2021/10/04

丸岡忠雄とふるさと

丸岡忠雄とふるさと 山口県光市教育委員会が作成した同和問題の啓発用パンフレット『ふれあいがある ぬくもりがある わがまち・光』があります。

その中に、被差別部落出身の詩人・丸岡忠雄の二つの詩が掲載されています。ひとつは、有名な『ふるさと』という詩です。

"ふるさと"をかくすことを 父は けもののような鋭さで覚えた ふるさとをあばかれ 縊死した友がいた ふるさとを告白し 許婚者に去られた友がいた 吾子よ お前には 胸張ってふるさとを名のらせたい 瞳をあげ何のためらいもなく "これが私のふるさとです" と名のらせたい

もうひとつの詩には、光市教育委員会によって、「10年後の詩」という注が付されています。

その詩の題名は、『時の貌(かお)』。 きょう 学校で学んだという 部落問題を父に訊ねる 中学生になった吾子の 生き生きと澄んだ瞳に もうふるさとの重い翳りはない 無駄に流れてはいなかった。 たしかな"時"の貌を 私ははっきりと子の眉に見た

山口県で部落解放運動に参加したある青年は、丸岡忠雄の詩の中に、山口県の部落解放運動の限界をみることができるといいます。丸岡忠雄のような優秀な人でさえ、自分の子どもに、部落出身であることを直接教えることができないでいると。 丸岡忠雄にとって、部落差別から解放されるということは、被差別部落の人々が生まれ、育ち、生き、そして死んでいった、愛すべきふるさとを、誇り得るふるさととして取り戻すことを意味していました。しかし、丸岡は、自分のこどもに、父と母が生きているふるさとが被差別部落であることを伝えることにためらいを持っていて、いつのまにか時が経過、中学生になったこどもが、学校の同和教育で習ったことを他人事のように、「おとうさん、部落差別って何?」と訊ねたのではないかというのです。 丸岡が、自分のこどもにどのように答えたのかは知りませんが、丸岡は、部落差別について訊ねる自分のこどもの目に、被差別の悲しさや痛みという、「ふるさと」がもたらす「重い翳りはない」と感じるのです。 同和対策事業は、決して無駄ではなかった・・・。光市教育委員会は、丸岡忠雄の詩を借りて、光市の同和対策事業や同和教育が、10年という時の流れの中で、大きな成果を手にすることができたと自ら評価しているのでしょう。 本当に、山口県光市の部落差別問題は、解消したのでしょうか・・・。

その被差別部落にあって、「21世紀までに、部落差別をなくしよう」というスローガンの下に、政党・運動団体が一致協力して取り組んできた同和対策事業と同和教育は、所期の目的を達したのでしょうか。国による同和対策事業の終了宣言と共に、ほとんど話題にならなくなった現在、普通の市民生活をしている私の耳元には、何も伝わってきません。

光市の被差別部落は、全国の被差別部落に先駆けて、「もう差別的実体はなくなった」として、同和対策事業や同和教育の打ち切りを宣言した部落でもあります。

1985年3月にNHK大阪放送局が作成したテレビ番組『差別からの解放-胸張ってふるさとを-』の中で、大阪・和歌山・島根・福岡・鹿児島に混じって、山口の被差別部落も取り上げられていました。後日、そのディレクターの福田雅子は、《取材ノートの余白から》という文章の中で、「放送には出さなかったことば、映像にはないもうひとつの事実が、鮮やかによみがえる。」といいます。

「"ふるさと"をよまれた丸岡忠雄さんが、急性心不全で五月に逝去された。番組の冒頭に、この詩を朗読していただいた日、丸岡さんのふるさと山口県光市の海は青く、白砂に松林が続いていた。ご子息誕生から20年、その成人をよろこびながら、丸岡さんの心は、いまだに結婚差別に出会う若ものがあることを悲しんでいた。」と伝えていました。

そのときから、今日まで、また20年が経過しました。

丸岡忠雄さんの愛するご子息は、今は40歳を越えておられると思いますが、すでに結婚して、こどもを与えられ、幸せな家庭を作っておられると信じていますが、ご子息は、自分のこどもに祖父母のふるさと、父母のふるさとが、被差別部落であること、そしてその歴史を、みずから、教えておられるのでしょうか・・・。

私は、光市教育委員会発行の同和問題の啓発用パンフレットに記載された、丸岡忠雄の二つの詩を見たとき、「なぜ、彼は、自分のこどもに本当のことを伝えないのか・・・」という疑問の思いをもちました。そして、その理由を求めて、資料を漁るようになったのですが、私の目に映った丸岡忠雄「ふるさと」はこのようなものでした。

国立国会図書館に保存されている『周防國図』を見ながら、光市室積の港から萩城下へ向けて陸路旅をするときの道のりをたどると、すぐに、丸岡忠雄の「ふるさと」である場所にたどりつくことができます。

その「ふるさと」は、重要な街道の拠点で、他の多くの穢多村が配置されたのと同じ条件を満たした場所にあります。その先祖は、差別的な意図を持って、自然災害の多い場所へ押し込められたのではなく、街道警備上重要な場所だから配置されたのです。

近世幕藩体制下にあって、丸岡のふるさとは、近世警察の重要な拠点のひとつでした。

そこには、長州藩の牢屋が配置されていました。18世紀後半に、その牢屋は廃止され、「軽罪の者は山代牢屋、重罪人は萩牢に送られることに」なりました(岩本忠一著《「地下上申」絵図による浅江周辺の歴史について》)。

浅江の穢多村の穢多たちに支給される、役人に対する報酬は、当時の職人とほとんど同じでした。これは、「穢多役」という「役務」に対する報酬で、浅江の穢多たちは、その他に、「身分の低い武士」(百石以下)に許可されたのと同じ、特に、中間や足軽に許可されたのと同じ「家職」を持つことが許されていました。穢多の収入は、庄屋等の村役人や本百姓の収入と比較すると、きわめて少なかったかも知れませんが、貧農層の百姓とくらべると比較的安定した収入が保証されていました。百姓の年収というのは、稲作が主たる家職であるため、天候の如何によって収入に大きな差がでてきます。干害や冷害によって、稲が凶作に陥ったとき、一家が路頭に迷い餓死する危険性にいつも直面していました。しかし、長州藩の穢多は「役人」と呼ばれ、なんらかの形で藩から手当てが恒常的に支給されていました。凶作・豊作に関係なく一定の収入が保証されていました。

凶作によって、百姓の中から多くの餓死者がでるときも、穢多は「役人」として、一揆の発生を防止し、行き倒れになったりする人々の保護等を行っていましたので、藩から、それ相応の手当てが支給されていました。ただ、貧しい農民に対する救済費の中から、その費用が計上されていますので、穢多も貧しい農民と同じ立場に置かれていたと解釈する研究者がいますが、それは歴史資料が伝えている事実に反します。農民が飢饉で餓死しているときも穢多はその立場上餓死することはありませんでした。中には、「山口県北の、ある寒村にある被差別部落」の「穢多」たちの中には、寒い冬の朝、餓死していく農民に自分たちの食料を渡して、結果、農民と同じく餓死していった「穢多」はいますけれども・・・、例外です。

いろいろな歴史資料から、浅江の穢多村には、現在でいう「警察学校」があった可能性があります。つまり、長州藩熊毛宰判の浅江では、「穢多」・「宮番」の養成所があったということです。浅江の非常民の養成所を卒業した穢多は、長州藩の本藩領の町々や村々において「宮番」として赴任していきました。彼らは、職務に非常に熱心で、一端、所定の場所に配属されますと、ほとんど一生をそこで「宮番」として過ごしたといいます。現代的に言えば、派遣され駐在所で、村民に信頼され、愛されて、警察官としての人生を全うしたということです。

浅江には、犯人逮捕に際して使用する逮捕術(十手や六尺棒の使い方)についての固有の流儀があったといわれます。穢多・茶筅・宮番は、帯刀することを禁止された百姓だけでなく、身元不明の浪人に対する取り締まりも行っていたのです。当然、刀を振りかざす浪人を取り押さえるすべを知っていないと、一刀両断のもとに切り捨てられてしまいます。日頃の逮捕術の訓練は相当厳しいものがあったと思われます。一般的には、近世警察官としての「宮番」の職務内容は、調査までで、実際の犯人逮捕に際しては、代官所の指示のもと、代官所直属の武士と穢多の多人数によって、集団で、行われました。現代の犯人逮捕の場面とそんなに大きな違いはありません。

浅江の先祖は、近世警察官として、当時の「法」であるお触れに忠実な人々でした。

少ない収入にも関わらず、与えられた職務に、規律と責任を貫いて生きてきた人々でした。

しかし、現代の丸岡忠雄さんの「ふるさと」は、そのような歴史をすべて忘れてしまったかのような感があります。水平社宣言に、「我々は、かならず卑屈なる言葉と怯懦なる行為によって、先祖を辱かしめ人間を冒涜してはならぬ」とありますが、明治以降、浅江の穢多の末裔が、「卑屈なる言葉」(自らを卑下し、自らを辱める言葉)と「怯懦なる行為」(臆病で意志の弱いこと)に陥り、「先祖を辱かしめ人間を冒涜して」きた・・・のは、なぜでしょうか。

私は、被差別部落の人々から本当の歴史を奪い、「みじめで、あわれで、気の毒な」歴史を押しつけてきた「賤民史観」にあると思っています。日本は、敗戦によって、大日本帝国憲法から日本国憲法に変わりました。大幅に国民の自由が保証されました。民主主義の重要なキーワードである「表現の自由」の中には、自らの歴史を自由に語り得る権利もあったわけです。

しかし、戦後も、旧穢多のたどった歴史について、根本的に見直す機会は到来しませんでした。歴史学の実証主義に立って、様々な歴史資料から、旧穢多について調べ直すことも選択できたはずです。しかし、被差別部落の側は、自らの歴史を尊重しなかったため、間違った皇国史観や、間違った唯物史観に踊らされて、戦前と同じ、否、戦前よりももっと、「みじめで、あわれで、気の毒な」イメージを濃厚に持った「賤民史観」の担い手となっていったのです。

「賤民史観」は、間違った皇国史観と間違った唯物史観に共通の観念的な産物以外の何ものでもなかったのです。「右」と「左」のイデオロギー的な史観によって、旧穢多についての実証主義的研究が大きく疎外されてしまったのです。政党的に言えば、「自民党」も、「社会党」も、「共産党」も、同じ「賤民史観」の上に立っていたのです。運動論的に言えば、「同和会」も、「解放同盟」も、「全解連」も、「全国連」も、ほとんど寸分違わぬ「賤民史観」に立脚していたので、「賤民史観」を批判的に検証する雰囲気はどこにもありませんでした。部落差別問題をめぐっては、戦前・戦後を通じて、日本全体が病んでいたとしか思いようがないのです。

被差別部落の教育者であり、詩人である丸岡忠雄が、自分のこどもに、「ふるさと」の歴史・物語を、父親の言葉として語り伝えることができなかった歴史・物語とは、いったい、何だったのでしょう。

「ふるさと」のもうひとりの末裔、「教育者であり詩人である丸岡忠雄」の対極にある、「実業家の村崎義正」の公開された文章を検証することで、その謎の解明に挑戦してみましょう。


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