2021/10/03

木綿着用の強制は差別にあらず

木綿着用の強制は差別にあらず


「部落学」は、非常民に関する学です。常民の学としての「民俗学」が、歴史学、社会学・地理学、宗教学の学際的な研究としてはじまったように、筆者の提唱する「部落学」は、「民俗学」にならって、歴史学、社会学・地理学、宗教学と民俗学の学際的な研究として遂行されます。

しかし、「民俗学」も「部落学」も人間に関する学である以上、それらの主要科学だけでなく、多くの補助科学を必要とします。政治学・法学・経済学・国際関係学・人類学等・・・。

特に、近世幕藩体制下の「穢多・非人」が、司法・警察であるという「部落学」の基本的な理解からしますと、「穢多・非人」の役務を理解する上で、「法学」的知識は必須のことがらになります。

しかし、高等教育を受ける機会のなかった筆者にとって、「法学」的知識を身につけることはそれほど簡単なことではありません。

青年時代に独学で、憲法学は橋本公宣、民法学は末川博、刑法学は団藤重光の著作から多くのことを学びましたが、実定法を独学でマスターするというのは非常に難しいものがあります。法を学ぶというのは、法の「体系」を学ぶことですから、なかなか、法の全体像を把握することは困難なものがあります。

橋本公宣著『憲法原論』を精読していたときのことですが、「第2章第2項法の下の平等」で、憲法14条1項「すべての国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。」がとりあげられていました。そして、「国家は国民を差別してはならず、国民は差別的な取扱いを受けない」という説明がありました。

橋本によると、「平等とは、法上のひとしい取扱いのことであり、差別をうけないことをいう」とありました。しかし、橋本は、「相対的平等」という概念のもとに、法的に許容される「差別的取扱」に言及していくのです。

そして、橋本は、「教育の機会均等」に触れるとき、憲法26条1項「すべての国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する」を解釈して、このように説明するのです。

「すなわち、人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位または門地によって、教育上差別されないのである。教育は、個人の能力に関係があるから、学力、健康によって差別することは、許される」。

橋本は、「社会的身分」の具体例として「部落出身者」を列挙していますが、上記の橋本の説では、「部落出身者」であるということで差別は許されないが、「学力、健康によって差別することは許される」との法解釈をしているのです。

そのとき、私が感じたのは、憲法学の学者であるからこそ、この条文は、「学力、健康によって差別することは許されない」と解釈されなければならないのではないかと・・・。

橋本は、その理由として、「個人の能力に関係があるから」といいますが、「個人の能力」は、常にその人の努力に制限されるとは限りません。「人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位、門地」のいずれによっても大きく影響をうけます。橋本の解釈は、「学力」にとどまらず「学歴」にも波及していきます。「学歴」は、国家による「学力」の証明でもあるからです。

筆者は、実体法に非合理を感じて、結局、実体法から離れ、法哲学の方に関心が移ってしまいました。

最も影響をうけたのは、ドイツの法学者、ラートブルフでした。彼は、ドイツのワイマール憲法の刑法の起草者ですが、政治犯の死刑廃止を説きました。第二次世界大戦のときは、ヒトラーによって、ナチスの政治体制になじまないとして公職を追放された人です。

私は、彼の、「法的相対主義」にこころ惹かれました。『法学入門』・『法哲学』は、理論的に明快で、橋本公宣の『憲法原論』のような理論上の薄暗さはありませんでした。

法学的なものの見方、考え方は、そのような形で身につけたのですが、独学である以上、それがどこまでリーガルマインドをみにつけることに成功したかは定かではありません。

それでは、そのような中途半端な知識で、「穢多と法的逸脱」に関して文章を書くことができるかというと、筆者は、最初から非常に困難であることに気づいていました。

なぜなら、ラートブルフはもちろん、橋本公宣・末川博・団藤重光等は、いずれも、近代・現代法の学者であって、欧米の法学から大きな影響を受けています。

近世幕藩体制下の司法・警察である「穢多・非人」について論じるときに、欧米の法学から影響を受けた法概念を用いて論じることに、私は、ある種のためらいを感じたのです。そこで、近世幕藩体制下の法を理解する上での、予備知識を探し求めたのですが、それで入手したのが次のようなものです。

田中周友著『世界法史概説』、大木雅夫著『日本人の法観念西洋法概念との比較』、佐藤友之著『江戸町奉行支配のシステム』、石井良助著『江戸の刑罰』、笠松宏至著『法と言葉の中世史』・『法と訴訟』等です。

特に、「部落学」構築の観点からすると、大木雅夫著『日本人の法観念西洋法概念との比較』が最適であると思われました。筆者が、「穢多と法的逸脱」を論じるときの前理解は、大木の著書によるところ大です。

筆者が大木の著書を持ち出すのは、当然、日本の歴史学上の差別思想である「賤民史観」を撃つためです。

筆者が、差別思想であるという「賤民史観」が、「穢多と法的逸脱」について、どのように解釈してきたか、井上清著『部落の歴史と解放理論』をみてみましょう。

井上は、1778年に幕府から出された法令をこのように紹介します。

「近来えた非人の風俗が悪くなり、百姓町人に対して法外のことをしかけ、百姓のようなふりをして、旅館や飲み屋などへ立ち入り、それをみとがめるものがあると、むつかしく抗議するので、百姓町人らは、えたとけんかしては外聞がわるいと思ってそのままにしておくものだから、ますます増長する。今後はえたが、百姓町人のふりをするのは、いっさいゆるさない」。

井上は、「えたの風俗がわるくなるというのは、えたが人間なみの生活をもとめ、差別とたたかっているということにほかならない。」といいます。それを、「部落民の人間としての地位をもとめるたたかい」であると断定します。また、1856年の岡山藩の渋染一揆のように、「服装などにたいするきびしい差別」がしばしば強制されたと解釈します。

上杉聡著『これでわかった!部落の歴史』においても、井上の説明とほぼ同じ説明が展開されています。日本の歴史学の差別思想である「賤民史観」に共通していることがらなのでしょう。上杉は、「日常生活を規制する差別法」として認識します。そしてこのようにいうのです。

「そうした差別法を最初に確認できるのは、先にも述べましたが、1683年の長府藩(現山口県)が出したもので、部落の人々は木綿と麻布以上の衣服を着てはならないというものでした。」

上杉によると、「穢多・非人」に「木綿」を強制することは「差別」であるというのです。

上杉が、根拠となる史料をどのようにして手にいれたかは知りませんが、長府藩と同じ、長州藩の支藩である徳山藩の藩士を対象にした「家中諸法度定」には、このような規則があります。

「諸士は平素綿服を着用すること。・・・50石以下の妻子は、内外ともに絹布はいっさい禁止する。」

『徳山市史』(旧)の「徳山藩士卒階級表」によると、「士席班」は439名、「卒席班」は628名ですが、50石以上の武士は、藩士(「士席班」)439名中の160名に過ぎません。藩士のうち、10人に7人は「諸士は平素綿服を着用すること。・・・50石以下の妻子は、内外ともに絹布はいっさい禁止する。」という規制の中にあります。士雇(「卒席班」)628名は全員がこの規制は入ります。

徳山藩では、「非常民」のうち、軍事に関与する「武士階級」(藩士・士雇)の85%の人々は、「諸士は平素綿服を着用すること。・・・50石以下の妻子は、内外ともに絹布はいっさい禁止する。」という規制の中にあることになります。

そのように史料に基づいて確認していきますと、「非常民」のうち、司法・警察に関与する「穢多・非人」に対して、「木綿と麻布以上の衣服を着てはならない」というのは、「穢多・非人」に対する「差別」と断言していいのでしょうか。

近世幕藩体制下の「非常民」、司法・警察である「穢多・非人」は、同じ「非常民」、軍事・警察である下級武士と「同様」であったと判断すべきではないでしょうか。

上杉が、それらの史実を視野から遠ざけ、「穢多・非人」に対する木綿の制限を「差別」とする背景には、日本の歴史学の差別思想である「賤民史観」が大きく影響していると思われます。「穢多・非人」に関する史料は、すべて「差別的」であると解釈しないではおられないのです。

徳山藩の規則では、「他国役にでるときは、分限相応に取り繕う必要がある」というのです。ですから、武士は、実際は、木綿だけでなく、それ以上の衣服を持ち合わせていたということになります。

それは、「穢多・非人」についても同じです。日常は、「木綿」を羽織っても、ハレのときには、それ相応の着物を身にまとっていたのではないかと思います。なぜなら、近世幕藩体制下の女性にとって、着物は、ささやかな貯蓄の意味をもっていたからです。病気や怪我で収入がないときには、それを質屋において必要経費を入手することができたからです。

柳田国男の弟子・山川菊枝は、その著『武家の女性』の中で、「三界に家なしといわれた女にとって、着物だけが唯一の財産」であったといいます。

山川は、天保元年水戸藩で、「此度御家中一統綿服着用仕るべき」とのおふれがでたといいます。

「穢多・非人」に対するおふれは、多くは、下級武士に対しても出されたおふれではないかと思います。

西島勘治著《お仕置き帳にみる足軽・中間・陪臣の実像-長州藩の場合》によると、「厳し過ぎる封建制身分社会において、最も差別の桎梏に苦しんだのは、百姓・町人といった一般庶民よりも、むしろ諸士階級と深く関わっていた、彼等下級知識階級ではなかったか・・・」とあります。「穢多・非人」も同列に考えることができます。

日本の歴史学の差別思想である「賤民史観」にとらわれると、井上清や上杉聡のように、なんでもかんでも「穢多・非人」に「みじめで、あわれで、気の毒な」イメージを強制したり、押しつけたりするようになります。

「穢多と法的逸脱」を考察するためには、まず、差別思想である「賤民史観」から自由にならなければなりません。

そのために、大木雅夫著『日本人の法観念-西洋的法観念との比較』に耳を傾けてみましょう。(続く)


「部落学」は、非常民に関する学です。常民の学としての「民俗学」が、歴史学、社会学・地理学、宗教学の学際的な研究としてはじまったように、筆者の提唱する「部落学」は、「民俗学」にならって、歴史学、社会学・地理学、宗教学と民俗学の学際的な研究として遂行されます。

しかし、「民俗学」も「部落学」も人間に関する学である以上、それらの主要科学だけでなく、多くの補助科学を必要とします。政治学・法学・経済学・国際関係学・人類学等・・・。

特に、近世幕藩体制下の「穢多・非人」が、司法・警察であるという「部落学」の基本的な理解からしますと、「穢多・非人」の役務を理解する上で、「法学」的知識は必須のことがらになります。

しかし、高等教育を受ける機会のなかった筆者にとって、「法学」的知識を身につけることはそれほど簡単なことではありません。

青年時代に独学で、憲法学は橋本公宣、民法学は末川博、刑法学は団藤重光の著作から多くのことを学びましたが、実定法を独学でマスターするというのは非常に難しいものがあります。法を学ぶというのは、法の「体系」を学ぶことですから、なかなか、法の全体像を把握することは困難なものがあります。

橋本公宣著『憲法原論』を精読していたときのことですが、「第2章第2項法の下の平等」で、憲法14条1項「すべての国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。」がとりあげられていました。そして、「国家は国民を差別してはならず、国民は差別的な取扱いを受けない」という説明がありました。

橋本によると、「平等とは、法上のひとしい取扱いのことであり、差別をうけないことをいう」とありました。しかし、橋本は、「相対的平等」という概念のもとに、法的に許容される「差別的取扱」に言及していくのです。

そして、橋本は、「教育の機会均等」に触れるとき、憲法26条1項「すべての国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する」を解釈して、このように説明するのです。

「すなわち、人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位または門地によって、教育上差別されないのである。教育は、個人の能力に関係があるから、学力、健康によって差別することは、許される」。

橋本は、「社会的身分」の具体例として「部落出身者」を列挙していますが、上記の橋本の説では、「部落出身者」であるということで差別は許されないが、「学力、健康によって差別することは許される」との法解釈をしているのです。

そのとき、私が感じたのは、憲法学の学者であるからこそ、この条文は、「学力、健康によって差別することは許されない」と解釈されなければならないのではないかと・・・。

橋本は、その理由として、「個人の能力に関係があるから」といいますが、「個人の能力」は、常にその人の努力に制限されるとは限りません。「人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位、門地」のいずれによっても大きく影響をうけます。橋本の解釈は、「学力」にとどまらず「学歴」にも波及していきます。「学歴」は、国家による「学力」の証明でもあるからです。

筆者は、実体法に非合理を感じて、結局、実体法から離れ、法哲学の方に関心が移ってしまいました。

最も影響をうけたのは、ドイツの法学者、ラートブルフでした。彼は、ドイツのワイマール憲法の刑法の起草者ですが、政治犯の死刑廃止を説きました。第二次世界大戦のときは、ヒトラーによって、ナチスの政治体制になじまないとして公職を追放された人です。

私は、彼の、「法的相対主義」にこころ惹かれました。『法学入門』・『法哲学』は、理論的に明快で、橋本公宣の『憲法原論』のような理論上の薄暗さはありませんでした。

法学的なものの見方、考え方は、そのような形で身につけたのですが、独学である以上、それがどこまでリーガルマインドをみにつけることに成功したかは定かではありません。

それでは、そのような中途半端な知識で、「穢多と法的逸脱」に関して文章を書くことができるかというと、筆者は、最初から非常に困難であることに気づいていました。

なぜなら、ラートブルフはもちろん、橋本公宣・末川博・団藤重光等は、いずれも、近代・現代法の学者であって、欧米の法学から大きな影響を受けています。

近世幕藩体制下の司法・警察である「穢多・非人」について論じるときに、欧米の法学から影響を受けた法概念を用いて論じることに、私は、ある種のためらいを感じたのです。そこで、近世幕藩体制下の法を理解する上での、予備知識を探し求めたのですが、それで入手したのが次のようなものです。

田中周友著『世界法史概説』、大木雅夫著『日本人の法観念西洋法概念との比較』、佐藤友之著『江戸町奉行支配のシステム』、石井良助著『江戸の刑罰』、笠松宏至著『法と言葉の中世史』・『法と訴訟』等です。

特に、「部落学」構築の観点からすると、大木雅夫著『日本人の法観念西洋法概念との比較』が最適であると思われました。筆者が、「穢多と法的逸脱」を論じるときの前理解は、大木の著書によるところ大です。

筆者が大木の著書を持ち出すのは、当然、日本の歴史学上の差別思想である「賤民史観」を撃つためです。

筆者が、差別思想であるという「賤民史観」が、「穢多と法的逸脱」について、どのように解釈してきたか、井上清著『部落の歴史と解放理論』をみてみましょう。

井上は、1778年に幕府から出された法令をこのように紹介します。

「近来えた非人の風俗が悪くなり、百姓町人に対して法外のことをしかけ、百姓のようなふりをして、旅館や飲み屋などへ立ち入り、それをみとがめるものがあると、むつかしく抗議するので、百姓町人らは、えたとけんかしては外聞がわるいと思ってそのままにしておくものだから、ますます増長する。今後はえたが、百姓町人のふりをするのは、いっさいゆるさない」。

井上は、「えたの風俗がわるくなるというのは、えたが人間なみの生活をもとめ、差別とたたかっているということにほかならない。」といいます。それを、「部落民の人間としての地位をもとめるたたかい」であると断定します。また、1856年の岡山藩の渋染一揆のように、「服装などにたいするきびしい差別」がしばしば強制されたと解釈します。

上杉聡著『これでわかった!部落の歴史』においても、井上の説明とほぼ同じ説明が展開されています。日本の歴史学の差別思想である「賤民史観」に共通していることがらなのでしょう。上杉は、「日常生活を規制する差別法」として認識します。そしてこのようにいうのです。

「そうした差別法を最初に確認できるのは、先にも述べましたが、1683年の長府藩(現山口県)が出したもので、部落の人々は木綿と麻布以上の衣服を着てはならないというものでした。」

上杉によると、「穢多・非人」に「木綿」を強制することは「差別」であるというのです。

上杉が、根拠となる史料をどのようにして手にいれたかは知りませんが、長府藩と同じ、長州藩の支藩である徳山藩の藩士を対象にした「家中諸法度定」には、このような規則があります。

「諸士は平素綿服を着用すること。・・・50石以下の妻子は、内外ともに絹布はいっさい禁止する。」

『徳山市史』(旧)の「徳山藩士卒階級表」によると、「士席班」は439名、「卒席班」は628名ですが、50石以上の武士は、藩士(「士席班」)439名中の160名に過ぎません。藩士のうち、10人に7人は「諸士は平素綿服を着用すること。・・・50石以下の妻子は、内外ともに絹布はいっさい禁止する。」という規制の中にあります。士雇(「卒席班」)628名は全員がこの規制は入ります。

徳山藩では、「非常民」のうち、軍事に関与する「武士階級」(藩士・士雇)の85%の人々は、「諸士は平素綿服を着用すること。・・・50石以下の妻子は、内外ともに絹布はいっさい禁止する。」という規制の中にあることになります。

そのように史料に基づいて確認していきますと、「非常民」のうち、司法・警察に関与する「穢多・非人」に対して、「木綿と麻布以上の衣服を着てはならない」というのは、「穢多・非人」に対する「差別」と断言していいのでしょうか。

近世幕藩体制下の「非常民」、司法・警察である「穢多・非人」は、同じ「非常民」、軍事・警察である下級武士と「同様」であったと判断すべきではないでしょうか。

上杉が、それらの史実を視野から遠ざけ、「穢多・非人」に対する木綿の制限を「差別」とする背景には、日本の歴史学の差別思想である「賤民史観」が大きく影響していると思われます。「穢多・非人」に関する史料は、すべて「差別的」であると解釈しないではおられないのです。

徳山藩の規則では、「他国役にでるときは、分限相応に取り繕う必要がある」というのです。ですから、武士は、実際は、木綿だけでなく、それ以上の衣服を持ち合わせていたということになります。

それは、「穢多・非人」についても同じです。日常は、「木綿」を羽織っても、ハレのときには、それ相応の着物を身にまとっていたのではないかと思います。なぜなら、近世幕藩体制下の女性にとって、着物は、ささやかな貯蓄の意味をもっていたからです。病気や怪我で収入がないときには、それを質屋において必要経費を入手することができたからです。

柳田国男の弟子・山川菊枝は、その著『武家の女性』の中で、「三界に家なしといわれた女にとって、着物だけが唯一の財産」であったといいます。

山川は、天保元年水戸藩で、「此度御家中一統綿服着用仕るべき」とのおふれがでたといいます。

「穢多・非人」に対するおふれは、多くは、下級武士に対しても出されたおふれではないかと思います。

西島勘治著《お仕置き帳にみる足軽・中間・陪臣の実像-長州藩の場合》によると、「厳し過ぎる封建制身分社会において、最も差別の桎梏に苦しんだのは、百姓・町人といった一般庶民よりも、むしろ諸士階級と深く関わっていた、彼等下級知識階級ではなかったか・・・」とあります。「穢多・非人」も同列に考えることができます。

日本の歴史学の差別思想である「賤民史観」にとらわれると、井上清や上杉聡のように、なんでもかんでも「穢多・非人」に「みじめで、あわれで、気の毒な」イメージを強制したり、押しつけたりするようになります。

「穢多と法的逸脱」を考察するためには、まず、差別思想である「賤民史観」から自由にならなければなりません。

そのために、大木雅夫著『日本人の法観念-西洋的法観念との比較』に耳を傾けてみましょう。(続く)

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