2021/10/05

部落学とは何か

部落学とは何か


歴史が歴史に関する学であり、社会学が社会に関する学であり、民俗学が民俗に関する学であるのと同様に、部落学は部落に関する学であるといえます。


部落学が学として成立するためには、部落学は、歴史学や社会学、民俗学に対して、独立した学としての存在理由を明らかにしなければなりません。

従来、部落研究・部落問題研究・部落史研究という名目のもとで、部落に関するさまざまな個別研究がなされてきました。その研究によって、膨大な史料の集積が行われ、それとともに、数多くの論文や研究書が執筆されてきました。累積された資料の豊富さは、ひとりの学者・研究者・教育者が一生をかけても、それらの資料をひとりで読破し、分析と総合という研究作業を完成させるということを困難にしています。まして、筆者のように、無学歴・無資格の「ただのひと」にとっては、基本的な資料を読破することですら至難の技になってしまいます。部落研究・部落問題研究・部落史研究のどの研究主題についても、網羅的な文献を精査することは絶望的な営みであると言えます。

最近、十数年の個別科学研究の成果を見ても、部落に関する個別科学の研究の場合、ほとんど、何の進展もしていない・・・感があります。個別科学研究に限界を感じた学者・研究者から、学際的な研究の必要が叫ばれ、また、学際的な研究方法を身につけた新しい世代の学者・研究者によって、「部落学」と称して、新たな研究が展開されてきてはいるのですが、いまだ試行錯誤の領域を出ていません。それぞれの「部落学」は、研究主体を「被差別」の置いている点など考慮すると、それらの「部落学」は、部落差別の完全解消に向けた、新しい研究的視野を提供しているとは思われない情況にあります。

今日の、部落・部落問題・部落史に関する学会の現状(限界)を認識する方法は簡単です。

その気になれば、誰でも、簡単に、その現状を確認することができます。部落研究・部落問題研究・部落史研究に関する、図書館の郷土史料室の蔵書や、書店で販売されている関連書籍のなかから、複数の著名な学者・研究者・教育者の執筆した書籍20冊程度を任意に選択して、それらを学者別・テーマ別に比較・検証してみればすぐにわかります。

筆者同様、すぐに、現在の部落研究・部落問題研究・部落史研究が、ここ十数年、とりとめのない混沌とした状態にあり、現在にいたるも、いまだに、そのような状況から抜け出すことができないでいる情況を確認することができるでしょう。

「部落とは何か」・「部落民とは誰か」、「部落」・「部落民」に関する定義ひとつをとっても、学者・研究者・教育者によって異なる定義がなされています。「部落」・「部落民」を定義付することに熱心なひともいれば、これまでの研究結果から、「部落」・「部落民」を定義付することを断念したひともいます。なかには、「部落の定義を繰り返すことは、いたずらに事態を悪化させるだけなので、そのような不毛な議論はもうやめよう・・・」と、自分だけでなく他者の取り組みをも断念に導くことを提案するひともいます。

しかし、部落研究・部落問題研究・部落史研究に携わるものが、部落を定義することは不可能であるというのは、何を意味しているのでしょうか。学者や研究者が、「部落」・「部落民」を定義することに絶望し断念している姿をみると、無学歴・無資格の「しろうと学」の筆者ですら首をかしげてしまいます。学者・研究者の中に、「この世の中には、定義することができないような不思議・謎が存在している」と考えているひとがいるのでしょうか。学者・研究者が、「部落」・「部落民」の定義を断念するというのは、学者・研究者が、学者・研究者としての良心と責務を放棄し、困難な問題を前に敵前逃亡していることにならないのでしょうか・・・

部落・部落問題・部落史研究を遂行する個別科学は、歴史学、地理学、社会学、民俗学、文化学、人類学、法学、政治学、宗教学等多岐に及びます。どの個別科学研究も、33年間15兆円という膨大な時間と費用を費やして実施された同和対策事業・同和教育事業のなんらかの恩典(研究費)にあずかってきたのではないでしょうか。それにもかかわらず、「部落」・「部落民」という、基本的な定義すら確定できないでいるということは何を意味しているのでしょうか・・・。その研究費すら支出されなくなった今、部落研究・部落問題研究・部落史研究のあらたな展開を望むことはできなくなっているのでしょうか・・・。

異なる個別科学の研究者間の共同研究という点では、歴史学者の沖浦和光と民俗学者の宮田登の対談があります(『沖浦和光・宮田登対談-ケガレ-差別思想の深層』解放出版社)。しかし、『ケガレ』を通読してみればわかるのですが、歴史学と民俗学のケガレ観の違いについて、それぞれの立場からの見解が披露されているのみで、両者の研究成果を総合するような試みはほとんどなされていません。歴史学と民俗学の学際的研究によって、歴史学と民俗学の違いがより鮮明になったに過ぎません。歴史学と民俗学の研究成果を、批判・検証のうえ、総合するという、文字通りの学際的研究には達していないのです。しかし、歴史学者の沖浦和光と民俗学者の宮田登の対談は、希有なこころみとして一読に値する書であります。

種々雑多な論文の集積という点では、『脱常識の部落問題』(かもがわ出版)があります。部落研究・部落問題研究・部落史研究に携わる28人の学者・研究者の論文が収録されています。しかし、この論文集は、28の学者や研究者の、それぞれの研究成果をアトランダムに収録しているに過ぎません。「部落」・「部落民」に焦点をあてて、多角的な視点からその解明に挑んだ・・・という類のものではありません。ただ、多様な学者の多様な研究成果が列挙されているに過ぎません。『脱常識の部落問題』の読者は、部落研究・部落問題研究・部落史研究の「常識」の破綻のみをしらされ、そこから、部落研究・部落問題研究・部落史研究の新しい展望を見つけることは容易ではありません。

また、一方で、異なる個別科学の研究者間の共同研究ではなく、ひとりの研究者による複数の個別科学研究の有機的関連をもった学際的研究というものもあります。

たとえば、川本祥一の『部落差別を克服する思想-どうしてそこに部落があると思いますか?』(解放出版社)がそうです。著者の川本は、立教大学で、学生に、「日本文化の周縁」という科目名で「部落学」を教えていますが、歴史学・社会学・民俗学等を、「ひとつの分野」とするとしています。川本は、「部落学」という、新しい学問の提唱者であるといっても過言ではありませんが、川本は、その『部落差別を克服する思想』を「部落学」の教科書として採用しています。川本の「部落学」が何であるかを確認するためには、その著『部落差別を克服する思想』をよめばいいということになります。筆者は、部落研究・部落問題研究・部落史研究の学際的研究に触れたいひとは、川本の『部落差別を克服する思想』の一読をおすすめします(筆者の『部落学序説』が提唱する「部落学」との違いもあきらかになります)。

また、同様に部落学を提唱している人に、辻本正教というひとがいます。彼は、『東北学別冊5』において、「あらゆる学問を結集して、それこそ学際学的手法に基づく部落学として、それぞれの疑問を取り除いていく・・・」ことを提案していますが、彼の「部落学」に関する言及は、彼の主要な研究論文『ケガレ意識と部落差別を考える』と比較・検証してみる限りでは、「部落学」を指向する彼の理念と、実際の彼の個別科学研究との間には、おおきな隔たりがあるように思われます。

一時、インターネット上で、大阪市立大学においても「部落学」構築が試みられているとニュースがながされていたと記憶していますが、大阪市立大学の野口通彦は、「歴史学」・「社会学」の学歴・資格を背景に、新たな提案をしています。野口通彦の代表的な著作に、『部落問題のパラダイム転換』がありますが、その内容は、無学歴・無資格の「しろうと」目からみてもかなり荒っぽいもので、学者・研究者としては非常に粗雑な議論を展開しています。野口のいう部落問題のパラダイム《転換》は、決して《転換》ではなく、従来のパラダイムの本質をそのままに単に装いを替えただけに過ぎません。差別解消というより、部落差別の拡大再生産に直結するような論法を展開しています。

上記の例をみてもわかるように、部落研究・部落問題研究・部落史研究の個別科学研究から学際的研究へのこころみは、まだ、はじまったばかりの初期的段階に過ぎません。今後、本格的な研究成果が、学者や研究者から明らかにされるのでしょうが、そういう学会の流れとはまったく別に、『部落学序説』の筆者である私は、ただ、山口県北の寒村にある、ある被差別部落の古老の聞き取り調査で知り得た証言を歴史的に裏付けるべく、必要に迫られて、歴史学・社会学・民俗学等を総合化して、部落学構築を指向しはじめたのです。

筆者は、日本の社会から部落差別を完全に解消していくためには、「部落学」の構築が急務であると確信しています。部落差別は、政治・文化の両面に根強く浸透しているので、その根っこを掘り起こして、その差別の原因を明らかにするには、従来の個別科学研究の単なる累積だけでなく、部落差別を、ひとつの社会システム、法システムとして、その全体構造の中に位置づけなければならないと思っています。政治・文化の世界から、「被差別部落」に関する史料を抽出して、社会システム・法システムから切り離された特殊な環境下での研究には限界が存在すると思われます。

更に、「部落学」を標榜する先行する研究を読んで思うのですが、「部落学」構築の前に、「部落学」の主体と「部落学」の客体について何らかの検証が必要ではないかと思います。そうしないと、個別科学研究がもたらしたのと同じ状況、諸説の恣意的な陳列に終わってしまいます。先行している「部落学」は、その研究主体を、「被差別部落出身者」であると宣言しています。これまでの、非被差別部落の学者によってなされた研究が必ずしも、部落差別解消に役立っていないという点では、部落差別を受ける側から、そのような試みがあってもいいとは思いますが、しかし、「部落学」として「学」を標榜する以上は、「部落学」は、特定のひとに限定されるものであってはならず、万人が行うことができる「万人の学」として開かれたものでなければならないと思います。その立場が、「差別」であろうと「被差別」であろうと、「部落学」固有の研究方法と研究成果は、「差別」・「被差別」の両者で共有されなければならないと思われるのです。部落学の研究主体を「被差別」に限定するのは、部落学が「学」であることを自ら放棄し、「学」として自己否定するに等しいのです。

部落学構築の前に、「序説」(プロレゴメナ)として、①部落学の主体(差別・被差別の関係)、②部落学の客体(研究対象と研究方法)、③部落学研究で使用される、「賤」・「穢」・「屠」等の基本用語の定義、④民俗学の「気枯れ」、歴史学の「穢れ」の解釈の統合の可能性等、⑤研究者の前理解について、あらかじめ批判・検証する必要があるではないかと思います。「序説」(プロレゴメナ)を経ずして行われる、個別科学研究の単なる集積・糾合としての部落研究・部落問題研究・部落史研究や「部落学」は、多くの場合、研究者の恣意と思いつきに終わるのではないかと思います。

部落学に携わるものは、「部落学」の前提となっているさまざまな要素を、徹底的に批判と検証にさらさなければならないと思います。『部落学序説』は、「部落学」を学たらしめるところにその存在理由があります。

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