2021/10/03

「穢多非人」再考

「穢多非人」再考

明治4年8月28日太政官布告第61号が出されました。

「穢多非人等ノ称被廃候条、自今身分職業共平民同様タルヘキ事」

この布告は、「穢多非人」を対象に出されたものです。「穢多非人等」を、近世幕藩体制下の用法を使用して、「穢多の類」・「穢多」として表現することにしましょう。

この布告によって、「穢多」は「平民」になります。明治天皇制度下の「天皇・皇族・華族・士族・平民」という身分制度の中に「最下層」の「平民」に位置づけられることになります。

「士族・平民」という表現は、近世幕藩体制下の身分制度「武士(士)・百姓(農工商)」という表現と同じではありません。「武士」が「士族」、「百姓」が「平民」という概念に変更されていくことによって、その概念の外延と内包にも大幅な変更が加えられているのです。

極端にいいますと、近世幕藩体制下の身分の如何にかかわらず、明治新政府によって「士族」と認定された人々が「士族」になり、その認定にあずかることができなかった人々は、必然的に「平民」身分に組み込まれました。

『部落学序説』では、「武士・百姓」という一般的な概念に、作業仮説として、「常民・非常民」という概念を導入しました。

筆者はまず、「非常民」を「軍事・警察に従事した人々」と定義しました。日本の歴史の初期においては、この「軍事・警察」は未分化の状態で渾然と一体化されていました。しかし、嵯峨天皇のときに、この「軍事・警察」は、「軍事」と「警察」に分けられ、新たに「警察制度」が作られました。

嵯峨天皇の意図は、「警察制度」(検非違使制度)を作ることによって、犯罪(内乱罪を含む)を未然に防ぐことでした。犯罪が起きたあと、血の粛清をするよりは、犯罪を防ぐことによって、天皇制の権威を血で汚すことを避けようとしたのです。

この警察制度は、功を奏して、以後数百年に渡って、政治犯罪者を血で粛清することはなかったといいます。

このとき制定された検非違使制度は、古代律令制に新しく付加された制度であったため、「令外の制」と言われました。検非違使制度は、制度外制度であり、検非違使制度に新たにその要員として配置された人々は、「身分外身分」として位置づけられていきました。

資料からみると、現代の司法・警察を参考に考察しますと、史料には、「警察官僚」ばかりが登場してきます。当然、「警察官僚」だけでは、日本の社会の治安を維持することは不可能です。そこで、「警察官僚」のもとに、日本全国津々浦々に配置され、実際の治安維持に携わる二十数万の警察官に匹敵する存在が必要になります。

検非違使制度に関する史料や論文を見ていると、「警察官僚」の層ばかり注目されていて、実際の治安維持にあずかった現場の「警察官」についてはほとんど触れられていません。

筆者は、古代・中世の史料や論文から関連記事を収集して、当時の「警察官」がどのような存在であったのか、描き出そうとしたのです。

そこで、警察官僚「衞士」に対して、警察官「衞手」という概念を紡ぎ出したのです。

「衞手」は、江戸時代は「まもりて」と呼ばれ、いわゆる「番人」を意味していました。長州藩においては、「番人」は、「穢多・茶筅・宮番」の「役務」のひとつでした。

この「番人」である「衞手」を、和語としてではなく漢語として発音すると「エタ」になります。

筆者は、この「衞手」が、「エタ」の語源ではないかと推定したのです。この、歴史上に存在した可能性のある「衞手」概念は、短期間で他の用語に置き換えられていったため、元の「衞手」という表記が忘れ去られて、その発音「エタ」だけがあとに残ったのではないかと推測したのです。元の文字が忘却されて、その発音だけが残り、それが、やがて、別な漢字(仮字)が割り振られ、「穢多」なる語が生成されたのではないかと考えたのです。

筆者は、「穢多」は仮字であって、「穢多」(エタ)の本質は「衞手」(エタ)であると認識するようになってからというもの、近世幕藩体制下の「穢多」について、差別的な視線で見ることがなくなっていったのです。

「穢多を穢多視するは不当なり」と主張する明治の法律家もいます。

筆者は、その言葉の響きの中に、「衞手(エタ)を穢多(エタ)視するは不当なり」という意味を読み込むようになったのです。そして、江戸幕府が「穢多」呼称を強制した理由として、「穢多」を「穢多」役、「多くを穢す」役として解釈するようになったのです。

「エタ」という音声の中に、千数百年に渡って、伝えられてきた「伝承」の波を感じとるようになったのです。長州藩の「穢多」の間で伝えられた伝承の中に、「多くを穢す」(長吏の職をはじめ、いろいろな職務についている)」ことを誇りにうたう「唄」の存在することを知って、ますます、「衞手は穢多(けがれおおし)にあらず」と確信するようになったのです。

しかし、筆者の説は、学歴も資格ももちあわせていない、「無学なただのひと」の浅学を前提にした単なる推測・仮説でしかありません。そこで、「衞手」(エタ)という概念ではなく、「衞手」(エタ)の「仮字」として、一般的に使用されている「穢多」(エタ)概念をそのまま使用することにしたのです。

『部落学序説』で、従来の部落史の一般概念と異なる意味内容で使用している概念は他にもあります。「穢」の他、「賤」・「屠」があります。『部落学序説』第1章~第3章を読んでくだされば、筆者の意図するところがお分かりいただけるのではないかと思います。

あえて、付け加えれば、「屠」という言葉についてです。

「屠」とは何か・・・。部落研究・部落問題研究・部落史研究においては、「屠」は、「屠殺」の「屠」と解釈されます。「屠殺」は、「屠」(ほふる)と「殺」(ころす)という同義語を組み合わせた言葉として解釈されます。しかし、筆者は、犯罪としての殺人である「殺」と、犯罪者を処刑するときの殺人である「殺」とは異なる種類の「殺」であると解釈しました。「屠殺」というのは、後者を意味する言葉なのです。

近世幕藩体制下の「穢多・非人」の一部は、後者の意味の「屠殺」をその職務の内容に数えていました。そして、それは、近世幕藩体制下の法に基づいて、藩の「司法・警察官僚」の指示・命令のもとに遂行されました。笞打ちの刑執行に際して、打つ笞の数ひとつ間違えてもお咎めを受ける時代に、「穢多・非人」が単独で死刑執行・「屠殺」を行ったとは考えられません。

しかも近世幕藩体制下においては、「穢多・非人」が、食肉のために、牛馬を「屠殺」することもほとんど考えることができません。なぜなら、長州藩では、「穢多」が牛馬を屠殺したことが発覚すると、長州藩は容赦なく「穢多」の首をはねているのです。被差別部落の人々は、このことから、「自分たちは牛馬以下だった・・・」と、如何に彼等が被差別の状況に置かれていたのかの説明に使用します。しかし、牛馬を屠殺することでその首が飛んだのは「穢多」だけではありません。百姓が「屠殺」しても、その首が飛んだでありましょう。

近世幕藩体制下の「穢多」が職務としてなした「屠殺」は、凶悪犯罪者に対する、裁判で判決が確定したあとの「死刑執行」のことで、牛馬の「屠殺」のことではありません。被差別部落出身者や、部落研究・部落問題研究・部落史研究で、「屠殺」(死刑執行)と「屠殺」(牛馬の屠殺)とが混同されて、恣意的に解釈される傾向がありますが、筆者は、明確に区別すべきであると思います。両者を混同すると、部落差別の淵源が、ほんとうにつかめなくなってしまいます。

日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」は、部落問題について描くときに使用する概念を限りなく、曖昧模糊とした状態においやります。元の概念に、あれもこれも、「みじめで、あわれで、気の毒な」イメージを付加して、まったく別の概念にしたてあげていきます。

年のはじめに、無病息災を祈って家族みんなで飲むものに「おとそ」があります。「おとそ」は「屠蘇」のことですが、めでたい席で、どうして、「屠殺」の「屠」という言葉が使用されるのでしょうか。文字にこだわり、縁起にこだわる日本人が、なぜ、めでたい席に「屠殺」の「屠」の入った日本酒を飲むのでしょうか。

この「屠蘇」は、唐の博士・蘇明によって我国にもたらされたといわれます。そのときは、嵯峨天皇の治世のときです。筆者はこのように推測します。嵯峨天皇は、内乱によって、深い精神的な傷を負います。嵯峨天皇は、ふたたびこのような悲惨を経験しないようにと、それまでの渾然と一体化した「軍事・警察」を、「軍事」と「警察」に分離します。そして、再び悲劇が繰り返されないように、犯罪防止・内乱防止につとめます。中国からの使者・蘇明は、そんな、嵯峨天皇のこころの傷を知って、その傷を癒す、新しい世の中を作り出すためにその身に傷を負われた嵯峨天皇のこころを癒すために、「屠」(女性が出産のときに産道に受ける傷)を癒す、「蘇」らせる妙薬・「屠蘇」を献上したのではないかと思います。

「屠蘇」は、あたらしい年の無病息災を祈るために用いられたのではなく、古き年に受けたこころとからだの傷を癒す妙薬として使用されたのではないかと思います。それは、やがて、宮中からあふれて、民衆の間にもひろがっていき、民俗のひとつに数えられるようになっていくのです。

近世幕藩体制下の「穢多」の関係した「屠」には、「殺」の意味は含まれていないのです。

しかし、「五箇条の御誓文」で、「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スへシ」で宣言され、それが実体化された「公議所」において、「穢多」の関係者がいないところで、「穢多」について、恐るべきことが議論されていくのです。部落史の専門家の間では、「移行期研究」(森田康夫)と呼ぶようですが、『部落学序説』の立場から、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」に依拠する従来の「移行期研究」の抱えている問題点を批判・検証していきたいと思います。

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