2021/10/03

「部落」と「暴力団」に関する一考察 1 長州藩の史料から

「部落」と「暴力団」に関する一考察

第1回 長州藩の史料から・・・

筆者にとって、「部落」も「暴力団」もほとんど関係のない世界のことです。

しかし、山口県の小さな教会に赴任して、教区の部落差別問題特別委員会の委員をさせられたことがあって、「部落」差別問題に関与することになりました。

そして、山口県北の寒村にある、ある被差別部落の古老の聞き取り調査をきっかけに、「部落」とは何か、その問いに対する、学校同和教育・社会同和教育で提示される解答に疑問の思いを抱くようになり、徳山市立図書館の郷土史料室に通って、「部落」の歴史的実像を追求してきました。

その結果を、『部落学序説』とその関連ブログ群にしたためて、インターネット上で公表してきましたが、無学歴・無資格をかえりみず、非常民の学としての「部落学」を提唱してきました。

何分、一人で「開拓」していくため、すべての分野を網羅しているわけではありません。

「部落」と「暴力団」との関係についても同様で、いままでほとんど触れることはありませんでした。「部落」だけでも謎にみちているのに、「暴力団」まで付加すると、 x と y の関係式が、x と y に z を加えた関係式になり、解答することが非常に難しくなります。

しかし、すでに、『部落学序説』で、第1章から第3章までの執筆を終えていますので、「部落」と「暴力団」という現代的な関係の背後にあると推定される、近世幕藩体制下の「穢多」と「博奕」の関係を少しく論じてみたいと思います。

「博奕」は、「ばくえき」・「ばくち」と読むそうですが、広辞苑によりますと、「博奕」は、「バクチウチの約」だそうです。

「バクチウチ」(博打打)は、「賭博を専業とする者。やくざ。博徒。」を意味するそうですが、「部落」と「暴力団」について考察するときに、広辞苑的な意味合いでは、歴史的に、「穢多」と「博奕」の関係について論ずることは決して意味のないことではないでしょう。

まず、『部落学序説』風に、近世幕藩体制下の長州藩の史料から、「穢多」と「博奕」との関係について考察してみましょう。

山口県立文書館の研究員をされていた布引敏雄氏の『長州藩部落解放史』の巻末に収録されている「付録 長州藩部落史年表」から、両者の関係をたどってみましょう。

この年表は観応3年(1352年)からはじまっていますが、長い間、両者の関係を想定させる記録はありません。

全国的に、近世幕藩体制下の司法・警察である非常民としての「穢多・非人」の類の存在とその職務の内容の充実と強化がはかられた時代、諸藩は、「穢多・非人」の類(以下「穢多・非人」とよぶ)がその職務を忠実に遂行するように藩令を出していますが、萩藩も、正徳3年(1713年)、藩令を出して、その職務を逸脱した「穢多・非人」を厳しく詮議し、監視するように庄屋に対して命令しています。

「穢多・非人」は、「穢多之名」を辱めることがないよう、「悪人」(犯罪者)の悪に加担することがないようにという言葉ではじまっています。当時の、法を執行する、司法・警察である「穢多・非人」が、自ら、法を逸脱して犯罪に走るようでは、治安警察の職務遂行に支障をきたすので、くれぐれも違背行為をしないようにという訓戒の言葉です。

「穢多・非人」は、本来の職務を十分自覚して、「穢多共随分精を出、悪人捕候様ニ可申付候事」というのです。犯罪の予防と、発生した犯罪者の検挙率を高めるようにという命令です。

そして、最後はこのような言葉で結ばれています。「悪人捕候者えは御褒美可被遣候、若右之廉々相背ハ可被処厳科候・・・」。つまり、「穢多・非人」は、司法・警察である非常民としての自覚を持ち、犯罪者の摘発につとめれば、褒美をつかわす。しかし、その職務に違背するようなことがあれば、厳罰に処する・・・、というのです。

しかし、正徳3年の、「穢多・非人」の職務に関する法令の中には、「穢多・非人」が「博奕」に走らないようにという法令は含まれていません。

なぜか・・・?

『部落学序説』の筆者の目からみますと、当時の司法・警察である非常民としての「穢多・非人」が、「博奕」に関与しないということは、その職務上当然のことで、あえてその禁止条項を設定する必要がなかったからではないかと思います。

「博奕」は、「天下一統の御法度ニ候ヘは事新敷不及申候」(長州藩「当用諸記録提要」)という背景があったからではないかと思われます。

その「穢多・非人」が、いつ、どのようにして、司法・警察官の職務を忘れて、法を逸脱、「博奕」の仲間になっていったのか・・・、長州藩は、「博奕」に走ったり、自宅を「博奕宿」として提供する「穢多・非人」を厳しく断罪しています。

現代の、「部落」と「暴力団」との関係を想定させる、近世幕藩体制下の、「穢多」と「博奕」との関係は、近世幕藩体制下の法制度における、法的逸脱としてのみ存在していたのです。

「部落」=「暴力団」という観念的幻想を近代・現代において成立させているものは、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」のなせるわざです。皇国史観も唯物史観も、「穢多」も「博奕」も、社会の少数者として「賤民」という差別的概念に周延させてしまいます。「博奕」を違法行為として取り締まる側の「穢多」と、当時の司法・警察官である「穢多」に取り締まられる「博奕」とを、「賤民」という概念で同等の存在として、少数者として、差別されたものとして曲解してしまうのです。

長州藩の史料をもとに、「穢多」と「博奕」との関係について、もう少し詳しく論じてみましょう。

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