2021/10/03

「汚れ」という言葉の意味

「汚れ」という言葉の意味


『部落学序説』でとりあげた「けがれ」は、「日常」・「非・日常」に関連した「気枯れ」と、「常」・「非・常」に関連した「穢れ」の2種類です。

しかし、雅語の「けがれ」という言葉の持っている意味は、それだけにとどまりません。雅語の「けがれ」に、「汚れ」という漢字がつかわれる場合があります。

今回、この「汚れ」について考察してみます。

「気枯れ」と「穢れ」だけでも解釈が多種多様なのに、さらに「汚れ」が加わると解釈がさらに複雑になり、混乱してきます。その結果、「けがれ」解釈の恣意性が増大してきます。

「汚れ」とは何なのか。『広辞苑』をひもといてみましょう。

けがれ【穢・汚】①きたないこと。よごれ。不潔。不浄。「うぶで-けがれを知らぬ」②神前に出たり勤めにつくのをはばかる出来事。服喪・産穢・月経など。③名誉を傷つけられること。汚点。「お家の-」

『広辞苑』では、「穢れ」と「汚れ」は同義語であるということでしょうか。「穢れ」という言葉を使用しようが、「汚れ」という言葉を使用しようが、結局同じことを意味しているということは、「穢れ」と「汚れ」の違いを考察してもあまり意味をなさないということでしょうか・・・。

『漢字の用法』(武部良明著・角川小辞典)で「けがれ」を検索しますと以下の説明が出てきます。

けがれる 自動 【穢・汚】
〔穢〕きれいなものが、汚くなること。(例)身が穢れる 悪に穢れる
〔汚〕りっぱなものが、だめになること。(例)名が汚れる 家名が汚れる 貞操が汚れる

武部によると、「けがれ」(穢・汚)は、「XがYになる」ことを意味します。Xはプラスの価値で、Yはマイナスの価値としますと、「XがYになる」というのは、「プラスの価値変じてマイナスの価値になる」ということを意味しています。

この「けがれ」(穢・汚)を、部落・部落問題・部落史に適用するとどうなるのでしょうか・・・。「部落」・「部落民」は、「けがれる前」(X)は、けがれていなかったということになります。ただ単にけがれていなかったというよりは、「きれい」で「りっぱな」存在であったということになります。つまり、「部落」・「部落民」の前身は、社会的に評価された存在(X)であった、それが、ある事情で、「XがYになる」かたちで社会的に評価されない状態、「賤視」される状態(Y)に陥っていったと考えられます。「XがYになる」という武部の解釈に従いますと、「部落」・「部落民」なる存在は、昔は現代のように差別されていなかったということになります。

この『部落学序説』で「研究者」として登場してくるひとは、「部落」・「部落民」が、昔、「穢多」と呼ばれていたのは、「穢れている実態」があったからだといいます。「穢れている実態」があったから、「部落」・「部落民」に「穢多」・「穢多村」という名称がつけられたのだといいます。つまり、研究者にとっては、「けがれ」というのは実体概念・本質概念なのです。

「研究者」がよく指摘するように、日本の被差別民は、昔も今もずっと「けがれた」存在であったとしますと、武部がいう、「けがれ」とは、「XがYになる」という法則から逸脱した解釈をしていることになります。

「研究者」が指摘するように、「部落」・「部落民」は、昔、「けがれた」存在とされ、そして、それ以降も、「けがれた」存在としてあり続けていると解釈するのか、それとも、武部良明が示唆しているように、「部落」・「部落民」は、昔は、「りっぱな」存在であったけれども、あるときから、「けがれた」存在とみなされるようになったと解釈するのか・・・、部落研究・部落問題研究・部落史研究上、無視することができない問題へと発展してしまいます。

「研究者」のように、「部落」・「部落民」を今も昔も、これからもずっと「けがれた」存在とみなし、そうであるが故に、同和対策事業や同和教育事業継続の必要性を説き、アファーマティブ運動(公民権運動)を継続していくことになるのか、武部の論法にのっかって、『部落学序説』の筆者のように、Yの前身Xを明らかにすることによって、「部落」・「部落民」に対する部落差別の完全解消を視野に入れて研究と実践を見直していくのか・・・、大きな違いが出てきます。

もうすこし、「汚れ」について考察してみましょう。

『部落学序説』の筆者としては、近世幕藩体制下の「法的逸脱」を示す「穢れ」概念を、「汚れ」概念と同一視することで、混乱に陥れたくはありませんから、「穢れ」と「汚れ」の「種と差」についてきちんと検証しておく必要があります。

森田良行著『基礎日本語』(角川小辞典)の中に、【けがれる】ということばの見出しはでてきませんが、【うつくしい】ということばの説明の中に、「けがれる」ということばについての解釈が出てきます。

森田の辞書の説明に従って、「汚れる」の意味を検証してみましょう。

森田によると、【うつくしい】というのは、「対象に不純なところがなく、清らかな感じで、人の心を打つ状態」をさします。「うつくしい」という言葉は、具体的には、「色・絵・花・顔・女・目・字・朝・空・澄んだ水・風景・眺め・声・音色・音楽・局・行為・言葉・心・愛情・友情」に向けられます。

森田は、「「美しい」は人の心を動かし感動させる状態なので、いくら清澄でも「美しい空気」などとは言えない。「美しい水」も同様である。しかし、「美しい湖水の水」「美しい噴水の水」など視覚的に美を感じさせる状態に場合には言える。当然、水道の水や、水たまりの水にも「美しい」は使わない。この点が「きれい」と異なる。」といいます。

森田は、「うつくしい」の「関連語」として、「きれい」をとりあげます。森田は、「きれい」を次のように定義します。

「「きれい」は、不純なもの、調和を乱すもの、余計なものが混じってなく、全体が完全で、はっきり整っている状態」

森田は、「うつくしい」と「きれい」の「差」となる属性として「調和」をとりあげているように思われます。「調和」とは、森田自身の言葉でいえば、「余計なものが混じってなく、全体が完全で、はっきり整っている状態」のことです。「調和」は、「うつくしい」という言葉の属性としてはかならずしも必要ありません。「うつくしい」という言葉の属性として、「調和」の代わりに美意識という「主観」がはいってきます。

森田は、この「調和」をこわす状態をさすことばとして「汚い」ということばをとりあげるのです。「きれい」が「物質的な清潔さだけにではなく、観念的な汚れのなさにも使う。」というのです。しかし、森田は、「観念的な汚さ(汚職等)の場合は、主として「けがれる/けがれた」を用いる。「けがれた身」(「汚い身」とはあまり言わない)など。」というのです。

森田は、「けがれ」を解釈するとき、「汚れ」に重点を置き過ぎて、「穢れ」についてはあまり意識していません。その説明の中に混同がみられますが、森田の説明によっても、「けがれ」というのは、実体概念・本質概念ではないのです。「観念的な汚さ」、つまり、社会システムや法システムの中での逸脱行為をさすことばなのです。

「穢れ」は、法的逸脱行為を指すのと違って、「汚れ」は、「物質的な清潔さ」のない状態をより強くさす言葉として採用されているように思われます。

しかし、「穢れ」という言葉が、同和問題との関係で忌避されるようになり、今日、「穢れ」という言葉の代わりに、「汚れ」という言葉が使われるケースが増えてきました。やがて、「穢れ」は死語となり、それに代わって「汚れ」が使用されることになるのかも知れませんが、『部落学序説』の筆者は、そのことによって、近世幕藩体制下の司法・警察であった「非常民」としての「穢多」のほんとうに歴史が葬り去られるのではないかと大いに危惧します。

関係概念の「穢れ」が後退し、実体概念の「汚れ」が前面に出てくることで、日本の社会の中から部落差別が取り除かれ部落差別解消につながるのではなく、「恒久的被差別」を「捏造」することで、部落差別が、あらたな同和対策事業・同和教育事業の要求闘争の手段・道具にされていくのではないかと危惧します。筆者は、大切なのは、部落差別をそのままに同和対策事業・同和教育事業の利権を追求していくことではなく、被差別部落のこどもたちの将来のために、部落差別を根源から解明し、部落差別完全解消につなげていくことではないかと思います。

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※「解放同盟の方」は、『部落学序説』は「きれいごと」であると批判されます。森田の解釈では、「きれい」は、「余計なものが混じってなく、全体が完全で、はっきり整っている状態」のことですから、「解放同盟の方」の批判は、筆者が「余計なもの」を避けて通っているとの批判があるのかもしれません。もちろん、筆者には、『部落学序説』の執筆に際して、「避けて通っている」問題はありません。『部落学序説』で今後取り上げる予定で留保している問題はありますが・・・。筆者は、「きれいごと」という批判に、「きれいごと」ではない問題、「糞尿」の問題をとりあげることにしたのです。1週間、読者の方々にも、この問題を考えてみてくださいと書いたのですが、その後、ブログ「意見交換」を削除しました。しかし、約束は約束ですから、「糞尿」の問題、卑近な言葉でいえば、「くそと汚れ」について文章を書くことにしました。今回は、その前提で、「くそと汚れ」の「汚れ」について、その語源を尋ねてみました。「汚れ」という言葉には、「汚い」という言葉からくる「物理的に清潔でない状態」と「穢れ」に由来すると思われる「観念的なけがれ」のふたつの意味が含まれていることがわかりました。次回、近世幕藩体制下の司法・警察である「穢多」と「汚れ」(し尿処理)について言及します。「解放同盟の方」に満足していただけるかどうかわかりませんが、もしかしたら、またまた、大いに失望させる結果に終わることになるかもしれません。「解放同盟の方」も、このブログはもう読むのをやめておられるでしょうから、筆者の一人相撲になるかもしれません。

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