2021/10/03

維新団と上関茶筅隊

維新団と上関茶筅隊


この項を閉じるにあたって、避けて通ることができないことがひとつあります。

それは、言うまでもなく、幕府の第二次長州征伐、長州藩の側では「四境戦争」と呼んでいましたが、長州征伐に際し て、藩命によって、徴兵された「維新団」・「茶筅隊」等の部隊のことです。

歴史学上の差別思想である「賤民史観」に依拠した、山口の部落史研究家の手によって、発信された情報に基づいて、原田伴彦は、その著『被差別部落の歴史』の中で、「諸隊」に触れて次のように記しています。

「部落民は・・・長年の願いである身分解放を求めて立ち上がったのでした。それは長州藩権力という封建制に奉仕するためではありませんでした。・・・しかしながら、これらの諸隊の活動にもかかわらず、部落民が期待するような解放は約束されませんでした。この戦争が長州の勝利、幕府の敗北によって終了すると、一部の隊員の解放にとどまり、部落民隊は解散を命じられ、再び圧迫を受けるようになりました。・・・このことは、藩が非常のときにだけ、部落民を利用しようとしたものであることをはっきり示しています」。

原田が参考にした、長州藩の「諸隊」に関する資料は、田中彰・布引敏雄・小林茂・北川健・安達五男・利岡俊昭・前田朋章等の部落史研究者の論文であろうと思います。この研究者の名列は、《幕末の部落民軍隊の実像と核心-兵農分離の原則と農町穢非登用の形式-》を書いた北川健によるものです。

北川は、自分を含む、それまでの研究成果として公表されている論文の内容、「部落民軍隊」についての「歴史像は、とんでもない幻想であり虚構である」と断定します。彼の文章を少しく引用してみましょう。

「何よりも部落民軍隊を指して「身分『解放』によって」(田中氏)のもの、「解放を約束した」(利岡氏)ものととらえきているところに大いなる錯誤がある。「名目のみの解放」(布引氏)「解放は幻想にすぎなかった」(利岡氏)と云い添えられてもいること自体、研究者自身が「解放」を幻想してのウラガエシ、ウワヌリである。ために、この「幻想」の二重像のもとで、部落民軍隊についての議論と評価がどれほどゆがめられ、どれほど妄想の堂々めぐりを余儀なくされてきたことか!これでは部落民軍隊はもとより、現代の市民一般もまた浮かばれはしない。」

北川と田中・布引・小林・安達・利岡・前田の、歴史学者としての違いは、歴史を記述するときの歴史学者の視座の違いでもあります。長州藩の部落史の研究家の多くは、その歴史を「権力者」の立場から記述します。その解釈原理は、「賤民史観」と「愚民論」です。

歴史学者、田中・布引・小林・安達・利岡・前田が記述する歴史は、「賤民史観」と「愚民論」によって通底されています。彼らによって記述される「部落民軍隊」の姿は、参戦すれば賤民身分から解放するという権力の口約束を信じて、長州藩という「国」を守るために命をかけて戦ったけれども、約束の身分解放は反故にされ、痕には、権力によって利用されただけという空しさのみが残った、愚かな民衆の姿なのです。こういうものの見方や考え方を「愚民論」と言わないで何を「愚民論」というのでしょう。

北川は、彼らがこのような歴史の事実とは異なる見解を持つに至った背景に、「史料」の読み間違いがあるというのです。北川は、田中・布引・小林・安達・利岡・前田の論文は、歴史学者としての基本的な史料の読み方に瑕疵があると指摘するのです。史料の読み間違いが、「とんでもない幻想と虚構」を作り出しているというのです。北川は、「幕末長州藩の部落民軍隊について、これまでの定説・通説を虚像として根底からくつがえすものである」と、彼らに挑戦状を叩きつけます。

北川門下生である筆者は、当然、師である北川健先生の説を支持します。

しかし、北川先生が先生であるから、無条件に支持するというのではありません。既存の個別科学研究では行き詰まり状態にある部落差別の完全解消を目的とした、新しい学問『部落学』を提唱する筆者の論理と著しく一致するという理由で、北川先生の説をよしとするのです。

『部落学序説』で、これまで述べてきたように、近世幕藩体制下の人間は、二つに分類されます。「常・民」と「非常・民」。これは、嵯峨天皇によって警察制度が設置されて以降、支配の基本理念でした。「常・民」は、軍事・警察のシステムから分離され、軍事・警察のシンボルである武器を手に持たない「常の民」、「常・民」、「常民」と、それ以外の「非常の民」、「非常・民」、「非常民」でした。

近世幕藩体制下の三百年間のほぼ全期間に渡って、「常・民」と「非常・民」の区別は守られていました。北川が言う「兵農分離の原則」は、近世幕藩体制下の全期間に渡って遵守されていたと思われます。

しかし、防長二カ国で、幕府による第二次長州征伐に直面しなければならなかった長州藩は、高杉晋作を中心に、長州藩全体に「国家総動員令」を布告します。それは、第二次長州征伐のために、長州に攻めてくる幕府側の「近世的武士集団」に対して、長州藩の総力(常民と非常民のすべて)としての「近代的兵士集団」を対峙させるためでありました。

高杉晋作は、長州藩の聡明な指導者でした。

奇兵隊という、近代的武器によって装備された機甲部隊を前線に送ると同時に、奇兵隊が、周防国・長門国の東西南北の四つの藩境を越えて出兵するときに、「攻め」の側面だけでなく、「守」の側面についても十分な備えをしていました。もちろん「国境守備隊」のような部隊も配置したでしょうが、西と南北に長い海岸線を抱えている長州藩は、「海防警固」の大切さは十分認識していました。そして、すべての村々に、情報網を張りめぐらしていました。幕府側の奇襲や密偵の潜入があれば、即座に察知して高杉晋作のところにその情報が届くような体制を作っていました。

長い海岸線の村々で、「海防警固」にあたっていたのは、穢多・茶筅・宮番と村方役人でした。海防にあたるものは、常時帯刀を許されていたといいます。「穢多」は、「久保の者」とも言われ、集団で駐屯する機動隊のような存在でしたが、特に、主要な街道沿いに配置されました。一方、海防のために配置されたのは、「茶筅」と「宮番」でした。長門の国は「宮番」が、周防の国は「茶筅」が配属されました。

迫りくる四境戦争を前に、「攻め」と「守り」の両面から着々と準備が進められていました。高杉晋作は、長州藩の存亡を賭けた戦いに必勝を期すため、藩の方針に違う行為をする人々を厳しく罰しました。

高杉晋作にとって、穢多・茶筅・宮番・非人の役務は、近世幕藩体制下の司法・警察としての職務の全うでした。百姓の庄屋の次男、三男(父親は非常民)を対象に集められた「屠勇隊」は、「非常民」の予備軍として徴兵されました。百姓を中心とした「屠勇隊」は、長州藩の正規部隊になりました。

四境戦争の危機が差し迫る中、中には、藩の命令から逸脱するものも出てきます。

高杉晋作は、特に、「海防警固」や「銃後のまもり」をする、近世警察官である穢多・茶筅・宮番については、それぞれの持ち場をきちんと守ることを要求しました。高杉は、藩の方針に反して、それぞれの持ち場を離れて、藩の許可なく四境戦争に参加しようとした宮番は死刑、長州藩の重要な「海防」の拠点である上関の「警固」を打っちゃって自主的に結成された「上関茶筅隊」に対しては、藩命に背いたという理由で問答無用的にその部隊を解体しています。そして、「上関茶筅隊」に参加しようとした茶筅をそれぞれの持ち場に再配置したのです。

高杉は、「暫く機兆(穢多)之者を除く」と命令したのは、「穢多」には、近世司法警察官として担わなければならない重要な役務があったためで、しかし、戦争遂行上、「穢多」が持っている、敵を生きたまま捕まえて、拷問して、敵の情報を得るという点では、戦争遂行上、「穢多」の専門技術は欠かすことのできないものでした。高杉は、やがて、「穢多」が、近世警察としての職務遂行に支障を来さない範囲で、「穢多」(穢多・茶筅・宮番)を徴兵し、「維新団」・「山代茶筅隊」・「一心隊」結成させたのです。

「穢多」をして四境戦争に参加せしめたものは、「穢多」の「非常民」としての職務に対する責任と規律の精神だったと思います。「穢多」は、従軍するに当たって、交換条件としての「身分解放」を求めるような逸脱行為はしなかったでありましょうし、藩も、そのような約束をすることはなかったでしょう。その証拠に、四境戦争から帰った「維新団」に対して、井上馨から「士分取立」が提案されたとき、「維新団」に参加した穢多たちのほとんどは、その「士分取立」を辞退しました。彼らにとって、士分になって、函館まで至る戦争の旅に出ること、そして近代兵器を手にして、今は無力となった近世武士集団の殺戮の旅に出ることはよしとしなかったでありましょう。彼らにとって大切なのは、司法警察官として、通常の業務を全うすることでした。

北川が言うとおり、「すなわち「解放」もなければ、「解放の約束」なぞもありはしない」のです。

原田伴彦がいう、
①部落民は・・・長年の願いである身分解放を求めて立ち上がったのでした。
②それは長州藩権力という封建制に奉仕するためではありませんでした。
③・・・しかしながら、これらの諸隊の活動にもかかわらず、部落民が期待するような解放は約束されませんでした。
④この戦争が長州の勝利、幕府の敗北によって終了すると、一部の隊員の解放にとどまり、部落民隊は解散を命じられ、再び圧迫を受けるようになりました。
⑤・・・このことは、藩が非常のときにだけ、部落民を利用しようとしたものであることをはっきり示しています。
すべての項目は、歴史の事実に著しく反した、今日の歴史学者や研究者が捏造した「幻想」・「虚構」以外の何ものでもないのです。

私の歴史研究の師である北川は、このように云います。

「こんな部落民軍隊の歴史像でいったい何がどうなると云うのか。これでは部落民兵士は、「身分取立をエサにされて・・・」、「おのれ一身だけの成りアガリをユメ見て・・・」、はては「釣られた・・・」の、「だまされた・・・」の、「ケシカラぬ・・・」などということになる。部落民はそんな「バカだった」「アホだった」のだろうか。仮にも「身分取立」でもされていたら、「メデタシ、メデタシ・・・」とでも云うのだろうか。そんな部落民軍隊像で、どうして部落解放の歴史足りうるだろうか。」

布引敏雄著『長州藩部落解放史研究』は、日本史学に内在する差別思想である「賤民史観」と「愚民論」によって構成された布引自身の「妄想」以外の何ものでもないのです。

歴史研究家の布引だけではない。こともあろうに、被差別部落の当事者も同じことを考えているのです。『怒りの砂』の著者、被差別部落出身の村崎義正は、その書の中でこのように語るのです。

「しかし、なによりも、この機をいっして真の解放はあり得ないという決意が勇猛をもってなる榊原軍を圧倒したのではあるまいか。ところが維新団は、意気揚々と郷土に錦をかざったとたんにお払い箱になってしましった。退職金として山林五ヘクタールと米一俵が藩から支給されているが、維新団百七十名の華やかな軍功に対する褒章としては、余りにも微々たるものであり、開いた口が閉まらない。おまけに穢多身分から解放してやるという約束もほごにされてしまった・・・」

村崎義正の維新団についての証言の中には、歴史の事実に立脚したものは何もないのです。布引と同じ「妄想」の上に乗っかって言葉を綴っています。村崎の文章の中には、近世幕藩体制下の司法・警察としての責任と規律に対して「穢多」たちが抱いていた熱き思いは、一片のカケラさえ見いだすことはできないのです。

そして、私はこのように思うのです。

村崎は、被差別部落民を名乗っているけれど、本当は、「穢多」の末裔ではないのではないか。「穢多」の末裔なら、先祖を辱め、貶めるような発言は決してしないと思うのだが・・・。もし、村崎の故郷の住人が、村崎と同じような考えしか持っていない人々であるとしたら、彼らは、その在所の「穢多」の末裔ではなくなる・・・。明治四年の太政官布告と共に、その在所の「穢多」は、そこから離れて行った、そのあとの、空いた土地に何らかの事情で滑り込んできた、「穢多」の歴史を知らない、身を持ち崩した武士や百姓の末裔ではないのか・・・。「特殊部落民」ではあっても、「穢多」の末裔ではないのではないか・・・。

非常民の学としての部落学、それは、部落差別の完全解消に向けて、多くの情報を私たちに提供してくれます。「賤民史観」は、日本の歴史学の差別思想であり、日本社会を蝕む病根なのです。「穢多」の末裔から、本当の歴史を奪い、「賤民史観」を背景に捏造された、みじめで、あわれで、気の毒な部落史を強要する病巣なのです。

癌(部落差別)の苦しみを和らげるために麻薬(同和対策事業)を求め続けるのではなく、勇気(歴史の真実を追い求める勇気)を持って、病巣(「賤民史観」)を取り除くことによって、健康な身体(差別から解放された精神)を取り戻すことが大切なのではないでしょうか。癌から全快したら、兄弟みんな(差別・被差別を問わず)喜びを共にすることができるのではないでしょうか。

昔、病院に勤めていたときに読んだ精神医学の本に、アメリカの精神衛生運動についての話がありました。アメリカに、スミス兄弟がいたそうです。その兄の方は、精神分裂病を患って、精神病院に強制入院させられていたそうですが、弟は、そのことがいつも心配でした。精神病は遺伝的なものであると信じ込んでいた弟は、いつ、兄と同じ、精神分裂病が発症するのか不安な毎日を過ごしていたといいます。そして、そのことを意識すればするほど、弟は、精神分裂病の兄と同じような行動をとりはじめたといいます。そして、誰が見ても精神病の患者になってしまい、やがて精神病院に入院させられることになります。弟は、当時の精神病院で、医者や看護師から、非人間的な扱いを受けます。拘束され自由を奪われ、薬漬けにされ、日常的に暴行を受け、精神的にも非常に苦しみの深みに置かれます。しかし、そんなある日、医者から、本当のことを知らされるのです。「あなたのお兄さんは精神病ではありません。脳腫瘍だったのです。脳腫瘍が原因で精神分裂病と同じ症状が出ていたのです・・・」。弟のスミスは、突然と正気に戻って考えるのです。「自分の精神分裂症状は何だったのか?!」。そして、彼は考えるのです。自分の心が自分を精神病にしてしまったと。彼は、「心の病気は心で直すことができる」、そう信じて、アメリカで、精神衛生運動を展開していくのです。監獄と同じ鉄格子付の病室ではなく、精神病患者が鉄鎖から解放され、医者と心と心で触れ合うことで精神病を克服していく環境を作っていくのです。その本を読んだのは、35年前のことです。記憶にずれが生じている場合もありますが、日本にも「森田療法」というのが同じ治療を指向しています。

歴史学上の差別思想である「賤民史観」も、人間を、「あわれで、みじめで、気の毒な」状況に鉄鎖で拘束する偽りの病巣です。賤民史観を脱却すれば、スミスと同じように、突然正気に戻り、差別に拘束されない自由な精神を自分の手にすることができるのです。一端、差別・被差別からの自由を感じると、再び賤民史観という鉄鎖に繋がれることはなくなるでしょう。

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