2021/10/03

上杉聡の遊女観

上杉聡の遊女観


日本の歴史学の差別思想である「賤民史観」の帰着点、それが、上杉聡の『部落史がわかる』です。

上杉は、関西大学文学部で二十数年間、「部落史研究」を教えてこられたそうですが、その教科書『これでわかった! 部落の歴史』の「はじめに」で、このようにいいます。

「私の授業は、史料を毎回配布し、それを読むことによって進めてきました。本書に本文と別枠で掲載しているのがそれで、講義は基本的に、まずその史料を理解してもらった上で行ってきました。これは、教師が一方的な「論」を押しつけるのではなく、実証的な多面的な史実を学生と共有した上で、浮かび上がってくる差別への歴史認識を通して、自己の差別意識への反省やそれを克服しようとする意欲や励ましなどを得ることができれば、と考えてきたからです。」

上杉のこの文章を読みながら問題点を感じるのは、上杉が学生に提供する「史料」のことです。

上杉の授業においては、その「史料」を学生が自由に探索するというのではなく、講師である上杉自身があらかじめ教材として選択したものです。無数に存在する史料の中から、どのような史料を教材として選択するのか、そこに大きな問題が発生します。

上杉が、「部落史研究」に関する指導内容を「暗黙の前提」として、それにみあう「史料」だけを選択するとしたら、学生は、講師の「暗黙の前提」である、講師の「思想」を確認したり、追認したりするためにだけ、その「史料」を使用することになります。

私は、このブログで繰り返し語っていますが、今まで、一度も、大学という名前のついた場所で、大学教授という肩書のついた方から講義を受けたことはありません。今後もないと思われますので、私にとって、大学教育はまったく無縁なものです。

大学教授が大学で何をどのように教えているのか、知るためには、一般に公開されている書籍や資料を通して間接的な手段に頼る以外に方法はありません。

鐘ケ江晴彦著『「同和」教育への社会的視座』の中に、《信州の「同和」教育の問題と課題》という論文が収録されています。

鐘ケ江は、「私は、大学で例年、現代日本における主要な差別事象(部落差別、性差別、障害者差別、在日韓国・朝鮮人差別など)の社会的特性、歴史と現状、教育とのかかわりなどについて概説する授業をおこなっている。」といいます。

鐘ケ江は、「ある年の授業では、部落差別についての講義に入る前に、次のような質問をはじめとする幾つかの質問に対して、レポートを書いてもらった」といいます。

その質問というのは、「これまで『同和』教育を受けたことがありますか。ある場合には、いつ受けたか、そのときどのように感じたか、それについて今どのように思っているか、書いてください。」というものです。

その質問に対して、長野県出身の一人の学生がこのようなレポートを書いたというのです。

「小学校5年より中学3年まで、毎年授業として同和教育を扱っていた。5年生のとき、題名は忘れたが、映画を見せられ、偏見問題について勉強した。親が肉体労働者で、家が貧しい子どもを差別する映画で、かなりのショックを受けた。たしか、感想文を書いたと思う。
小学6年生から中学3年の間は、毎年、部落差別問題をやっていた。同じクラスの友達に部落の人がいて、その人が作文を発表したりしたが、特に何も感じずつきあっていた。それよりも、同和問題の映画を見せられ、その子がどう思ったかが不思議だった。また、こんなこといちいち僕らに教えなくていい、まったく知らないほうがいい、と思った。それは、必ず中途半端に教えられるために、逆に部落の人をばかにしたり、いじめたりする人がいたからである。別に部落出身だろうと人間的にできた人なら、差別されるわけはないだろうと思っていた。今でも、まったく知らないですむならそれでいい、と少し思うことがあるが、歴史として見るに、目をつむるわけにはいかないということがわかってきた。(C君)」

その学生のレポートに対して、教授の鐘ケ江は、このように評価するのです。

「C君の場合は、部落差別は知らないですむならそれでよいのではないかと、いわゆる「寝た子を起こすな」論的な考え方に現在でも傾いている。」

鐘ケ江は、3人の学生のレポートを分析・評価した上で、「3人が3人とも、それぞれ問題のある意識・態度を示している」として、「信州の「同和」教育が、本当に差別から解放された人間をつくり出せているか、差別問題に対する望ましい意識・態度を培うことができているか、と言えば、それは疑問である。」と結論付けます。

しかし、筆者の目からみると、問題があるのは、学生ではなく教授の方ではないかと思います。

C君のレポートをよく読むと、C君は、決して「寝た子を起こすな」という考えた方の持ち主ではないということがわかります。「寝た子を起こすな」と信じている人は、なによりもまず、部落差別に関する歴史的考察を拒否する姿勢を持っています。

しかし、C君には、そのような側面は見いだされません。むしろ、歴史について、積極的な姿勢がうかがえます。

C君は、中学校のとき受けた同和教育には批判的です。「それは、必ず中途半端に教えられるために、逆に部落の人をばかにしたり、いじめたりする人がいたからである。」という文章からも確認することができます。C君は、自分が受けてきた同和教育は「中途半端」なものだというのです。逆をかえせば、きちんとした同和教育なら何の問題も感じないと主張しているのです。

中途半端な同和教育が何を引き起こすか・・・。C君は、被差別部落民の一般像として提示された「親が肉体労働者で、家が貧しい子どもを差別する映画」と「同じクラスの友達」との間のギャップに大きなショックを受けるのです。それまで意識しなかったイメージが、同和教育を通じて、C君の脳裏に入ってきます。

C君は、それを不愉快であると感じて、「こんなこといちいち僕らに教えなくていい、まったく知らないほうがいい、と思った。」というのです。

そして、C君は、被差別部落出身の「同じクラスの友達」のことを思いやって、「同和問題の映画を見せられ、その子がどう思ったかが不思議だった・・・」と感じたというのです。

C君は、「別に部落出身だろうと人間的にできた人なら、差別されるわけはないだろうと思っていた。」といいます。

このC君の発想は、信州の被差別部落の住人である、『被差別部落の暮らしから』の著者・中山英一の言葉にも見られます。

「世間から疎まれ差別されてきた部落には、たくましく、かしこく、そしてやさしく生きてきた人たちの歴史があった。それを知らずに、勝手にマイナスのイメージを抱きつづけてきた人たちのために、私はこの本を書いた。苦しみ、悲しみながら、それでも喜びのときには笑いを忘れず、真摯に人生を全うする人の姿にふれたとき、だれもその人を見下したり、卑しいと忌避することはできないはずだと、私は信じている。なぜなら、部落の出であろうと、真摯に生きる人がこの世には大勢いるのだし、そうした人が自分と同じように生きる人を差別することなどありえないではないか」。

C君は、「今でも、まったく知らないですむならそれでいい、と少し思うことがあるが、歴史として見るに、目をつむるわけにはいかないということがわかってきた。」といいます。

C君は、「中途半端」な同和教育を受けて「中途半端」な差別感情を持っていきるのではなく、本当の歴史をきちんと見すえて生きていきたい・・・、と、教授・鐘ケ江に訴えていたのではないかと思うのです。

しかし、鐘ケ江は、C君のレポートから、鐘ケ江の思考パターンにあった要素「まったく知らないですむならそれでいい」のみを抽出して、それだけに依拠して、C君のレポートを問題ありとします。そして、信州の同和教育の問題点の指摘へと脈絡させるのです。

鐘ケ江の授業は、「差別事象・・・の社会的特性、歴史と現状、教育とのかかわり」等について概説することなのですから、「歴史と現状」という観点から、C君の評価をもっと高くしてもよかったのではないかと思います。

鐘ケ江は、その講義を受けたあとに実施される期末試験の結果について、C君については、「C君の答案は、設問と若干ずれているので省略する」といいます。

そして、その論文をこのようにしめくくります。

「なによりも必要なのは、教師ひとりひとりの意識改革であろう。・・・まず教師が、部落差別をはじめとする差別問題を、自分の人間としての在り方にかかわる問題としてとらえ、明るくホンネで語れるようになること、自分の身の回りの差別問題の解決に主体的に取り組むようになることが、何よりも必要なのではなかろうか」。

なによりも必要なのは、『「同和」教育への社会的視座』の著者を含む、学者ひとりひとりの「意識改革」ではないでしょうか。

鐘ケ江は、C君を評価することなく終わったのではないか危惧されます。

関西大学文学部の上杉聡の、「部落史研究」に関する「史料」を提示して、それを「解釈」してみせる方法では、学生の評価に際して、自分の認識パターンに合致したものは評価するが、そのパターンに合わないものは評価しない・・・ということになりはしないのでしょうか。

上杉の被差別部落民理解には、「血」の問題が内包されています。上杉はこのようにいいます。
「現実には「純粋の部落民」などどこにもいませんし、たとえいたと仮定しても、ほとんど今は何分の一かの部落民ばかりです」。

「何分の一かの部落民」というのは、「部落の歴史が続いていること」、「部落の血が続いていること」を意味しているのでしょう。上杉は、「歴史家は、まず自分の偏見を正しつつ研究に取り組むべきものですし、注意深く歴史をみつめれば、偏見そのものを打ち砕く素材にあふれています」といいますが、その言葉に反して、上杉自ら、日本歴史学の差別思想である「賤民史観」に立って、それをより強固なものにしようとします。

彼は、「摂津下新庄村・幸七儀、穢多を女房にたいし候一件」という史料を解釈して、「このような人(不義密通をした百姓)の「血」が、部落に流れ込んでいることを「プラス・イメージ」として評価するのです。

上杉聡は、「娼妓解放令」に異常な関心を持ちます。そして、「穢多」と「遊女」を同一視して「賤民」と呼びます。上杉は、このことから「賤民」と「解放」という言葉を使って、明治4年8月の太政官布告を「賤民解放令」と呼ぶのです。

上杉の歴史理解には、中世から近世、近世から近代へと目を向ける以上に、近代から近世へ、近世から中世へと、「賤民概念」を再適用していっているようなところがあります。

ある人は、「遊女」についてこのようにいいました。
「遊廓と称するは即ち売淫の巣窟・・・人間世界には非ざるなり。・・・禽獣に異ならず」。「娼妓の技は最も賤しく最も見苦し」。「人倫の大儀に背きたる人非人の振舞なり」。彼は、遊廓を「封鎖したらば、如何なる事相を呈すべきや。数月を出でずして満都の獣欲自ら禁ずることあたわず、発しては良家の子女の淫奔と為り・・・」良家の娘が男の慰み物になり、性的被害を受けるというのです。良家の娘の貞操を守るためには、遊女の存在が不可欠であると力説します。遊女がその身を犠牲にして良家の娘の貞操を守るは、「親鸞日蓮の功徳に比して差異なき者と云ふべし」といいます。

「一方は(良家の娘は)人にして一方は(遊女)は禽獣に異ならず」といいます。

その人の名は、福沢諭吉。「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と名言を残した、福沢諭吉その人なのです。「人」の中に、最初から「遊女」は含まれていなかったのかもしれません。

明治初期の「遊女」は、「身分外身分」、「社会外社会」、「最下層の賤民」、「人非人」とされた人々でした。明治政府は外交上の問題で、明治5年10月2日太政官第295号を布告しました。その中に、「娼妓・芸妓等年季奉公人一切解放可致」という法文がありました。明治政府が出した身分に関する布告の中で、唯一、「解放」という言葉を含んだ布告でした。

上杉聡は、明治初期の「遊女」に関するイメージを、近世の「穢多」と「遊女」の関係にも持ち込むのです。そして、両者を「賤民」概念でひとくくりにして、両概念の属性を交叉させます。そして、近世幕藩体制下の司法警察であり、当時の「遊女」を取り締まる側にいた「穢多」を、取り締まられる側の「遊女」の位置まで引き下ろし、明治4年の太政官布告をして「賤民解放令」と呼ばせるような「強権」を発動するのです。「部落民」に擬した上杉の主張(精神的似非同和行為)は、多くの歴史学者や研究者に受け入れられていきますが、それは、部落差別解消への道にはほど遠く、返って、部落差別を解決不能な世界に追いやる、歴史学者による「差別行為」そのものなのです。(続く)」

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