2021/10/03

「部落」概念の普及は明治20年以降

「部落」概念の普及は明治20年以降


「部落」とは何か・・・。

この問いに対する正しい答えは、如何に正しく問うことができるかにかかっていると思われます。

「部落」という言葉を耳にするとき、現代人である私たちは、その言葉を耳にすると、すぐに、「被差別部落」という「部落」に「被差別」という修飾語句をともなった、複合語を思い出してしまいます。

多分、それは、筆者が、西本で生まれ、西日本で教育を受け、成人してからの人生の大半も、この西日本で過ごしているからでしょう。

筆者である私の妻は、東日本で生まれ、東日本で教育を受けましたので、「部落」という言葉を耳にしても、何のことだか、ほとんど理解できないでいました。

時々、私たちが住んでいる宗教施設に、「旅の人」がやってきます。広島からやってきて福岡にいく人や、また、逆に、福岡からきて広島にいく人がいます。着の身着のままのような出で立ちで、食べるものがない、電車賃がない・・・といって、少しのお金を無心します。

そのとき、彼等はきまって、「おれは、○○のもんじゃが・・・」という言葉ではじめます。

私は、ほとんど相手をせず、すぐ近くにある市役所の支所を尋ねて、食べ物や電車賃をもらってください・・・といいます。

○○というのは、山口県の有名な被差別部落の名前です。○○と語ることで、○○「部落」を連想させ、一種の精神的圧迫を相手に与えた上で、食べ物や電車賃の無心をはじめるのです。

あるとき、ことわったあと、その人のあとについていったことがありますが、その人は、少しく離れた民家に、「ただいま・・・」といいながら入っていきました。やはり、○○「部落」を使ったかたりなのかと思ったのですが、いつもは注意しているのですが、ときどき、騙されてしまいます。

あるとき、「沖縄から歩いて旅をしている」という人が昼時にやってきて、「お腹がすいた・・・」というので、それなら、「私たち家族と一緒に・・・」と、私と妻と小さな娘と彼の4人で昼食をとりました。彼は、温かいごはんとインスタントラーメン(有名メーカーの製品)と漬け物・・・という、わが家では、定番メニューだったのですが、彼は、ひとくち、ラーメンを口につけたまま、箸をとめてしまいました。「どうしたのですか」と尋ねましたら、「こんなまずいラーメンはじめてです。沖縄では、こんなまずいラーメンは食べません・・・」と言って、そのまま去って行かれました。

そうか、わが家は、沖縄のひとより貧しい生活をしているのか・・・、そのときそう思いました。

それ以来、○○「部落」だ、食べ物がほしい・・・というひとには、「ちょうどいい、一緒にインスタントラーメンでも召し上がりませんか」というと、「おなかの調子が悪いので、インスタントラーメンならお断りします」と、残念そうに帰っていかれることが度々ありました。そのうち、情報が行き渡ったのでしょうか、食べ物を求めるひとが誰もいなくなりました。ほとんどの人は、「200円でも300円でもください。そうすれば、自分で好きなものが食べられますから・・・」といいます。

そんなある日、「この2、3日何も食べていないんです。何でもいいですから、食べ物をください・・・」と蚊の鳴くような小さな声で話しかけてくる60歳位のおじさんがいました。

私は、「おじさん、なんで食べ物がないんです?」と尋ねかけました。次は、その会話の続きです。

「騙されたんです・・・」。
「騙されたって、誰に?」。
「広島で働いていたんですが、山口にいい仕事があるからといわれて、やってきたんですが、約束の賃金をもらえないんで、逃げだしたんです・・・」。
当分洗ったことがないように見えるおじさんの顔には、眼から流れ落ちた涙のあとが残っています。
「今、どこにおられるのですか?」
「泊まる場所がないので、廃車の中で寝ていました。2週間ほど。持っているお金が無くなったので、食べ物ものを買うことができなくて・・・」。
「おじさん、まだ貰っていない賃金が残ってるの?」
「はい・・・」。
「どこの会社?」。
「それは、ちょっと言えません。その会社に迷惑をかけるかもわかりませんから・・・」。
「迷惑をかけるって。かけられているのはおじさんでしょう! おじさんに、食べ物をあげることはできないけれど、おじさんが、自分の働いた賃金で、自分で好きなものを買って食べれるようにしてあげれそう。私がその会社に行って、おじさんの代わりに残っている賃金とってあげましょう」。
「あなたが、一緒に行ってくれるのですか?」
「そうですよ。心配しなくてもいいですよ。私は、けんか早いって、みんなに知られているんですから」。
「あなたにも迷惑をかけそうですから、結構です」。
「結構じゃないでしょう。がまんしても、空いたお腹はいっぱいになりませんよ。行きましょう、その会社へ」。
そういいながら、おじさんと一緒に、その会社のある方へ、歩き出しました。しかし、交差点で信号を待つごとに、おじさんはこのようにいうのです。
「みんなに迷惑をかけそうですから、結構です」。
「私は、迷惑じゃないですよ。ちょうど暇だったから」。
何度も、そんなやりとりを繰り返しながら、20分程歩いてその会社の前まで着きました。しかし、その建築会社の事務所には誰もいませんでした。少人数の会社のようでしたが、その会社のひとが帰ってくるまで、おじさんと一緒に待つことにしました。
おじさんの話では、出身は山口県の秋吉台の近くだそうですが、町の区画整理があって、町役場のひとがやってきて、「はんこを押せ」というので、押したら、あるとき、自分の住んでいる家から立ちのきを要求されたそうです。補償金はまたたくまに生活に消え、それ以来放浪生活を続けているというのです。
「おじさんをこんな目にあわせたのは誰?」と尋ねると、
「町役場のひと・・・」と呟きます。
「山口県の行政もひどいことするなあ。おじさんのようなひとから、先祖伝来の土地と建物をとりあげるなんて」そんな話をしていて、ふと、あたりを見回すと、おじさんの姿がありません。あたりを歩いて探しましたが、忽然とすがたを消してしまいました。
「もしかしたら、また、騙されたのかなあ・・・」と思っていたら、おじさんが帰ってきました。
「どこへ行っていたんです」。
おじさんは、このように答えたのです。
「あなたにめいわくをかけては申し訳けないので、姿を隠しました。でも、あなたはいなくならないので帰ってきました」。
そうこうしているうちに、その会社の事務のおんなのひとが帰ってきました。すると、またおじさんの姿がありません。私は、その会社のおんなのひとに、語調を強めて、
「お宅の会社で働いたのに、給料を半分しか貰えなかったというひとが、相談に見えられたのですが・・・」。
「それ、もしかしたら、60歳くらいのおじさんではありません?」
「そうですが・・・」。
「私たちも探していたんですよ。どこにいったものやらと。給料については、おじさんが勘違いしているんですよ。うちの会社は20日締めなんですよ。おじさんは、1ヶ月働いたけれども、20日締めのため、今回は半分しか給与をさしあげることができなかったんですよ」。
そのおんなのひとは、私の肩越しにおじさんに話しかけました。
「おじさん、そんな理由で突然といなくなったの?ひとこと聞いてくれたら、説明したのに。みんな、おじさんを一生懸命探したのよ。どこに行ってたの。そんな年で行くとこないでしょう。ここにいなさいよ。きちんと働けて自分で食べていけるから・・・」。
「おじさん、そうだってよ。いいとこじゃない。ここにいたら・・・」。
おじさんは、いままで、何人ものひとに騙されてきたそうです。騙されて、騙されて、騙される都度、働いた賃金を手にすることなく、放浪の旅を続けたそうです。
おじさんは、最後にこういいました。
「あの、もうひとつお願いしていいでしょうか・・・」。
「何です?」
「秋吉台の家と土地、町役場から取り戻してくれませんか?」
「家と土地? おじさんから家と土地をとりあげた町役場のひとって、人間じゃなくて鬼でしょう。そんなひとと私がはりあえるかなあ・・・」といいますと、おじさんは、
「いいです。ここで死ぬまで働かせてもらいますから・・・」。
その会社の事務のおんなのひとは、
「おじさん、それが一番いい。おじさんは、この会社では、一人前の仕事ができるんだから・・・」といっておられました。

そのおじさんは、被差別部落出身ではなさそうですが、「部落」という言葉を耳にすると、私は、きまってそのおじさんのことを思い出します。人間は信じなければならない・・・、信じるに足り得る存在だと教えてくれたのは、そのおじさんでした。

人間というのは、先入観や偏見を持つと、大切なことを見失ってしまいます。

マルチン・ブーバーという哲学者が、「我とそれ」の関係ではなく、「我と汝」の関係の大切さをときました。「我とそれ」は、相手をそれ(もの)とみなして、利用することに腐心します。自分にとって役に立つか立たないか、それだけが、判断の基準になります。しかし、ブーバーは、人間の本来の有り様ではないといいます。人間のあるべき姿は、「我と汝」という、人格者としてお互いに顔を見合わせて対話できる関係であるといいます。

筆者にとって、部落解放運動が色あせて見えるときは、人間関係が、「我とそれ」の関係に堕したときです。被差別部落の側から、自分たちの役に立つか立たないかという判断基準をつきつけられると、筆者は、黙ってその関係をあとにしてきました。

「部落」という言葉に染みついた、マイナスイメージは、少なくありません。筆者も、ときどきそれを知って愕然とします。

しかし、「部落」とは何か・・・、あらためて自らに問うとき、「部落」は、今日一般的な意味合いで使用されているような響きは、明治政府によって、法制用語の翻訳語として使用されるようになった「部落」概念には含まれていなかったと断言できます。

近世幕藩体制下の「村」(むら)を指す言葉の代わりとして、明治政府によって採用された、近代的村落共同体を表現する「斬新」な意味内容を持った言葉であったのです。幕末期に、諸藩で培われてきた神道による国家建設・・・、その近代国家の地方自治制度確立のための用語として「部落」概念は登場してきたのです。「部落」は、神道を宗教的核として形成される、明治天皇制下の支配が貫徹される基本的な共同体を意味していたのです。「部落」という概念は、明治維新と近代天皇制確立の不可欠の要素として、日本の社会の中に組み込まれていったのです。

明治20年以前には、「部落」という概念は使用されていませんでした。明治30年代には、「部落」という概念は、大日本帝国憲法下で作用する地方自治制度の重要な基礎概念として一般化していきます。民俗学者の著述に見られるように、民俗学の研究対象は、単なる自然村・むらではなく、明治天皇制が予期していた、神道を中心とした村落共同体のことなのです。近世幕藩体制下の「藩」権力に組み込まれた村落共同体ではなく、明治天皇制という近代的権力に組み込まれた村落共同体のことです。

明治13年の司法省蔵版『全国民事慣例類集』の「第1篇人事、第1章 身分ノ事、第1款 農・工・商・穢多・非人ノ別」には、「村」はでてきても「部落」はでてきません。法制用語、行政用語、学術用語としての「部落」概念の登場は、明治20年以降のことです。明治4年に「部落解放令」というような概念は存在する可能性すらありません。「部落」は、明治政府によって解体されたのではなく、逆に、近代天皇制の新しい理念として、明治政府によってつくられたものなのです。

0 件のコメント:

コメントを投稿

『部落学序説』関連ブログ群を再掲・・・

Nothing is unclean in itself, but it is unclean for anyone who thinks it unclean.(NSRV)  それ自身穢れているものは何もない。穢れていると思っている人にとってだけ穢れている(英訳聖書)。 200...