2021/10/03

「部落」概念の賎民史観的用法

「部落」概念の賎民史観的用法


「部落」という言葉・概念の起源はどこにあるのか・・・。

まず、部落史における研究成果の状況を確認するために、著名な部落史研究家、井上清・上杉聡・川元祥一各氏の研究成果たどってみましょう。

【井上 清】

まず、井上清ですが、戦後の部落史研究に多大な貢献をなした井上清の代表作は、『部落の歴史と解放理論』でしょう。

筆者がこの書を読んだのは、それほど昔のことではありません。山口大学周辺の図書館や古書店を散策して、被差別部落の歴史に関する資料を収集していたとき、ある古書店でみつけたものです。古書店で並ぶくらいですから、各頁はきれいなままです。しかし、一端、筆者の手に渡ると、色とりどりのマーカーとインデックスで、単なる資料に変えられてしまいます。

この『部落の歴史と解放』は、3部構成で、最初が「部落の歴史」と題されています。

この「部落の歴史」の中に、「部落」という言葉・概念がどのような形で登場してくるのか、そのあとをたどってみましょう。

井上清の歴史観は非常に楽観的な歴史観のようです。井上は、日本の歴史の「何千年何万年」という非常に長い歳月には「社会にはどんな差別もなかった」と断定します。

井上には、古代社会を理想化する傾向があります。

しかし、日本列島の社会は、そんな、ユートピアみたいな、「何千年何万年」にも渡って、理想的な歴史を持っていたのでしょうか。

『古代集オリエント集』(筑摩世界文学大系)を見ますと、今から4000年から5000年前に、すでに存在していた社会には、「差別」があり、「差別」を受ける者の痛みや苦しみが綴られています。何を持って「差別」とするかは議論の余地があるのでしょうが、筆者には、太古の「差別」と現代の「差別」の間には違いがないと思われます。

人間の歴史においては、太古の昔から「差別」があったからこそ、仏教をはじめ、ユダヤ教やキリスト教などの人種や民族を超えた宗教が発生したのではないでしょうか。

それなのに、日本の社会においては、全世界の動向と関係なく、差別のない社会が延々と継続されていたという解釈は、どれほどの信憑性があるのでしょうか。

井上清はこのように綴ります。「そのころには、王や天皇、それをたすける役人や貴族などというものもなく、したがって王や貴族におさめられる平民というものものなかった。ましてや平民以下の「いやしい人間「などがあろうはずもない。金持ちも貧乏人もなかった。男がいばって、女は男に差別されるということもなかった。まったくの無差別・平等の社会であった」。

井上清によると、そのような「無差別・平等の社会」に、「差別」が日本の社会に持ち込まれたのは、今から2100年程前であるといいます。日本列島に稲作が持ち込まれることによって、社会の構造に変化がおきます。農業と手工業の分離、精神労働と肉体労働の分離・・・、その中で、富の偏在と集中が促進され、「有力な氏族」と「弱い氏族」に二分化していきます。「有力な氏族」は「弱い氏族」に戦争をしかけて、戦争に勝利すると、戦争に破れた氏族の労働者を自分の「部落」に連れてきて「奴隷」として働かせたというのです。

この時期、「部落と部落の間に、戦争がたえず」おこり、原始共産制の社会は崩壊し、「人が人を支配する」「階級の差別と対立が生まれた・・・」というのです。

井上清の『部落の歴史と解放理論』によると、「部落」の発生は、今から2100年前ということになります。日本に稲作が持ち込まれると同時に、「差別」もまた持ち込まれたというのです。米文化は差別文化なのでしょうか・・・。

井上清によると、日本に米が伝播してから500年から600年後には、大和国家が成立し、「男女の差別」「階級の差別」「身分の差別」が確立されたといいます。天皇制国家は、最初から差別国家として存在しているのでしょうか・・・。

井上清によると、「部落」は、戦国時代から江戸時代前期に、政治的に、意図的に作られたといいます。井上は、「部落」の起源をこの時代に求めます。しかし、井上は、近世幕藩体制下の司法・警察である「穢多」の在所を表現するのに、「えた村」・「役人村」という表現を用います。つまり、近世幕藩体制下の「穢多」の在所を指して、「部落」ではなく「村」と呼ぶのです。

筆者は、日本の歴史を描くときには、一般的には「村」という言葉を、村落共同体の意味で使用して、「被差別部落」について言及するときだけ「部落」という言葉を例外として使用すると思っていたのですが、井上は、地図と海図を取り違えて描いて見せるように、村落共同体を表現するのに、一般的に「部落」を使用して、被差別を表わす村落共同体を表現するのに「村」を使用しているのです。

なぜなのでしょう・・・。

筆者は、井上清が、「部落」という概念を、意図的にあいまいに用いているとしか考えられません。井上は、「部落」という言葉・概念が、明治天皇制下の地方自治制度確立が審議されたときに、新たに、近代西欧の法制用語の訳語として登場してきたことを知りながら、「部落」という言葉・概念を、日本の歴史記述全体に普遍化、拡大しているのです。その結果、明治20年に端を発する「部落」概念の本当の意味が忘却されて、「部落」という概念は、日本の歴史の古くから存在していた概念として通用するようになってしまいます。「部落」は、古代・中世・近世・近代・現代へと、歴史上一貫して存在した村落共同体になってしまいます。

この通史的な「部落」という概念装置を使って、「部落」に関係すると思われる史料が、無差別にアトランダムに集積されていきます。その結果、「部落」概念には、想像を超えた、「外延」と「内包」が集積され、その集積にもとづいて、歴史上の事実に反する「部落」像、「部落民」像が形成され、否捏造されて行くのです。

筆者は、これを、「賤民史観」と呼んでいます。

「賤民史観」は、歴史学者や研究者、教育者が「賤民」に関する記述と思われる史料や資料を保存する貯蔵庫のようなものです。その貯蔵庫には、何でも保存することができます。その貯蔵庫に保管された瞬間に、どのような史料も、「部落」あるいは「部落民」に関する史料に変質してしまいます。元の史料が、根源的にどのような史料であったかは関係がありません。歴史学者や教育者によって、「賤民史観」の史料にされた瞬間に、それらの史料は、「部落」と「部落民」に関する史料に変質してしまうのです。「賤民史観」は、部落史の研究者や教育者にとっては、非常に便利な道具なのです。

井上清は、戦後の部落史研究に際して、このような「賤民史観」を提供したのです。

もちろん、井上清だけではありません。戦後の部落史研究を担った大半の唯物史観の歴史家や教育者についても同じことが言えます。

【上杉 聡】

次に、上杉聡著『部落史がわかる』をとりあげてみましょう。上杉はこのように語ります。

「もともと「部落」とは、文明未発展な集落を意味する漢語でした。文明開会政策をとなえた明治政府は、1888(明治21)年から町村合併を進めるにあたり、江戸時代の村々を幾つかまとめて大きな一つの村にしたとき、旧来の小さな村を「部落」と呼んだのです。「特殊部落」という後には、そうした古い未開発の村であるという意味に加えて、「特殊」な村という意味が込められています。つまり「普通の古い未開発の村と異なる」という意味です」。

上杉の場合、はっきり、明治20年の、大日本帝国憲法下で施行される地方自治制度に関する知識と情報を前提にしています。当然、政府で審議された史料には目を通された上での発言であると思われます。筆者は、無学歴のただのひとですが、上杉は、学歴のある学者なのですから、当然と言えば当然すぎるほど、「部落」概念が、明治政府によって新しく導入された法制用語であることは知っているはずです。

しかし、上杉は、明治20年以降の「部落」概念が持っていた意味を不問に付して、「部落」という概念を、井上清と同じように、はるか昔に、しかも遠い中国の地へ追いやります。上杉は、「もともと「部落」とは、文明未発展な集落を意味する漢語でした。」と断定して、以降、漢語が持っているという「文明未発展な集落」という意味を前面に出して、「部落」という言葉・概念を解釈していきます。

上杉は、「特殊部落」は、「差別を近代的な表現に翻訳した言葉」であるといいます。「部落」概念も「漢語」からの翻訳なのでしょうか・・・。

井上清にしても、上杉聡にしても、その論説から、一般の読者は、明治20年に明治政府によって法制用語として採用された「ゲマインデ」の翻訳語「部落」にたどりつくことはできません。なぜなのでしょうか。筆者は、彼等が、そのことを一般の読者に意図的に隠しているとしか思えないのです。そし、部落差別問題の解決から遠い世界へと、民衆の認識を追いやってしまっているような気がします。

上杉は、「部落は明治以降にはじまった」という命題を、明治20年以降の、地方自治制度確立期の「ゲマインデ」=「部落」論争を一考だにすることなく、「(部落民の)血の連続性短くしようというもの」として、「歴史家自身がまず差別的偏見にとらわれた結果、歴史をも歪曲した」と指摘します。論点が著しくずれているとしか言いようがありません。

【川元祥一】

最後に、『部落差別を克服する思想』の著者・川元祥一をとりあげてみましょう。「部落学」を標榜する川元は、さすがに、前二者とはことなります。歴史学にだけ拘泥することなく、さまざまな個別科学を駆使して、「部落差別を克服するために新しい概念が必要になっているっている」とときます。

しかし、なぜか、「部落」という概念については、前二者と異なるところがありません。「江戸時代を通して、部落民が警察機構の一端を担っていたことは明らか・・・」と表現します。

それでは、川元は、前二者とどこがちがうのかといいますと、「部落」という概念を反省的に使用しているという点にあります。川元は、このように語ります。

「被差別部落、「同和」地区と呼ばれる共同体をここでは単に部落と呼び、農村や漁村、都市を示す場合はそれぞれの呼称とする。これらすべての上位概念としてそれぞれの共同体を一般的に呼ぶ時は村・町・都市と標示する。差別や関係性を表わすため部落の周辺を示す時は周辺社会とする」。

川元の言葉は、「部落学」の研究主体を「部落民」に設定するところから、「学」としての資質を最初から欠いています。「皇族」・「華族」・「士族」でないとなし得ない「学問」がないのと同じく、「部落民」でないと遂行できない「学問」というものは存在しません。「部落」に関する「学」は、すべてのひとに開かれるとき、本当の「部落学」足り得るのです。

井上清が、地図と海図を差し替えて説明するように「部落」を記述するのと同じく、川元は、「中心社会」と「周辺社会」を逆転させて、「部落」を説明しようとします。

上位概念の「村・町・都市」の下位概念として、「部落」・「農村」・「漁村」・「都市」を列挙します。

明治20年の、明治政府の法律顧問・モッセが書いた『自治部落制草案』では、上位概念の「町村市区」の下位概念として、「町」・「村」・「市」が列挙されますが、その際、「部落」という概念は、「町村・市区」の共通属性を意味します。「町」・「村」・「市区」に共通する属性としての「ゲマインデ」というドイツ語が試行錯誤の上、まったく新しい、近代的法制用語「部落」として誕生するのです。

川元は、上杉のように、「部落」概念を漢語の意味に限定することはありませんが、極めて、恣意的に解釈します。

明治政府が、行政用語・法制用語として採用した「部落」概念は、市・町・村の共通属性として、日本の近代中央集権国家・天皇制国家の、地方自治における基本的でかつ重要な概念である共同体を指す概念でもあるのです。

当時の「部落」概念の用法に従いますと、市・町・村は、それぞれ一つ以上の「部落」によって構成されることになります。「部落」を、国家の意志が直接反映する基本行政単位として、複数の「部落」によって、市・町・村が構成されます。構成要素となる「部落」には、農村・漁村・山村・・・等があります。

『部落学序説』の筆者である私は思うのですが、なぜ、部落史の専門家や、部落学の提唱者が、「部落」という概念の、明治以降における歴史的な変遷を避けて通ろうとするのか・・・。「ゲマインデ」=「部落」という定式に触れようとしないのか・・・。しかも、歴史学者や教育者が、恣意的に解釈して、「部落」概念に対して限りなく拡大解釈をして、焦点をぼかしていくのか・・・。本当に不思議になります。

筆者は、多くの部落史研究者や教育者が避けて通る「部落」概念の発生と歴史的変遷について、関心を持たざるを得ないのです。日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」の語る「部落」概念に、危うさとあいまいさを確認せざるを得ないのです。

なぜなのでしょうか・・・。

井上清・上杉聡・川元祥一各氏は、明治・大正・昭和・平成における、国家権力の差別政策の代弁者でしかないということのあらわれなのでしょうか・・・。

本当の問題の原因を避けて通っている限り、部落差別は永遠に解消することはありません。

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