属性が存在しているのです。その共通属性を、「ゲマインデ」また「部落」と呼んでいるのです。「ゲマインデ」は、多重定義の用語として、A村・B村・C村の「外延」である村落共同体としての「部落」をも含んでいるのです。

「部落」という概念は、基本的な地方自治制度における、国家権力が支配的に及ぶ基本的でかつ最小の共同体を意味しています。

「部落」という概念には、「特殊」部落、「未解放」部落、「被差別」部落という言葉のニュアンスは一切含まれていないのです。

近世幕藩体制下の「村」は、藩に直属していました。諸藩の村は、それぞれが帰属している藩によって支配されています。近世幕藩体制下の「村」に対しては、中央政府とみなされる幕府も介入することはできませんでした。明治政府は、それをあらため、「村」を、より強固に、近代の中央集権国家の政治システムの中に組み込んでしまうのです。近世幕藩体制下の「●」(点)としての村境も、「-」(線)としての村境も、すべて破棄されていきます。明治の地方自治制度においては、モッセの強い指導で、「村境」が法定されていきます。近代中央集権国家・明治天皇制国家の「村」は、強大な力をもった国家権力の前に完全に支配下に置かれ、実質上は、特に治安維持という観点からは、村境そのものが無意味化していきます。なぜなら、近世の「村境」の機能は、「移転の禁止」にありました。しかし、明治政府の近代化政策によって、「移転の自由の制限」は明治4年に事実上解除されていました。

「部落」という概念は、近代中央集権国家・明治天皇制国家の新しい村落共同体を表わす概念であったのです。

学歴を持たない筆者にとっては、明治期の地方自治に関する資料を読破するには荷が重すぎます。この場合も、史料・文献との遭遇は「出会い」によって拘束されていると認めざるを得ません。筆者の所有している、徳山市立図書館郷土史料室の資料の複写分と、近隣の書店で買い求めた若干の雑誌・書籍に依存しています。

筆者は、新たな史料や資料に遭遇すれば、筆者がそれまでに立てた仮説や理論を見直すことについては決してやぶさかではありません。学歴を持たず、独学をしているものの常として、史料や資料の出会い如何によって、自らを常に変革していく、改革していく精神を所有しているからです。そのような精神を持ち合わせないと、10年、20年という長きに渡って、ひとつの主題を追いかけることは不可能であると思います。

0 件のコメント:

コメントを投稿

『部落学序説』関連ブログ群を再掲・・・

Nothing is unclean in itself, but it is unclean for anyone who thinks it unclean.(NSRV)  それ自身穢れているものは何もない。穢れていると思っている人にとってだけ穢れている(英訳聖書)。 200...