2021/10/04

「穢れ」の語源論・意味論の限界

 「穢れ」の語源論・意味論の限界


雑誌『別冊東北学』(第5巻)で、「部落学」を提唱したのは辻本正教という人です。

もちろん、私は、辻本正教という人と面識はありません。彼の主著『ケガレ意識と部落差別を考える』の著者紹介を見ると、奈良県出身、関西学院大学文学部卒、部落解放同盟奈良県連事務局にお勤めになっているかたわら、部落解放同盟中央執行委員の重職にあり、また大阪市立大学や天理大学で講師もされているそうです。

辻本は、そのあとがきで、「「部落とは何であり、部落差別とは何であるのか」「部落民とは何であり、穢多とは何であるのか」。このことの解明なしに、部落解放運動の真の前進はありうるのか、いやありえない」といいます。「いったい人々は、なぜ我々を今に至るも差別し続けるのか」と記していますが、「我々を差別する」という表現は、辻本の「部落民宣言」なのでしょうか。そうだとすると、辻本は、「部落民」として、その主体をかけてこの文章を書いているということになります。

辻本は、「過去二十年間、ケガレ観とは何かの分析に、憂き身をやつしてきた」といいます。

この書を、期待を持って読んだあとの感想は、「よくこんな荒唐無稽な文章を書けたものだ・・・」という驚きでした。もし、私が、大阪市立大学や天理大学の学生であったとしたら、辻本の講義を聞いたあと、すぐ、教授会に「他の講師に変えてほしい」と嘆願することになったでしょう。想像をたくましくすれば、大学の教授会は、関西学院という学閥や部落解放同盟というバックを配慮して、問題提起した私を即刻退学処分にしたのではないか・・・と思います。たとえ、退学処分になるのを覚悟しても、「もっとましな講師に変えてほしい」と、私は言い続けたと想定されます。

辻本が、提案する研究方法は、「語源論」。「こだまはこだまである」と説明されても分からないが、「こだまは木霊である」と説明されるとよく分かるというのです。「人間の思考、精神世界とは何であるかをよく知ることができる」というのです。こだまを木霊と置き換えることは迷信的説明になります。迷信的説明が、「人間の思考、精神文化」を知る手がかりになるのでしょうか。

再三いいますが、私は、大学という名前のついた場所で、大学教授という肩書のついた人から講義を受けた経験は一度もありません。「学歴なし」「資格なし」の無学なただの人です。そんな私でも、辻本のこの説明は、「奇怪しい」と感じます。

私の批判に対して、辻本に「語源を追求することそれ自体が間違いだなんていうのは、言葉というものに対する冒涜にも等しい」と居直られると、唖然としてしまいます。更に、お前の「感覚がマヒ」「十分な判断力がなくなっちまってる」と批難された分には、教授と学生の間の一発触発的雰囲気に突入してしまいます。「これでも大学の先生かよ」と言って、彼の本を床に投げつけたかもしれません。あくまで、想像ですが・・・。

辻本は、『別冊東北学』の中で、赤坂憲雄と対談して、このようにいいます。

「あらゆる学問を結集して、それこそ学際学的手法に基づく部落学として、それぞれの疑問を取り除いていくということをしないと。部落問題はそれくらい大きくて、とんでもないテーマですよ。」と言います。部落学を提唱する辻本と、ケガレについて、重箱の隅をほじくるような論文『ケガレ意識と部落差別を考える』の筆者である辻本と、どこでどう切り結べばいいのか戸惑ってしまいます。

『ケガレ意識と部落差別を考える』を何度も読み返しながら、「まあ、よく、こういう荒唐無稽な文章を書けたものだ・・・」と、繰り返し、ため息をつかざるを得ないのです。

そして、こんな「邪心」を起こしてしまいます。

「辻本は、本当に、被差別部落出身なのだろうか・・・」。言葉においても、文章においても、行間においても、辻本の論文からは、被差別に置かれたものの、悲しみや苦しみ、怒りや闘い、希望や夢・・・、他の人の書いた論文でいつも目にするところのものが、何もないことに気づかされるのです。そして、山口に住んでいたある人物を想定してしまいます。

関西学院大学で勉学していた彼は、授業料納入に困って、ある人に相談したら、部落解放同盟の某支部の書記の仕事を紹介してくれたそうです。そこで、彼は、某支部の書記を手伝う見返りに、解放奨学金をもらって、大学を卒業することができたというのです。彼は、山口では、部落差別問題とは全然関わりをもとうとしませんでした。

私は、彼に対して感じたのと同じことを、辻本に対しても感じてしまうのです。私と辻本の関係は、「差別(真)」と「被差別(真)」の関係ではなく、「差別(真)」と「被差別(偽)」の関係ではないかと、思わざるを得ないのです。

『ケガレ意識と部落差別を考える』に出てくる辻本の言葉は、「鵺」(ぬえ)の鳴き声と聞こえてしまうのです。実体がないのにさもあるかのように「観念」しているのは辻本自身なのです。

辻本の「語源論」の限界は、その書名にすでに現れています。

『ケガレ・・・と部落・・・』。助詞の「と」は、同格の「と」、並列の「と」と考えられます。さすれば、「語源論」は、「ケガレ」だけを対象としないで、「部落」をも対象とするべきでした。しかし、辻本は、「部落」の「語源論」的解釈は一切していません。辻本は、「部落」の説明を「特別の空間」とひとことで片づけていますが、「ケガレ」同様、「ブラク」についても、「ブラクという概念が、いったいどういう語幹からできているのか、もともとどのような意味を持った言葉だったのかを探る作業を通じて、我が国の文化や歴史を捉えようというものです」と説明してくれた場合は、納得するところがひとつやふたつできたかもしれません。

辻本は、漢語にだけ、特別な魔力を感じているようで、「部落」の語源、ドイツ語のゲマインデについては何の興味も示していません。「部落」という言葉には、「部」についても、「落」についても、両者を結合した「部落」についても、漢語本来の意味は何も含まれていません。「部落」は単なる記号でしかないのです。ですから、「記号論」ではなく「意味論」に立脚する辻本は、「部落」の語源をたどることに何の興味も持たなかったのでありましょう。

明治政府は、大日本帝国憲法制定に先立って、地方自治制度の確立を図りました。

そのとき、明治政府の顧問になったのは、ドイツ人法学者のアルベルト・モッセでした。国家の支配が及ぶ地方自治の最小単位・基礎単位としての共同体をドイツ法に従ってゲマインデと呼んでいましたが、モッセは、「各種ノゲマインデヲ総括スベキ適当ナ語ナキハ余ノ甚ハダ之ヲ遺憾トスル所ナリ」と言います。ゲマインデの訳語として、登場してきたのが、「部落」という言葉でした。ですから、「部落」という言葉の語源を探るには、元の言葉、ドイツ語のゲマインデを尋ねなければならないのですが、辻本の書には、そのような説明はどこにも見いだすことができません。辻本にとっては、「語源論」の対象は漢語だけであって、西欧語は対象外なのでしょうか。

明治政府が採用した「部落」という言葉は、国家神道下にある、神道を中心とする基本的な共同体を意味していました。民俗学者の柳田国男が、民俗学の研究対象にした村は、仏教伝来以前の日本の古来の村ではなく、この明治政府が企画・設計した、神道を中心とした、新しい共同体のことでした。その「部落」を、明治政府は、外交上の都合で、「一般」から「特殊」を分離する形で、社会的に排除していることを、諸外国に提示しなければなりませんでした。明治政府は、ある人々を天皇制の側に近づけ、「特殊部落」とされた人々を天皇制の外側へと追いやったのです。

部落差別は日本固有のもの・・・、というのは、単なる幻想です。明治以降、日本に部落差別が作り出された責任の半分は、欧米諸国を中心にした諸外国にあります。イギリスに責任があり、フランスやドイツに責任があり、アメリカやロシアに責任があったのです。

私は、部落出身者ではありません。穢多の末裔でもありません。先祖伝来、由緒正しき貧百姓の末裔です。そのような私でも、「部落」の語源をたどっていくと、世界的視野で、部落差別を捉えることができます。多くの学者や研究者が、この事実に目を閉ざしているのは不思議でなりません。

この問題については、本論文の第5章でとりあげます。

この論文の中で、いろいろな書籍を紹介してきましたが、辻本の『ケガレ意識と部落差別を考える』だけは、読書しないことをすすめます。読むと、>/span>魑魅魍魎の跳梁跋扈する世界に陥ります。その世界に関心を持っておられる方は是非お読みください。その方面では、超一流の本です。

私は、辻本正教の『ケガレ意識と部落差別を考える』の代わりに、宮田登の『ケガレの民俗誌 差別の文化的要因』をお読みすることをおすすめします。迷信の世界ではなく、理性の世界で、部落差別問題を考える人にとっては最適な本です。 

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