2021/10/04

布引敏雄と長州藩青田伝説

布引敏雄と長州藩青田伝説 民俗学でいう「ケガレ」は「気枯れ」、歴史学でいう「ケガレ」は「穢れ」を意味していることはすでに述べてきたと おりです。

この場合「穢れ」というのは、法的逸脱を意味します。

何が「穢れ」であるのか、という問いに対する答えは簡単です。「穢れ」は、幕藩体制下の幕府や諸藩が出したお触れ(法)に対する逸脱で、日本において政治・支配が開始されたときから必然的に存在します。

古代の律令制度においてはもちろん、中世・近世・現代においても、法は、国家による民衆支配の重要な装置になります。

法の淵源として、通常、成文化された法・成文法と、成文化されていない法・未成文法に分類されます。このふたつの形式の法は、いつの時代にも、共存していました。古代・中世・近世・近代を問わず、法の淵源は成文法と未成文法の両方を含んでいました。笠松宏至著『法と言葉の中世史』(平凡社)によると、中世において、法は「慣習法が大きな部分を占めていた」といいます。中世においては、成文法と慣習法の「境界は、きわめて特別の場合のほかは、意識されることはなかった」といいます。

笠松によると、中世の民は、その時代の法を意識することなくして生活することは難しかったといいます。笠松によると、中世社会は、「どんな思いがけない法が彼の敵から主張されるかわからない」社会であるといいます。さらに、中世社会においては、「人は法を意識することなしには自分の身を守ることはできなかった」といいます。

また、「然らば即ち格は律令の条流、政教の輗軏、君と百姓のこれを共にするものなり」という貞観格の序を引用して、「立法権者たる天皇であれ、辺境の百姓であれ、ほとんど同次元の「法意識」をもってこれに対応せざるを得なかったのが中世的現実であったことを知っておく必要がある」と指摘します。法は、権力が任意に定めるもので、法的逸脱である「穢れ」もその中で規定されるものです。「何が穢れであるか」、それは、その時代の権力が定立したものであると言えます。

長州藩青田伝説に関する、長州藩の歴史資料を見ていると、皮革にまつわる「穢れ」というものが、藩権力の恣意に委ねられていることがよく分かります。

百姓所有の馬が死んだとき、その皮は藩に提出しなければなりませんでした。しかし、青田の節には、百姓は、穢多がその皮を引き取りにくることを忌み嫌ったのでしょう。百姓の中には、死牛馬を焼き捨てたり、土の中に埋めたりするものが出てきます。藩は、皮の収集は、「軍用」であり、それを阻害する百姓の営みは厳重に処罰するとのお触れをだしています。

牛馬の皮の船積みに際しても、10月より翌2月までの期間に行うよう穢多にも通達をだしているが、例外として、その期間を越えて皮の積み出しを行うこともあると規定しています。そのときは、藩の「送り状」を掲示しているので、その場合は、たとえ期間外の搬出であったとしても皮番所の役人は搬出の障碍になるようなことをしてはならないとの通達もだしているのです。

長州藩青田伝説でいわれる皮革の積み出し期間の外であっても、藩が搬出する皮革の荷に「送り状」を掲示している場合は、「穢れ」ではないというのです。上記の例から見てもわかるように、「穢れ」(法的逸脱)というのは、権力の恣意によって、如何様にも判断されるということです。

 明治6年、明治政府は近代国家に変貌すべく、太政官布告「自今混穢ノ制被廃候事」という混穢の制廃止の通達がだされるのです。古代律令制度にはじまる一切の習俗と化した「けがれ」は廃止されるのです。何が「けがれ」であるのかないのか、それは、天皇制度の中の権力によって規定されるのです。

布引敏雄の『長州藩部落解放史研究』は、簡単には入手・閲覧できないと思いますので、布引説を採用した原田伴彦著『被差別部落の歴史』の一節をとりあげてみましょう。原田は、長州藩の天保2年の一揆が、青田伝説が原因で起きたことを確認したあと、このように布引の論文を要約します。

「この一揆は、藩権力の支配と圧政に対する農民の怒りの爆発でした。しかしその怒りが逆に彼らよりも下の部落民に対する凶暴な仕打ちとなってあらわれたことに差別の根強さが示されています。また一揆が部落民に対する百姓の差別的反感をきっかけに爆発したことが注目されます。部落民がその強制された仕事である皮革業によって営々と努力しながら生活を向上させていったことさえ、農民にとっては不満の種であり、部落への反感を強めるものでした。これは農民の物心両面の貧しさと、そのような貧しさに追い込んだ藩の政治支配と愚民政策のなせる業だったと言えるでしょう。農民たちは凶作に対するたえざる不安の中にあって、政治のしくみにその目を向けることができず、部落に対する迷信と反感によってその苦しみを癒そうとしていたのです。・・・このような差別と迫害のうちにあって部落民はいつまでも手をこまねいて、差別を甘受していたわけではなく・・・長州一揆のときも部落がまったく農民のなすがままに蹂躙とはずかしめをうけたわけではありません。部落がわは農民に対してかなりの抵抗をしています。ところが藩の役人は抵抗をやめない部落民を打ち殺すように農民を指図しています。・・・幕藩権力はこのように民衆どうしの対立をそそのかし、それをあくまでも利用しようとしていたのです。」

原田による布引論文の要約のすばらしさを前にして、「さすがは学者・・・」と思わざるを得ないのですが、「賤民史観」は、各地方の研究を集積して、それを、中央の「賤民史観」研究家の手によってまとめられていったものなのでしょう。原田が、布引の論文を自分で、どれだけ確認していったのか、知るよしもありませんが、おそらく、「賤民史観」構築の「仲間」として、無条件に布引の説を採用していったのではないでしょうか。

原田の手に渡ることによって、長州藩青田伝説と天保一揆は、「賤民史観」を裏付ける貴重な材料として採用されていきます。

原田の布引論文の要約から、原田や布引の「賤民史観」を検証してみましょう。

(1)近世警察である「穢多」と明治政府によって棄民扱いされた「特殊部落民」を同一視していること。

(2)「穢多」を「農民」より下の身分秩序に位置づけていること。

(3)「穢多」と「農民」の対立を「民衆同士の対立」に還元(分裂政策)し、長州藩の不法と不正については不問に付していること。

(4)「穢多」の家職として「皮革」を過大評価していること。

(5)「農民」に対する差別的な予見と先入観が見られること。

(6)「農民」を愚民としてみるあまり、「農民」の尊厳を著しく損なっていること。

(7)「穢多」なる存在の本質を完全に見誤っていること。

(8)「部落民を打ち殺すように農民を指図」というのは、史料の完全な誤読であること。

(9)文章全体として、長州藩の歴史資料を「賤民史観」に見合うように、牽強付会的な強引な解釈をほどこし、著しく史実に反していること。

ひとことで言いますと、布引敏雄の『長州藩部落解放史研究』の天保一揆と青田伝説についての文章は、「賤民史観」構築の材料として、著しく改竄され、場合によっては、歴史資料そのものを無視して、布引の恣意的解釈にゆだねられた、布引自身による捏造、作話でしかないということです。布引は、「賤民史観」という色眼鏡で、長州藩のすべての歴史資料を見ているのです。

 

彼が論文作成に使用した資料を検証するとすぐに分かるのですが、歴史学研究の基本的なクリティークさえ無視している場合が少なくありません。二つの異なる史料があるとき、布引は、十分な史料批判をしないで、「賤民史観」構築という、布引の歴史研究の目的に沿う歴史資料の方を採用しているのです。「みじめで、あわれで、気の毒な」そんな姿が描かれている歴史資料は、すべて、「穢多」や「百姓」に割り振ります。そして、「武士」の所作の過ちを限りなく隠蔽し救済していきます。

今後、布引の部落史をめぐる諸見解は、適宜批判の対象にしていきます。

次回は、布引の部落史研究が、被差別部落の人々に影響を与えて、歴史学者である布引と、被差別部落の住人である村崎義正の間で、如何に、「賤民史観」が増幅していくかを検証していきます。

歴史学者によって、描かれる「みじめで、あわれで、気の毒な」賤民像は、被差別部落の人々に受け入れられて、また、そのことが被差別部落の人々の被差別経験に裏打ちされて、歴史学者の賤民史観が更に強化されていく、その研究論文を読んだ被差別部落の人々によって、またぞろ、賤民史観がより強化されていく・・・。そして、最後は、考えるもおぞましい部落民像が形成されてしまったことを紹介します。

「賤民史観」は、悲しむべき日本社会の病巣です。


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