2021/10/04

部落学と宗教学

『部落学』構築のためには、民俗学・歴史学の他に、宗教学・社会学の手助けが必要です。

宗教学は、ある宗派・教派の固有の学としての「教学」ではなく、宗教一般についての科学的な研究を指します。神道・仏教・キリスト教についての、できる限り、客観的な研究成果に立脚して、「穢多と神道」・「穢多と仏教」・「穢多とキリシタン」の関係について考察する必要があります。

東日本の「穢多」については、「穢多と神道(白山神社)」の問題を避けて通ることはできませんし、西日本の「穢多」については、「穢多と仏教(浄土真宗)」の問題を避けて通ることはできません。この場合の神道にしても仏教にしても、近世幕藩体制下の非常民としての、近世警察としての「穢多」の精神的支柱を形成するものです。

江戸時代300年間を通じて、穢多が穢多であり続けたのは、穢多自ら、穢多の職務に主体的に関わったからであると思われます。望みもしない職務を上から押しつけられて、300年間に渡って黙々と服従してきた・・・というのは想像することすらできません。300年間も穢多であり続けたのは、彼らが、自分たちの非常民としての職務に自信と誇りを持ち続けてきた結果に他なりません。

従来、「被差別部落は西日本に多く、東日本にはほとんど存在しなかった」ということが言われてきましたが、「部落」の近世的前身である「穢多村」は、決して、西日本に多くて、東日本に少ないというような形で偏在していたわけではありませんでした。非常民としての、近世幕藩体制下の司法・警察としての「穢多」は、身分名や役職名の違いこそあれ、日本列島の北から南まで、押し並べて存在していたのです。


※明治以降の旧穢多に対する、「賤民史観」の間違った見解によると、沖縄や北海道には穢多は存在していなかったということになります。しかし、非常民としての「穢多」なる存在は、身分名と役職名の違いこそあれ、沖縄にも北海道にも存在していました。江戸幕府から遠く離れた地、江戸幕府にとっての辺境の地であればあるほど、軍事・警察上の防衛のために、「非常民」なる存在が必要でした。

筆者は、キリシタン弾圧が行われた地には、すべて、キリシタンを取り締まる宗教警察たる「穢多」という「非常民」が存在していたと思います。「穢多」たちは、キリシタン弾圧に大きく関わっていました。幕府と諸藩は、「穢多」に宗教警察的機能を与え、年間行事であった宗門改めでは徹底できないキリシタン禁圧政策を、日本全国の穢多によって、抜き打ち的に戸別調査をさせて、幕府のキリシタン禁圧政策をより徹底したものにしようとしました。

浄土真宗は、宗教教団全体で、このキリシタン禁圧政策に参加していきました。多くの宗教教団が、この世の権力の支配機構になぞらえて、その組織を形成していきます。宗教教団のトップは、自らを「天皇」や「将軍」と同じ権威を持っているものとして自己主張します。しかし、浄土真宗の組織は、極めて例外的な組織を形成します。

浄土真宗は、その教団組織を「軍事」組織ではなく「警察」組織に擬して構成していくのです。浄土真宗門徒は、「歴代本願寺法主」を「弥陀の御代官」として観念していたと言われます。そして、全国に散在する「末寺・寺庵の僧侶」は「如来の与力」として、門徒に受け止められていました。「代官」・「与力」の次には、「同心」・「目明かし」が続くと想定するのは決して間違いではないでしょう。「穢多寺」の門徒である「穢多」たちは、その「同心」・「目明し」・「棒突」を指すことになります。

浄土真宗が自らの教団を非常民としての警察機構を擬して構成するのは、幕藩体制下における浄土真宗の存在理由を宣言したものであると解されます。日本から邪宗門であるキリシタンを排除する、そのために、浄土真宗全体がそのことに関与する、「歴代本願寺法主」が「弥陀の御代官」として門徒に認識されていったというのは、浄土真宗の宗教警察としての自負心のなせるわざではなかったかと思われます。

左右田昌幸の《真宗への歴史的視線へのゆくえ》(『脱常識の部落問題』)には、ショッキングな言葉で綴られた見出しが踊っています。

「本願寺=部落寺院総本山」の可能性

穢多が穢多であり続けるための精神的な支え、それは、真宗門徒としての信仰と倫理でした。広島大学名誉教授の有元正雄は、その著『真宗の宗教社会史』の中で、近世幕藩体制下での真宗門徒の生活と生き方、その信仰と倫理を解明しています。

筆者は、宗教社会史の中から、「穢多」の生き方を見直す必要を感じています。

「部落学」構築に際して、私が依拠する宗教学は、岸本英夫の『宗教学』です。岸本は、神道が、キリスト教に並ぶ宗教であることを立証します。「神道は宗教にあらず」を否定、神道の宗教性を根源的に主張します。「神道は宗教にあらず」という説の根拠として、「神道には教典がない」という理由があげられることがありますが、岸本は、神道の教典と教理をくっきりと描いてみせます。また、『宗教学』の中に、神道とキリスト教が如何に対立関係にあったか、なぜ、幕藩体制下で禁圧されるに至ったのか、その理由を見いだすこともできます。

この章では、歴史学、社会学・地理学、宗教学、民俗学の既存の研究成果を「部落学」の中に吸収していきます。


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※「非常民としての「穢多」なる存在は、身分名と役職名の違いこそあれ、沖縄にも北海道にも存在していました」という筆者の主張に、反発を感じられた方がかなりおられるようです。沖縄や北海道には被差別部落は存在しなかった・・・という説は、網野善彦も主張しています。この説は、部落研究・部落問題研究・部落史研究に携わる人々にとって、なかば常識化しています。筆者は、その常識を否定するかのように、「非常民としての「穢多」なる存在は・・・沖縄にも北海道にも存在していました」とあえて既述したのは、『部落学序説』の研究方法上当然の帰結だったからです。「穢多」は、幕府のキリシタン禁教政策のための「宗教警察」であったと認識する筆者にとって、近世幕藩体制下の「日本」の全土(沖縄から北海道まで)キリシタン弾圧が実施されたと思っています。幕府は、沖縄から北海道まで、全国津々浦々からキリシタンを排除したのであって、決して、キリシタンの「逃れの場」を許しませんでした。沖縄も北海道も例外ではなかったと確信したからです。それと、もうひとつの理由としては、沖縄や北海道には被差別部落は存在しなかった・・・という説を主張する学者・研究者の論理のあまさがあります。論争のための適当な素材を見つけましたので紹介します。東北芸術工科大学教授・赤坂憲雄の論文(http://www.jinken-net.com/old/hiroba/2004/index.html)から、「東北から見た部落差別(上)(その2)」の「折口信夫の沖縄体験から」を全文再録します。

それでは、被差別部落が存在しない地域にあげられる、沖縄の島々はどうだろうか。ここでは、民俗学者の折口信夫が沖縄をはじめて訪ねたときの「沖縄採訪手帖」(一九二一)を、とりあえずの手がかりとする。

そこには、「琉球には、特殊部落とてはない。唯、念仏者を特殊扱ひするだけで、皮屋も、屠児も嫌はない」(※)と見える。大阪の西成郡木津村の生まれであり、厳しい差別の実態を熟知していた折口の眼には、それがたぶん、たいへん珍しく感じられたのである。じつに簡潔な記述ではあるが、折口は三つの重要な指摘を行なっている。すなわち、沖縄には被差別部落が存在しないこと、「皮屋」も「屠児」も忌避されないこと、ただ念仏者(ニンブチャー・チョンダラー)だけが特殊な扱いを受けること、である。

このチョンダラーは、葬儀にさいして念仏を唱え、人形あやつりの芸能を生業とすることで知られた、少なからず賤視を蒙ることのあった人々である。いまはすっかり姿を消した。かれらは中世あたりに、ヤマトから沖縄に渡った念仏系の芸能民の子孫だ、と想像されている。チョンダラーには「京太郎」という漢字が当てられるが、そこにも、それが沖縄に根生いの人々ではないことが暗示されているはずだ。

沖縄の島々には、たしかに、ヤマト的な意味合いでの被差別部落が存在しなかった。折口は書いた、琉球では「皮屋も、屠児も嫌はない」と。ブタの屠畜にしたがう人々も、その皮を剥ぐ人々も、ともに差別の対象にはならなかったのである。かつて、沖縄では、正月の儀礼食として欠かせなかったのがブタ肉であることを、想起しておきたい。

むろん、東北や沖縄の島々が差別のないユートピアだった、などと言いたいわけではない。ただ、少なくとも、東北には被差別部落が少なく、中世以前の東北に、身分や職業にかかわる差別の制度が存在しなかったことは否定できない。沖縄もまた、そうした差別の制度を内発的に生んだ形跡が見られない。その社会的な背景はたぶん、東北や沖縄が生産力の低い遅れた後進地域であったからだ、といった意識せざる「ヤマト中心史観」によっては説明しがたい。それでは、ほかに、いかなる了解の作法がありうるのか。それが次の問いとなる。(※ 引用中の「特殊部落」「屠児」は不適切な表現ですが、原文どおり掲載しました)。


※赤坂憲雄が沖縄には「被差別部落」は存在しなかったと主張する根拠のひとつに、民俗学者・折口信夫の『沖縄採訪手帳』があります。赤坂は、民俗学者・折口信夫が「沖縄には被差別部落は存在しない」と主張していたと解釈します。しかし、筆者の目からみると、折口の「琉球には、特殊部落とてはない」という文章と、赤坂の「沖縄には被差別部落は存在しない」という解釈は、同定することはできません。折口が「特殊部落」をターゲットにしているのに反して、赤坂は「被差別部落」をターゲットにしているからです。概念の時代的変遷(外延の拡大と内包の変節)が無視されています。しかし、両者に共通しているのは、折口も赤坂も、近世及び明治初頭についての言及ではなく、明治中期以降の「特殊部落」(戦前)・「被差別部落」(戦後)の既述であるということです。一方、筆者の「非常民の「穢多」なる存在は、身分名と役職名の違いこそあれ、沖縄にも北海道にも存在していました」という既述は、近世及び明治初頭についての言及です。筆者の「非常民」概念は、「特殊部落」・「被差別部落」概念の批判・検証の上に成立する用語です。筆者は、その違いをこの『部落学序説』で説いてきたつもりですが、なかには、『部落学序説』の「非常民」理解を無視して、『部落学序説』の結論と、一般説・通説の結論を比較して、『部落学序説』の誤謬を指摘される方もおられます。「部落解放同盟の方」の、『部落学序説』の論証の過程ではなく、結論だけをもとめられ、それを評価の対象にしておられるようですが、筆者の『部落学序説』は、読者の皆様に、「論証の過程」を提示しているのであって、新しい「史観」や「運動理論」、「思想」を提示しているわけではありません。沖縄には、折口が大阪で見た「皮屋」・「屠児」の「厳しい差別の実態」を物語る「特殊部落」も「特殊部落民」も存在していなかったかもしれませんが、沖縄の無数の島々を軍事・警察の驚異から守る「非常民」は存在していたのです。中国や日本に貢ぎ物をして、沖縄の平和のために外交努力をするとともに、自分たちの島は自分たちで守るために、すべての島に「非常民」を配置していました。本州・九州・四国と名称・組織・配置がことなるだけです。琉球の古文書の中には、その存在を確認できるものもあります。琉球・沖縄を日本の「植民地」とみなす発想からは、琉球・沖縄が独自の「非常民」システムを持っていたことは容認したくないことなのかもしれませんが、筆者には、逆に、そのような発想の方が理解しがたいのです。筆者の「非常民の「穢多」なる存在は、身分名と役職名の違いこそあれ、沖縄にも北海道にも存在していました」という主張に変更はありません(このテーマで1冊の本が書けそうです)。

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