2021/10/03

西田秀秋(教育者)と長州藩青田伝説

西田秀秋(教育者)と長州藩青田伝説

昭和40年の「同和対策審議会答申」の前文は、「あるべからざる差別の長き歴史の終止符が一日もすみやかに実現さ れるよう万全の処置をとられることを要望し期待するものである。」という文章で終わっています。

「差別の長き歴史の終止符」を打つ・・・。

しかし、その崇高な理念のあとに続く、「同和問題の本質」の項では、部落史の一般説・通説である「賤民史観」が採用されていました。「差別の長き歴史の終止符」を打つためには、「賤民史観」そのものを、政治や文化の諸相の中から取り除かなければなりませんでした。「同和問題の本質」の把握のあまさが、結局、答申がいう「有効適切な施策を実施」したあとも、部落差別そのものが解消しなかった本当の理由です。

33年間15兆円の同和対策事業が進行していく中で、「賤民史観」そのものは、政治や文化の諸相から解消・除去されていくのではなく、返って、強化されていきました。同和対策事業の原因が、被差別部落の側の「みじめで、あわれで、気の毒な・・・」状況にあると、差別・被差別とを問わず考えられたためでありましょう。

私が所属している宗教教団の同和問題担当のトップは、「賤民史観を否定することは、同和対策事業の前提を否定することになる。「みじめで、あわれで、気の毒な・・・」存在であるということに部落解放運動の基盤があるのに、それを否定された日には、部落解放運動は成り立たなくなる。」といいます。

私は、彼に対していつも、「部落解放運動が大切なのか、差別そのものの解消が大切なのか」と迫ります。前者の方を選択するトップに、私は、「あなたは、本当に、被差別部落出身なのですか」と詰め寄ります。最近は、彼に嫌われていることが明らかなので、あまり、そのような話をすることはなくなりましたが・・・。

同和対策事業が進めば進むほど、被差別部落の歴史がより「賤民史観」的視座が強化されていく、この逆説的な状況を、私は、「同和問題」をめぐって、日本の社会が抱えた社会的な病理であると認識するようになりました。

社会的なガンを放置して、「同和対策事業」という、一時的なカンフル剤、鎮痛剤のみを打ち続け、一向に社会病理を明らかにせず、根本的な「万全の処置」を実施して問題解決をしようとしない政治家・学者・教育者、そして部落の当事者の姿を見て、日本の社会は病んでいると思わされたのです。

この論文でとりあげた歴史学者・布引敏雄の「賤民史観」は、一例に過ぎません。筆者は、彼をして、部落史を研究しているすべての歴史学者の代表足らしめているに過ぎません。被差別部落の当事者である村崎義正についても同じです。彼を、被差別部落の人々の一般的な姿と認識してとりあげているに過ぎません。「賤民史観」は、広く、深く、長く、空間的・時間的領域を越えて存在していますので、本当は誰でもよかったのです。

今回とりあげる、教育者についても同じです。

元神戸甲北高校長・西田秀秋についても、私は、一面識もありません。もし、どこかで彼と出会っていたら、多分、意気投合して、酒を飲み交わす仲になっていたかも知れません。学校の教師は文部省の指導下で教育を実施しているので、「賤民史観」を批判するような教育を実施することはほとんど不可能であったと思われます。

西田秀秋著『長州藩部落民幕末伝説』の末尾に、鶴見俊輔の「類書をこえて持つ力」という短文が掲載されています。その中に、「この作品は、幕末に対して、通説とは別の視点をもってするだけでなく、現在の日本の社会の中にあって、まるめこまれない気概をもってこれを見すえる力を、同時代に手渡す。」と、この書を評価していますが、私は、鶴見俊輔の文章の中に、日本の知識階級の思想的限界を見てしまいます。体制に批判的であることを標榜しつつ、実は、体制の枠の中にきれいに収まっている姿を。

西田自身の「あとがき」にも、「この小説は、部落出身の若者達に差別をなくする闘いに起ちあがれと呼びかける意図でまとめたもの」とあります。そして、「止むに止まれず筆を執った一番の動機は、右のテーマを公の文章とする者は私しかいないと思ったからです」とあります。同和教育に全生涯をささげた彼の自負心に満ちた言葉です。

彼は今、校長室で脳梗塞で倒れて「車椅子の生活」(鶴見の言葉)をされているようです。「本当にご苦労さまでした・・・」と、その労をねぎらいたいという思いを持っていますが、その彼にして、「賤民史観」を撃つことができなかったという事実があります。 

歴史を語るものは、歴史の真実を語らなければならないと思います。

思想や信条によって、イデオロギー的な見方に埋没することは、極力避けなければならないと思います。歴史は、文献史学と伝承史学とを問わず、「実証主義」的に解明されなければならないのですが、西田の書いた「小説」、『長州藩部落民幕末伝説』は、歴史の真実から遠い虚構に終わっていることを指摘せざるを得ません。

歴史の真実ならざる教説は、被差別部落の青年をして、本当の闘いに立ち上がらせることはできないと思われるのです。首に「賤民史観」のプラカードをぶらさげ、背中に「賤民史観」のゼッケンを貼って、どうして、西田がいう「差別をなくする闘い」を闘うことができるのでしょう。私は、被差別部落の青年に言わなければならない、「汝の首から、賤民史観のプラカードを引きちぎり、汝の背中の賤民史観のゼッケンを引き剥がせ。汝が、賤民史観から自由になるときにこそ、汝は、本当に部落差別から自由になることができる」と。

西田は、長州藩青田伝説について、このように記しています。「その伝説とは、牛馬の皮や骨など、穢れ物を運ぶと竜神の怒りを買い、そのとき決まって暴風雨に襲われ、稲の生育に大打撃を被るという体のものであった」。西田は、本来の「青田伝説」と「竜神伝説」を混同しています。しかも、「青田伝説」についても、誤解しています。

わずか1、2行の表現をみて、なぜ、そのような判断ができるのか、ということですが、この長州藩青田伝説は、高度経済成長下で発行された山口県誌、山口県の市町村誌のすべてに登場してくる伝説であるからです。天保2年の一揆との関連で避けてとおることができない材料ですが、かって、私は、そのすべての記述を比較・分析したことがあります。その時わかったのは、文献史学者の「伝承」に対する無責任な改竄でした。彼らは、「伝承」に対して、恣意的な解釈をほどこし、適当に改竄していきます。

西田の「青田伝説」に関する文章には、「牛馬の皮や骨など、穢れ物を運ぶと・・・、そのとき決まって暴風雨に襲われ」とありますが、西田は、青田伝説を、一般化する傾向があります。「暴風雨」に、「決まって・・・襲われ」るのではなく、「青田」のおり(稲の穂はらみの時期)に「牛馬の皮や骨など、・・・運ぶと・・・暴風雨に襲われ」るのです。これが、長州藩「青田伝説」が「青田」伝説と言われるゆえんです。

山口県立図書館の研究員の木下氏、山口県の市町村誌に記載された天保一揆に関する記述や被差別部落に関する記述は「金太郎飴」だといいます。どの市町村誌を見ても、同じことしか書かれていない、比較研究するのは意味がない・・・と、あるとき、筆者に話されたことがあります。

 しかし、実際に比較してみると、「長州藩青田伝説」は、歴史学者の恣意的解釈、恣意的表現によってバラエティに富んだものであることがわかりました。「長州藩青田伝説」が「長州藩黄金田伝説」に改竄される場合も少なくないのです。「青」が「黄金」に。伝承に対する恣意的な解釈の姿勢は、その歴史学者が、その他の歴史資料を取り扱うときの姿勢にもつながっています。

「長州藩青田伝説」をめぐる恣意的解釈の例を列挙します。

(1)伝承の流布地域について

青田伝説がどの地域に流布していたかという点については、言及される場合とされない場合があります。される場合は、「三田尻を中心とする瀬戸内側一帯」という地域的に限定された表現から、「周防や長州などの瀬戸内海」・「瀬戸内沿岸」までの広範囲に及ぶ表現があります。西田は、「言及しない」立場を採用しています。

(2)青田伝説は誰が信じていたのか

言及される場合とされない場合があります。されない場合は、青田伝説の解釈の中で、そのことを取り上げるのが一般的です。狭い範囲では、「農民」の間に広まっていたとする説、少し広げると「一帯の農村」、さらに広げると「百姓」、一般化すると「当時の人々」となり、青田伝説は、農民だけでなく、武士や農民以外の百姓まで信じられていたということになります。「愚民論」(支配者が被支配者をみる見方)に立てば立つほど、長州藩青田伝説の担い手を農民に収斂させてしまう傾向があります。西田は、「百姓」を採用します。

(3)青田伝説の時期

いつ、「牛馬の皮や骨など、・・・運ぶと・・・暴風雨に襲われ」るのか、という項目については欠落した伝承の解釈はひとつもありません。しかし、西田が伝える長州藩青田伝説はこの項目が欠落しています。時期は、「幼穂形成期」から「秋の収穫期」まで広範囲に及びます。「幼穂形成期」は文字通り「青田」伝説ですが、「秋の収穫期」の場合、既に、稲は青色ではなく、黄金色に実っていますから、青色ではなく黄金色になります。これは、「青田伝説」ではなく、「黄金田伝説」になりますから、歴史学者の恣意的解釈の行き過ぎを示しています。

(4)牛馬の皮・骨運搬が禁忌される場所

言及される場合とされない場合があります。されない場合は、伝承の解釈文の中で言及されるのが一般的です。西田は、言及しませんし、解釈や説明もしていません。言及される場合は、「青田の近く」、「田の近く」のいずれかになります。

(5)「牛馬の皮や骨など、・・・運ぶと・・・暴風雨に襲われ」る直接的原因について

言及される場合とされない場合があります。言及しない場合は、「愚民論」の立場から農民の迷信の信じやすさを強調する歴史学者に多くみられます。長州藩青田伝説は、「青田伝説」と「竜神伝説」が合体したものですから、当然、言及するのが正しいと思います。神話的な解釈と合理的な解釈の二つに分かれます。神話的な解釈としては、「竜神がきらって」、「竜神のたたりに触れ」「竜神の住む淵に(牛馬の皮を剥いで)投げ込む」という表現になります。合理的な解釈としては、「海があれ」、「(皮革を)海中に沈めると」、「(皮革を)積んだ船が海中に沈んだりすると」という表現になります。

西田は、「牛馬の皮や骨など、穢れ物を持ち運ぶと竜神の怒りを買い」と表現していますが、竜神は、穢多や藩の御用商人が陸路、牛馬の皮・骨を運んでいても、一向に怒りません。竜神が怒るのは、竜神の住んでいる海の淵に、「汚れたもの」を投げ込んだときだけです。

(6)暴風雨に見舞われる間接的原因(人間の側の要因)

この項目については、多種多様な表現があります。いちばん多いのは「牛馬の皮を運ぶ」ですが、天保一揆の原因になったのは「牛馬の皮を運ぶ」という状況ではありませんでした。その他に「牛馬等の皮を持って通ると」という表現にみられるように、天保一揆の状況にあわせて合理化して表現される場合がでてきます。はっきり、「獣皮を持って通行すれば」と表現される場合もあります。長州藩の天保2年の一揆のひきがねになったのは、朝鮮犬の皮で、牛馬の皮ではありませんでした。歴史学者が自覚しているかどうかは別ですが、「穢い皮を運搬すると」という表現もみられます。「穢い皮」は、藩の法令に違反して出荷されたり密輸される皮を指し、法令に違反しない皮の運搬は除外されることになります。藩のお触れ集を読むと、この解釈がいちばん妥当性があります。しかし、多くの歴史学者は、「穢い」という言葉の中に、禁忌の要素を持ち込んで解釈しています。歴史学者・布引敏雄と部落出身の村崎義正は、共通してこの立場を採用しています。

(7)竜神が怒った結果もたらされるもの(直接的)

いちばん多いのは「暴風雨」という表現、その他「大風」「暴風」があります。一般化された表現としては「災害」というのがありますが、これは例外的表現です。

(8)竜神が怒った結果もたらされるもの(間接的)

いちばん多いのは「凶作になる」という表現です。その他に、「稲作に打撃を受ける」という軽いものから、「その年は収穫がなくなる」、「田畑損亡する」という表現まであります。「物価が高騰する」という表現もありますが、天保2年の一揆の原因は、長州藩の物産方の役人(藩士)が、竜神の住むという淵に、「汚れたもの」を投げ込んで、意図的に怒らせ、豊作が期待されている田畑に台風を招き入れ、凶作に陥れ、藩収入の要である米価をつり上げるのを目的とした「風招き」をして、百姓の怒り、「天理・人事に相背き申候」を引き起こしたという点にあります。長州藩の、経済政策上の徹底的な合理主義・利益追求が、長州藩をして、倒幕の雄足らしめていきます。

(9)この伝説をどのように表現するか

いちばん多いのは「俗信」、次いで「迷信」、「伝承」。

西田の「その伝説とは、牛馬の皮や骨など、穢れ物を運ぶと竜神の怒りを買い、そのとき決まって暴風雨に襲われ、稲の生育に大打撃を被るという体のものであった」という表現は、長州藩青田伝説の西田的表現ということになります。

西田の歴史の事実を「一般化」する傾向は、長州藩の天保一揆の性格そのものについての表現にもみられます。西田は、農民の一揆が起こるのは、「凶作」のときだけ・・・という思い込みがあるのではないでしょうか。長州藩の天保2年の一揆は、「凶作」の時ではなく、「豊作」の時に起きたのです。西田はこのように表現します。「この年は、全国的に天候不順で、作物がすべて不作となり、この長州藩においても百姓たちの生活は急速に追い詰められていた」。

西田は、同和教育に熱心になる余り、「穢多」を持ち上げると同時に、「百姓」を持ち下げています。西田にとって、「百姓」は「迷信」の塊以外の何ものでもありませんでした。西田にとって、「百姓」は「穢多」に対して「怨嗟」・「嫉妬」・「憎悪」を抱く愚民以外の何ものでもありませんでした。しかも百姓は、人の道理がわからぬ徒に騒ぎを起こすやから以外の何ものでもありませんでした。西田にとって、長州藩の百姓は、「穢多狩り」を行い、穢多を「無慈悲に焼殺」したやから、身ごもった女性を竹槍で「刺し殺」し、村人の半数を「なぶり殺し」にした極悪人。

西田は、近世幕藩体制下の「穢多」と明治以降の「部落民」をごちゃ混ぜにして、その小説を展開していきます。西田はいう、長州藩には、天保期には既に「屠場」があったと。天保から程遠くない文久3年、長州藩はアメリカ・フランス・オランダの艦船を下関砲台から攻撃をしました。その敗戦処理の際、諸外国から、食料(牛肉)の供給を要求されます。諸外国に対する賠償としてはいちばん簡単なことがらだったと思うのですが、そのとき長州藩は、当藩には牛を屠殺する人はひとりもいないといって断っている事実を、西田は、どのように解釈・処理していたのでしょうか。

 西田の『長州藩部落民幕末伝説』は、長州藩の末裔である現在の山口の青年にとっては、歴史的事実に反する内容を多く含んでいます。「部落出身の若者達に差別をなくする闘いに起ち上がれとよびかける」ことへとはつながらないのではないかと思います。必要なのは、「賤民史観」の汚れにまみれた思想ではなく、歴史の真実です。近世幕藩体制下の「百姓」や「穢多」を、「賤民史観」という歴史学上の差別思想に基づいて解きあかすのではなく、当時の社会システム、法システムの中で、「百姓」や「穢多」がどのような立場に置かれていたかを総合的に解明すべきです。

 西田は、エピローグで、「部落に対する穢れ意識は日本人の心の隅々までしみこんでいるので、いろんな場面にいつでも顔を出してくる。だから部落差別はなかなかなくならない。」といいます。その通りです。「賤民史観」に依拠するかぎり、西田の著書『長州藩部落民幕末伝説』も例外ではありません。反差別を指向しながら、差別の温存と強化に手を貸してしまうことに陥っています。

「賤民史観」は、歴史学上の差別思想です。

この差別思想をとりのぞかない限り、「百姓」も「穢多」も、歴史の真実を取り戻すことはできないのです。

長州藩青田伝説の一言一句にこだわった分析は、長州藩の「牛馬」に対する政策の全貌を描き出してくれました。「長州藩青田伝説」については、別の論文で取り上げていく予定です。

論文の構成を少々変更して、次回から、第3章に入ります。

部落学で使用する基本的な概念の定義をしていきます。


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