2021/10/03

近世幕藩体制下の遊女

近世幕藩体制下の遊女


長州藩の史料では、「遊女」の社会的な身分は、「百姓」に帰属します。

喜田川守貞著『近世風俗志』の「巻之二十一」と「巻之二十二」に、喜田川が行った近世幕藩体制下の「娼家」に関する調査があります。

喜田川は、天保年間の遊廓と遊女に関する調査を、「知的レベル」で実施しました。その資料収集にあたっては、なかなか思うようにいかなかったようで、当時の遊女の格付けと値段表『諸国遊所見立角力并直段附』を入手するには相当時間がかかったようです。

この表を見ると、当時の日本全国の遊郭の格付けがなされています。

長州藩を例にとると、下関稲荷町の遊郭は、「前頭」に位置付けられます。遊女の「値段」は銀24匁。同じく下関の伊崎は銀12匁。上関は9匁よりとなっています。

『防長風土注進案』によると、上関には、50人を超える遊女がいたようですが、その身分は、「百姓」に帰属します。

『防長風土注進案』の記載では、「武士」と「百姓」に2分類されていて、「武士」の系列にあらざるものは、すべて「百姓」に数えられています。「遊女」は、「武士」ではなく「百姓」身分に算入されています。

近世幕藩体制下で「武士」出身者で「遊女」になった人は、なんらかの事情で「武士」格を剥奪されたあと、「遊女」になったと思われますので、「遊女」は、すべて「百姓」に帰属するようになるのです。

喜田川の調査から推測しますと、「遊女」になった人は、2様に分類されます。まず、自分の意志で遊女になったひと。遊女もひとつの「家職」として、その道に入り、たくさんの遊女を抱えて大儲けを企む人々です。また、それに、ある意味賛同して、遊女になっていく人々です。

近世幕藩体制下の遊郭に関する史料を見ていて思うのですが、女性を「遊女」に仕立てる最も大きな力は同じ女性自身ではなかったのかと思うのです。

喜田川は、その他に、自分の意志ではなく、他から強制されて遊女になった人々が存在することを書きとどめています。

まず、まったく見ず知らずの人に誘拐・拉致されて、他国に遊女として売られる場合です。藩を超えて暗躍する人身売買組織がある場合、遊女として売られた娘を取り戻すことはほとんど不可能であったと思われます。

次は、子供のいない家庭に請われて養女に出している場合、「養父の貧戻より私かに養女を娼家に売る。実父あるひは死亡、あるいは遠国、遂にこれを訴ふことを得ず・・・」という悲惨な状態に陥ったようです。

喜田川は「江戸の地獄」と言う表現を用いていますが、この言葉が何を意味するのか定かではありませんが、自分の意志に反して、非人間的な状況に陥れられた女性の境遇を指して「江戸の地獄」と呼んでいるのかもしれません。江戸には、自分の意志に反して、遊女とされた多くの女性が存在していたのでしょう。彼女たちにとって、江戸は「穢土」そのもの、地獄以外の何ものでもなかったと思われます(「江戸の地獄」は、幕府が無許可の違法風俗業のことだそうです)。

『吉原と島原』の著者・小野武雄は、「遊女が町医者の許へ運ばれてゆく場合は、ほとんど瀕死の重病人で、治って帰れる場合がなかった・・・」といいます。名もなき女性たちが、遊郭という「地獄」で、死ぬまで、「商売道具」としてこきつかわれ、大病を患うと、ごみくずを捨てるかのごとく捨てられた様をみると、本当に胸つぶれる思いがします。

数年前、山口県立某高校に、ある仕事で勤務していたとき、お昼の休憩時間に、職員室で、ある女性教師と話をしたことがあります。それは、現代の高校生の性風俗についてです。その女性教師は、現代の高校生は乱れに乱れていることを強調して、その原因は、親にあるといいます。親が、自分の子供にきちんと教育しないので、学校がどんなに注意・指導しても効果がないというのです。

その話をききながら、筆者の娘が小学校のとき、親を対象にして開かれた同和教育の席上で、講師の教師が、「小学校では、同和教育を正しく実践しています。しかし、せっかく、人権感覚に富んだ教育をしても、生徒が家に帰って、おじいさん、おばあさん、おとうさんやおかあさんから、差別的な話をきかされると台無しになってしまいます。くれぐれもそういうことがないように・・・」と、部落差別がなくならい理由として、家庭と親に原因があるような説明をされていましたが、山口県立某高校の女性教師が「親が、自分の子供にきちんと教育しないので、学校がどんなに注意・指導しても効果がない」と嘆いていたのも、同じ発想ではないかと思って話を聞いていました。

すると、何を思ったのか、その女性教師はこのような話をしました。「考え方によっては、風俗は必要なのですよね。うちの娘のように、育ちのいい娘を変な男の毒牙から守るためには、風俗の女がきちんと相手をしてくれないとね。そうしたら防げるのよね・・・」。

私は、「何を言い出したの?」と思いながら、その女性の顔をじっと見続けました。どう答えたらいいのか、言葉を捜しあぐねたからです。

すると、その女性教師は、「あら、わたし、何か変なことをいいましたか?」と、私に問い掛けるのです。

私は、ますます言葉を失って、ただ、その女性教師の目をじっと見続けました。

すると、彼女は、「あら、わたしとしたことが、とんでもないことを言ったみたいで。あの、この発言、なかったことにしてください。」というのです。

最近、山口県でもいろいろな事件が発生します。教育現場を舞台にした事件も多発しています。その都度、思うのですが、小学生・中学生・高校生などの生徒がさまざまな事件を起こす背景に教育現場の荒廃があるのではないかと思うのです。それも、教えられる側ではなく、教える側の方に・・・。

私は、彼女にひとこと、このように言いました。
「先生、先生はどのような姿勢で高校生を指導されているのですか。親の立場から気になります・・・」。

そして、福沢諭吉の売娼制度の話をしました。「売娼制度」が如何に残酷なものか、非人間的なものか・・・。その教師のこころにどこまで届いたのかこころもとないのですが・・・。

ある被差別部落でこのような話を聞いたことがあります。
「被差別部落の女性は、遊女の世界でも差別されていたんです。男たちは、部落の女性は穢れているといって抱きませんでした・・・。」

遊女について話をしているときに、男性だけでなく、時として、女性自身から、残酷な言葉が飛び出してきます。私は、その都度、語るべき言葉を失ってしまうのですが、多くの人は、「遊女」の問題を話すときに「的を外す」のです。「遊女」だけではありません。「穢多」について論じるときにも「的を外す」のです。

「的を外す」というのは、聖書では、「罪を犯す」という意味なのですが・・・。

旧約聖書の中に、『レビ記』というのがあります。その19章29節に「あなたの娘に遊女のわざをさせて、これを汚してはならない。これはみだらな事が国に行われ、悪事が地に満ちないためである」とあります。

旧約聖書の言葉によると、「売春制度」と政治の頽廃、社会の紊乱とは、大きな関係があるというのです。

逆からみると、日本の政治の汚職や不正などの腐敗体質(おとなの側の悪)が取り除かれると、教育上のいじめや万引きなどの様々な問題(こどもの側の悪)も取り除かれるのではないかと思います。こどもの荒んだ現状は、おとなの荒んだ現状の反映でしかないのです。

自分のこどもさえ守られたら、人さまのこどもが風俗にはしろうと何しようと関係がない・・・というような教師の姿勢が、今日の教育の混乱を引き起こしているのではないでしょうか。学校の教師が「本音」としてそのような思いを持っているとき、どうしてまともな教育が実践されるのでしょうか。教育することに失敗した教師ほど、社会的に害になる存在はありません。なぜなら、何十人というたくさんのクラスのこどもに間違った観念、倫理・道徳を教えるからです。

教師の語るひとことが、どれだけ、多くのこどもたちに消すことのできない影響を与えているか反省すべきです。

中学校の校長が同僚の若い教師を天井から盗視する事件がありましたが、教育界の不祥事は、いつも、「とかげのシッポ切り」で終わってしまっているようなところがあります。「犯罪を犯したのは例外的存在・・・」と片づけることで、真に解決されていない問題が累積し、腐敗臭を放って教育界を蝕んでいくのです。

郵政事業民営化に反対した自民党員に対して、小泉首相は、徹底した「懲罰」で出ているようです。

「発言の自由」が憲法で保証される日本で、しかも、国会の審議過程で、政策論議を踏まえて、郵政事業民営化反対を唱えた議員を、再選させないように「刺客」を送り込んで徹底的に潰してしまおうとする姿勢、そのためには、なりふりかまわず、「くのいち」と称して女性候補者を大量投入する姿勢、党の方針に従わないことを理由に、反対議員を「自民党から限りなく野党の側に追放する」やり方、「権力」を駆使して発言を封じる姿勢は、今後、日本社会に大きな、深刻な影響を与えること必定であると思われます。

力を持って発言を封じる・・・、そんな風潮が強まるのではないかと思います。

小泉は、参議院の議決を完全に無視しています。参議院も、憲法上定められた「国会」です。これほどまでに徹底的に無視するとは、小泉は、日本国憲法を土足で踏みにじっているとしかいいようがありません。一国の首相が、日本国憲法を恣意的に解釈して、事実上の改憲を行うということは決して許されるものではありません。

「力」ではなく「言」にものを言わせるのが、現代の政治家が政治家たる所以ではないかと思うのですが・・・。逆に「言」を「力」で圧殺する、戦前の軍国主義化への道を想定させるような事態が一般化しつつあるのです。危機感を感じてしまいます。

小泉は、山口県の高校の教師が「自分のこどもさえ守られたら人さまのこどもはどうなってもいい・・・」と考えているように、小泉の「政策に賛成するひとが守られれば、反対勢力や野党はどうなってもいい」という姿勢は、問題解決ではなく、あらたな問題を引き起こす悪しき決断でしかないと思われます。

今後、教育現場においても、こどもたちが「言」ではなく「力」を誇示する風潮が高まるでしょうか。危惧されるところです。

またまたかなり脱線してしまいましたが、この文章は、「穢多と遊女」でした。「穢多」と「遊女」はどのような関係があるのか。

近世幕藩体制下の「穢多」は、当時の司法・警察であり、当時の風俗を取り締まる立場にありました。一方、「遊女」はその取締りの対象でした。「取り締まる側」と「取り締まられる側」は、まったく異なる存在です。筆者は、それを「非常民」・「常民」という範疇で区分しました。

「穢多」と「遊女」は、混同することができない概念なのです。

しかし、「賤民史観」に身を漬けている部落史研究者は、この「穢多」と「遊女」を「賤民」という同一概念で把握しようとします。その最たるものは、関西大学文学部講師の上杉聡です。「賤民史観」に埋没している彼は、部落差別を、解決不能な世界へと追いやるのです。その論理は、「穢多」の歴史的な本質を相対化し、「遊女」と同じ「身分外身分」・「社会外社会」へ追いやる論理です。(続く)

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