2021/10/03

「はちや」に関する考察

「はちや」に関する考察


山口県の地方小都市に棲息するようになって二十数年が経過します。

その感想を求められれば、実に、山口県は実に不思議な場所であるということです。

私は、岡山県で生まれましたが、岡山は、「果物王国」と言われていました。「岡山で採れない果物はない。ひとつを のぞいては・・・」。そのひとつというのは、リンゴでした。岡山では、リンゴ以外ならなんでも採れる、小学生のとき、学校の教師からそう習いました。

山口県の宗教施設に赴任してまもなく、根本博『夜の旅』が送られてきました。

根本博は、戦前・戦後を通じて、外交官として活躍されてきた方で、1980年、「ジャカランダの花が紫に匂う盛夏のイスラマバアドの夕方」に急逝されました。『夜の旅』は、その遺稿集でした。

昔、一時期、根本博のご家族の方と知り合い、一度、食事に招かれたことがあります。

58年間の私のこれまでの生涯の間で出会って、食事を共にさせていただいた方の中で、最も「社会的身分」の高い家庭でした。頭と尻尾のついたトラの毛皮に座らせていただき、そのトラの毛皮の美しさと大きさに驚いたことは今もって忘れることができません。

根本博は、福島郡山出身。名門・安積中学、旧制第二高等学校、東京大学法学部を卒業後、1941年外務省に入り、戦前・戦後を通じて外交官を全うされた方です。

食事に招かれたとき、妻の実家を聞かれて、福島郡山出身で、安積女子高校を出たことを告げるととても喜んでくださって、御主人が、福島郡山出身であることを話してくださいました。

第一部 夜の旅
Ⅰ 戦時回想
Ⅱ 戦犯夜話
第二部 朝の唄
Ⅰ 手帳
Ⅱ ビルマ通信

「自分史」的なものは、ほとんど読まないのですが、この『夜の旅』だけはちがいます。

私の座右の銘で、今でも『夜の旅』を開く都度、不思議な感激につつまれています。「あらしの中の灯-大戦下のリスボン」という文章を読んでいると、第二次世界大戦下の暗闇の中で、中立国の首都リスボンの街のあかりについての文章は、平和の大切さと、戦争にまきこまれないことの大切さを感じざるを得ません。

その『夜の旅』の中に、「りんごとみかん」という文章が収録されています。根本博は、北の国の果物である「りんごを見ると、いつも西洋を感ずる」といい、南の国の果物である「みかん」を見ると「日本を感ずる」といいます。

妻の実家に最初に行ったとき、湖西線の駅をおりると、構内にりんごの木があって、たくさんのりんごの実がなっていたのにはびっくりしました。根本博は、「わたしにとって、日本のりんごは、世界のどの国のものよりもおいしい」といいます。

「信濃のりんご園や、りんごの花咲く津軽平野の美しさは、いまや日本の典型的な風景となっており、ギリシャの詩人でなくても、津軽の娘たちの燃えるほほは、まさに「りんごのように」美しい。りんごは全く日本のものとなった。

まだあげ初めし前髪の
りんごのもとに見えしとき
前にさしたる花櫛の
花ある君とおもひけり

に始まる藤村の「初恋」(若菜集、1897)は、明治の青春のみずみずしい情感を歌い上げて、忘れ難く美しいが、りんごとりんご畑は、この詩の抜き差しならぬ情景を構成している。」

島崎藤村が歌った信州の農村の姿は、近世の農村の姿ではなく、近代の新しい農村の姿であったようです。

根本博は、りんごとくらべて、みかんには、「常に痛ましい「愛と死の物語」がひそんでいるように見える」といいます。

紀元71年、田道間守は、垂仁天皇の命を受けて「かぐのこのみ」(みかん)を獲て帰国したとき「垂仁天皇はすでにこの世になく、彼は木の実を天皇の御陵に捧げて、悲嘆の涙にかきくれた後、天皇のあとを追って殉死したといわれる」。

「関東」の名前の由来ともなった出来事にでてくる「弟橘姫」(おとたちばなひめ)の悲しい話。「十五歳で叔父を斬って、「悪源太」の異名を得て」、短い生涯を終えた源義平の話。そして、あまり人に知られていない紀伊国屋文左衛門の「愛と死の物語」。

材木問屋に丁稚としてつとめていた「紀文」は主人の娘が好きになり駆け落ちするが、むりやり引き裂かれます。娘は、胸を病み、死期の近づくにつれてひとめ文左衛門に会いたいと父親に訴えます。不憫に思った父親は江戸に使いをだし、文左衛門を呼び寄せます。そしてその娘は、彼の腕に抱かれて、ひとこと「うれしい」とささやいて息を引き取るという話です。恋と希望を失った文左衛門は、「死んでもよい」と思って、当時の江戸の町民が待ちに待ったみかんの輸送をはじめるのです。「これが、かの歴史的な「あれは紀の国みかん船」の動機であったという」のです。

文左衛門は、やがて大金持ちとなり「紀文大尽」と呼ばれるほどの、放蕩三昧の生活を送ったといわれますが、「常におうおうとしてたのしまなかった」といいます。

根本博は、「晩年零落して、享保19年淋しく死ぬが、彼の脳裏には生涯の間、若き日のいのちをかけた恋人のおもかげが去来していたのかも知れない」といいます。近世幕藩体制下の身分制度の枠組みの中で、押しつぶされた若い二人のすさまじい生きざまです。

日本歴史学の差別思想である「賤民史観」は、「愚民論」的立場から、「穢多・非人」だけでなく「民衆」(百姓)に対しても、ことさら低く貶めて描写します。

しかし、歴史の事実はまったく逆で、「民衆」(百姓)の中には、そのような封建的幻想に抗い、「天理、人事」を全うしようとした人は少なくないのです。

『勧農教訓録』に、「人ハ人ニシテ、人ト云字ニハ別ツハナカルベシ。最モ貴賤上下ノ差別有リトイエドモ、是政道ノ道具ニシテ、天下ヲタイラカニ成シメンガ為ナルベシ」とあります。安丸良夫《民衆運動の思想》(『民衆運動の思想』(岩波・日本思想大系))は、「ここでは、人間の尊厳さと根源的な平等性」の主張があるといいます。そして、民衆(百姓)側の理解は、「身分制度は「道具」であり、二次的なものに過ぎないのである」と主張します。

民衆(百姓)は、「不正・悪徳・非情・奸智」に毒された藩の役人や商人に対して、「狐」「犬」「猿」「悪狼」「盗人」・・・と批判を展開し、一揆を起こしたといいます。

少し脱線しましたが、山口県には、北の国のりんごと南の国のみかん、その両方の産地があるのです。りんごは戦後、満州開拓移民団が帰国して栽培をはじめたといわれますが、筆者が住んでいる瀬戸内海沿岸側からまっすぐ北に車を走らせると2時間少々で日本海側に出ます。ホルンフェルスのある須佐の海にでます。

山口県は、北の国と南の国の果物が同時にとれる県なのです。

山口県北にいくと、アイヌ語起源の地名がいくつもあります。「阿武」というのは、アイヌ語で「美しい山」という意味であると、ある市で行われた社会同和教育の講師が話していました。

山口県は、「明治維新」のときは、長州藩の「士農工商」が一丸となって、倒幕に動いたと言われますが、筆者は、「一丸」となったというのは、幻想ではないかと思っています。山口県の精神風土は、決してそうではなくて、「一丸」となることができない多様さを内包しているのです。異質なものが雑居しているようなところがあります。

会津白虎隊の碑は、会津城下にあります。

長州藩が、会津戦争のときにとった占領政策の残忍さは目にあまるものがあります。会津藩領の百姓の末裔である私の妻は、その悲惨さを文章でよむと、目を真っ赤にして、「長州は酷い」と号泣します。

ある市で開催された社会同和教育で、山口市教育委員会の某講師は、「現在でも、偏見は到るところにあります。」といって、偏見の具体例を紹介されました。それは、このようなものでした。

その講師が、教育委員会の仕事で、福島県会津に行ったときの話です。
寒い冬の日、朝早く、ある家が雨戸をあけると、「他の家に先を越されては体裁が悪い」と思う会津の人は、たくさんの雪が降っているにもかかわらず、次から次へと雨戸をあけます。会津の朝は、雨戸をあけるガラガラ、ガラガラという音で始まります・・・。

私は、このまま黙って帰ったら、妻に叱られると思って、講演のあと質疑応答の時間に抗議しました。

偏見の例として、会津の話をされましたが、雪国・会津では、どれだけ雪が積もるのか知っているのですか。あなたの作り話で、同和問題の研修会に参加した人達は、みんな笑っているではありませんか。反論もできない人々のことを話題にして、物笑いのたねにするのは、おかしいのではありませんか。差別や偏見をとりのぞく集会で、偏見をふりまいているのはおかしいのではありませんか。同和教育は、部落差別だけを取り除こうというのではなく、すべての差別を取り除くことに主眼があるのではありませんか・・・。

講師は、社会同和教育に参加した人の気を引こうとして作った作り話であることを認め、このように言われました。「ここに、会津の関係者がいることは知りませんでした。本当にすみませんでした。」

しばらくして、萩市と会津若松市の和解のことが報じられました。

「長州藩」側の新聞記事では、「会津」は未だに昔のことを根に持って握手しなかったそうだ・・・。会津市長が、握手の手をさしださなかったのは正解です。交渉にあたったのは、山口県立文書館の研究員で、長州藩の末裔ではありません。「会津」と和解することに、山口県側は、「長州藩」の末裔から反対されても、きちんと抜け道を用意していたのです。どこまで、「和解」の意図があるのか、会津藩の百姓の末裔である妻と一緒に、「長州藩」側の意図を図りかねてしまいました。

それでも、山口県に棲息して二十数年を越えるのは、ひとつには、教団の執行部によって、「同和問題に関連して、教団の方針に従わないという理由で排除・疎外され、人事面で不利益を被っていること」と、もうひとつは、山口県の不思議さによります。

山口県は、いろいろな立場の人が雑居している場所です。

北の国のりんごと南の国のみかんの産地が、車ではしると南北2時間の時間距離の間に共存するという事実、自民党と共産党、解放同盟と全解連、天皇制支持者と反対者、保守と革新が微妙に入り混じって複雑な人間模様を形成しているからです。山口県人は、「本音と建前」を上手に使い分けていますが、使い分けている本人も、「本音」なのか「建前」なのか、分からなくなっている場合が多々あります。私たち夫婦は、山口県に棲息して二十数年、強引に「本音と建前」をひとつにして「ならぬものはならぬ」精神を生き抜いているのです。

二十数年前の赴任してきた年の夏、ある人が、ビール樽を持ってきました。

一緒に飲もうというのです。そのとき既にできあがっていて、「私はお酒は飲めないのです。アレルギーですから・・・」とお断りしたのですが、ずかずかと礼拝堂に入ってきて腰をおろして飲みはじめます。そして、いうのです。「あんたたちはどこから来たのか」。

私は岡山県倉敷市出身、妻は福島県郡山出身ですと答えると、彼は突然、「備中と会津!長州の敵国から来たのか。」と声をあらげて、「夫婦そろって、何を調べにきたのか」とにらみつけるのです。

さんざん、備中と会津をバカにしたあげく、「ちょっと用を足しにくる」といって、玄関に行きました。熱い夏の日のことですから、玄関のドアはあけっぱなしにしていました。するとそのおじさん、くるりと身を返して、礼拝堂正面に向かって小便をしようとします。「おじさん、そんなところですると罰があたるよ」といった瞬間、おじさんのズボンはびしょびしょになっていました。彼は、それにも気づかなくて、礼拝堂の床に座って、備中と会津の悪口を言い続けました。彼が帰ったあと、床の雑巾がけをしながら、何か、故郷を遠く離れて、異国の地にやってきたような気がしました。

そして、私も妻も、異国の地になじめないまま、20数年をこの地で過ごしてしまいました。

このブログを書くとき、「長州藩」の末裔からの反論を期待していましたが、現在のところ何もありません。ブログ上で論文を書く作業に疲れると、民謡「会津磐梯山」を聞きます。1日十数回は聞いていますか・・・。

現在住んでいる瀬戸内側は、文字通り瀬戸内側・・・。しかし、車で2時間少々北上すると、そこは雪国・北の国です。山口県側から日本海側を北上すると島根県・鳥取県・・・へ続いています。山口県南と県北は、気候も自然も、人情も民俗も大きくことなりますが、それに比べて、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常・民」、「穢多・非人」にはそんなに大きな違いはありません。

島根県・鳥取県には、「鉢屋」がいます。

『部落学序説』の立場からこの「鉢屋」を捉えると、通説とは大きく異なります。民俗学者の柳田国男は「はち屋」の「はち」という言葉は、「邑落の境」のことであるといいます。「しゅく」という言葉も「地境を意味する」といいます(柳田国男《いわゆる特殊部落の種類》)。島根県においては「はちや」は、長州藩の上位概念・包括概念としての「穢多」と同義語です。長州藩では、「はちや寺」は「穢多寺」のことです。鳥取県では、「はちや」は、下位概念の「茶筅」のことです。島根県の「はちや」は、「郡廻り鉢屋」と「村廻り鉢屋」に分かれますが、それは、長州藩の「穢多」と「茶筅」・「宮番」に該当します。

要するに、「穢多」・「皮田」・「鉢屋」は、言葉こそ別な言葉ですが、いずれも、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常・民」を指して用いられているのです。「穢多」・「皮田」・「鉢屋」は、「非常・民」を指すアドホック(間に合わせの言葉)の意味合いしかないのです。漢字の持っている「意味」を恣意的に解釈して、「穢多」・「皮田」・「鉢屋」・・・を、解釈不能な、「魑魅魍魎」の「棟梁跋扈」する世界に追いやるのはよしましょう。そこからは、部落差別完全解消に向けて、生産的な意味合いは出てきません。部落史の研究者や教育者は、問題を複雑にして、それを楽しんでいる傾向がありますが、歴史学者としてあるまじき姿勢ではないかと思います。

歴史学上の差別思想である「賤民史観」は、「賤民」の中に、更に、階級差別を読み込んで、「雑種賤民」をしたてあげていきました。「穢多」を「賤民」として、「茶筅」・「宮番」・「鉢屋」・「シュク」を「雑種賤民」として、「最下層の賤民」の下に、更に「最下層の賤民」をしたてあげていきました。

被差別部落の人々の最大の不幸は、わらをもつかむ思いですがった部落史の研究者や教育者が、「賤民史観」という最大の差別思想の持ち主だったことです。

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