2021/10/03

穢多談義・雑想

穢多談義・雑想

「部落学」の課題のひとつに、従来の部落研究・部落問題研究・部落史研究のように、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」に依拠しないで、部落差別完全解消のために、新しい、部落研究・部落問題研究・部落史研究の作業環境を構築する・・・というのがあります。

今年5月14日に『部落学序説』の執筆を開始して10月22日の今日まで、書き上げた原稿量は、400字詰め原稿用紙に換算して、1364枚分(約54万字)にのぼります。

その間、筆者は、『部落学序説』の文章から、意図的に、「賤民史観」を排除してきました。

「賤民史観」は、部落研究・部落問題研究・部落史研究に携わる、大学教授・高校教師・地方史研究家、そして、同和対策事業の被差別部落の側の受益者として存在してきた各種運動団体に所属する人々の生活や思想の中に、無意識に注入されてきたものです。

教える側も、「賤民史観」が差別思想であることを自覚することなく、そして、教えられる側も、同和教育や解放教育という名目のもとで、本当は、差別思想を植えつけられているということを自覚させられることなく、教える側も教えられる側も、その「差別思想」に対して、いつか部落差別の完全解消につながると、幻想を抱き続けてきたのです。

2003年3月31日、33年間15兆円という巨額な時間と費用を費やして、同和対策事業・同和教育事業が終了しました。

それと歩調をあわせるかのように、大学教授の指導科目とその内容から、部落問題・部落差別問題の科目が姿を消していきました。「差別問題」から、「人権問題」・「平和問題」への転向が広範に認められます。高校で実施されていた「同和教育」も同様に、「人権問題」に切り換えられ、切り換えられた「人権問題」も著しく形骸化されています。学者・教育者だけでなく、各種運動団体も、運動の最前線から撤退するところが目立ちはじめました。

日本共産党系の運動団体は、「21世紀までに差別をなくしましょう」と宣伝活動をしていましたが、21世紀に入って、相応の時が経過したいま、その願いは、実現した・・・と、言えるのでしょうか。

筆者は、この『部落学序説』を読んでくださる読書の方にお尋ねしたいと思うのです。

(問1)「あなたは、部落差別が完全に撤廃された状態をどのように想像しますか」。
(問2)「あなたは、部落差別が完全に完成された状態をどのように想像しますか」。

この二つの問いは、筆者が、何回となく自問自答してきたものです。

筆者の答えを先にお話しすると、「部落差別が完全に撤廃された状態」と「部落差別が完全に完成された状態」とは極めて酷似しているということです。

「部落差別が完全に撤廃された状態」というのは、常識的に考えれば、被差別部落出身であるという理由で、誰も差別しない、されない状態のことを指していると思われます。

「部落差別が完全に完成された状態」というのは、被差別部落出身であるという理由で、誰も差別しているとも、されているとも、自覚することはないけれども、しかし、現実には、部落差別が遂行されている状態のことを指していると思われます。

いずれの状態も、現象的には、ほとんどその差異はないということです。

そこで、あらためて質問します。

2003年3月31日、33年間15兆円という巨額な時間と費用を費やして、同和対策事業・同和教育事業が終了し今日、部落差別は、どのような現状に置かれているのでしょうか。「部落差別が完全に撤廃された状態」でしょうか、それとも、「部落差別が完全に完成された状態」でしょうか・・・。

筆者は、部落差別は解消していない・・・と、考えています。

なぜなら、33年間15兆円という巨額な時間と費用を費やして、同和対策事業・同和教育事業が終了した今も、日本の近代以降の社会にあって、部落差別再生産の観念的な装置である、日本の歴史学の差別思想である「賤民史観」は、学者や教育者、同和会・解放同盟・全解連とその後継団体によって、ほとんど批判検証にさらされることなく、温存されてしまったからです。

戦前の融和事業、戦後の同和事業がそうであったように、これからの時代の中にあって、悪夢の再来のように、あらたな「同和対策事業」が展開されていくことになるのではないでしょうか。「賤民史観」により強固に裏打ちされて、「江戸時代・・・先祖が・・・牛馬以下に扱われていた」と先祖を貶めて、それと引き換えに新たな事業を求める日が・・・。

『部落学序説』の筆者である私は、今こそ、日本の部落差別の拡大再生産の大きな要因になってきた日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」を徹底的に批判・破壊しなければならないのではないかと思います。

そのためには、「賤民史観」の担い手である、行政や学者・教育者に、「私たちの被差別部落の歴史について関係ある史料はないのですか・・・」と尋ねるような当事者性のなさでは問題解決にはほど遠いといわざるを得ないでしょう。被差別部落の側が、自らの手で「賤民史観」を打破していかない限り、「賤民史観」の担い手から、「調べてみましたが、そういう史料は見当たりませんでした・・・」という答えが返ってくるのがおちです。「行政や学者・教育者が本当のことを教えてくれない、彼らは嘘つきだ・・・」と呟いても何の問題の解決にもなりません。

すでに、原稿用紙1000枚を優に突破した『部落学序説』ですが、これまで、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」を常に意識し、「賤民史観」の問題点を明らかにし、「賤民史観」を乗り越える批判検証を実践してきました。

その結果、筆者は、ますます確信を強めているのです。

「賤民史観」を破棄し、「賤民史観」に依拠しなくても、部落研究・部落問題研究・部落史研究は、誰でも語り得るテーマであると。

「被差別部落出身者にしか部落差別問題はわからない・・・」というのは、被差別部落の側の抱く、単なる幻想に過ぎません。被差別部落出身者だからこそ、見えなくなっている、理解することができなくなっている現実も存在するのです。人は、人生の悲哀や苦悩を経験すると、はやくそこから脱出したいと願います。しかし、その祈りの声が届かず、人生の悲哀や苦悩が長く続きますと、その悲しみや苦しさが、自分の人生の「生きがい」になってしまう場合があります。自分に背負わされた人生の悲哀や苦悩を、自分に与えられた試練・十字架として担って生きていくようになると、その悲哀や苦悩を手放せなくなってしまいます。人生の屈折現象が生じます。しかし、そのような生き方は、人間を根本的には幸せにすることはありません。人生の悲哀や苦悩の原因を追究し、それを取り除き、生きる喜びと生きがいを取り戻したときにのみ、人間は、自分の幸福を自分の手にすることができるのです。「賤民史観」は、被差別部落の人々に、人生の悲哀と苦悩を、それなりに説明してくれます。そして、そのことによって、人生の不条理に対して、怒りと抗議の思いを持つこともあるでしょう。しかし、それは、ただそれだけに過ぎません。人生の本当の幸せは、人生の悲哀と苦悩をもたらす、悪しき力と闘って、それを私たちの人生から取り除く営みの中で実現します。私は、昔から、人間は信頼すべきであると信じています。人間には、潜在的に、そうする力が与えられているからです。

『部落学序説』の批判対象は、ただひとつ、「賤民史観」のみです。

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