2021/10/03

「部落」と「暴力団」に関する一考察 3 「穢多」に広がる「博奕」の誘惑

「部落」と「暴力団」に関する一考察

第3回 「穢多」に広がる「博奕」の誘惑・・・

布引敏雄氏の「長州藩部落史年表」に取り上げられている「博奕」に関するできごとを、更に追跡してみましょう。

【事例6】
天保4年(1832)
3月山口宰判○村えた政吉、平人と博奕に付き、牢舎。

山口宰判の穢多・政吉は、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」の掟を無視して、「穢多」として、百姓・町人とまじわります。それだけでも職務規定違反として代官よりお咎めを受けるのですが、政吉は、更に、彼らと禁止されている「博奕」に興じます。捕らえられて牢につながれます。

この場合、「博奕宿」(博奕をする場所)を提供し、「博奕」という違法行為をしかけたのが、「穢多」の方なのか、「百姓・町人」なのか・・・、布引敏雄氏の要約文だけでは判明しません。

【事例7】
天保6年(1835)
5月 奥阿武宰判○村えた吉兵衛、博奕宿をするに付き、牢舎。

事例6から3年後に起きた、阿武宰判での、司法・警察官である「穢多」の不法行為・「博奕」が発覚します。この事例の場合、穢多・吉兵衛の行為は、あきらかに、「博奕」に対して積極的に関与していることが推定されます。穢多・吉兵衛は、ただ単に「博奕宿」を提供しただけなのか、それとも、<勧進元>として寺銭を徴収し、不法に収入を得ていたのかどうか・・・、布引敏雄氏の要約だけではなんとも言えませんが、どちらにしろ、穢多・吉兵衛は、職務規定違反・不法行為に対する攻めを免れることはなかったでしょう。

【事例8】
天保11年(1840)
5月 大島宰判○村出生茶筅彦右衛門、上ノ関にて交わり博奕を打つに付き、牢舎。懸り相の平人らも同断。

長州藩では、「穢多」も「非人」も、「穢多の類」として把握され、両者の違いは、配置形態の違いに依存します。「穢多」は、どちらかいいますと、現代の警察署あるいは機動隊の駐屯地の警察官を意味します。そこには、「穢多頭」をはじめ、多くの年配の監督者がいますので、「穢多」村の中で、「博奕」が開帳される・・・、ということはあり得なかったでありましょう。

しかし、他藩でいう「非人」として、長州藩では、茶筅や宮番という役人も配置されています。茶筅・宮番の場合、各村毎に1戸から数戸配置されていますので、現代の駐在所あるいは派出所の警察官に類比できます。

「穢多」が、「宰判廻り」、つまり、配属されている町・村を離れて、その町・村が所属する「宰判」(郡のこと)内の他の村々にでかけることができるに反して、「茶筅」・「宮番」は、「村廻り」という制限があり、同じ「宰判」に属する村であったとしても、他村に出向いていって職務を遂行することはできません。茶筅も、百姓同様、村境を超えるときは、代官・庄屋にその旨申請しなければなりません。

この茶筅・彦右衛門、幾重にも、職務規定違反をしています。彦右衛門が当時の司法・警察官である「茶筅」という任務についている村境を超えて、それどころか、大島を抜け出して、隣の宰判・上ノ関宰判の村まででかけていって「博奕」をしています。彦右衛門が、「茶筅」という身分を隠して不法行為に及んだかどうかは判然としませんが、摘発を受けて逮捕され、裁判にかけられ、お仕置きを受けることになるのです(おとり捜査ということも考えられないわけではありませんが・・・。)。

【事例9】
天保12年(1841)
6月 山口宰判の神社祠官その外は、同宰判○村宮番豊吉宅に集り、博奕を打つに付き、追込。

この事例の場合、神社祠官まで関与してきます。この場合も発覚。おそらく「密告」によって、「博奕」に参加した人すべてが御用になったのでしょう。

司法・警察官たるものの服務規定を無視して、不法行為の「博奕」に走る「穢多・非人」を内偵・探索・捕亡するのも、奉行・代官、与力・同心・目明し・穢多・非人、庄屋などの村方役人であることを看過することはできません。長州藩の史料によりますと、「穢多」は「穢多」を支配下(監督下)に置くと定められていますが、それは、こういうことを意味しているのでしょう。

その他にも同種の事件が発生します。

【事例10】
安政3年(1856)
8月 上関宰判茶筅力蔵、盗人宿を貸すにつき、代官所にて御究。後に牢舎。

司法・警察官であることの自覚が欠落してきますと、犯罪を取り締まる側が犯罪に巻き込まれたり、犯罪に加担したりするようになります。「博奕」・「博奕宿」に対して、不法意識が希薄になってきますと、その他の犯罪に対しても鈍感になってきます。「博奕宿」どころか、「盗人宿」まで関与するようになります。茶筅・力蔵は、同僚の司法・警察官である「穢多・非人」から拷問を受け、かかわった犯罪のすべてを白状させられたと思われます。

【事例11】
万延元年(1860)
長府領百姓藤吉方にて、当島宰判○村えた喜平次、吉田宰判○村えた勘藏その他が酒を飲み、博奕を行う時に喧嘩となり、喜平次が死亡。右につき、かかわりの者それぞれに御咎。勘藏は二月十五日遠島。

とうとう殺人事件に発展してしまいます。現代的にいえば、酒の席上、余興で博奕をはじめた警察官がその博奕をめぐって喧嘩、相手を撲殺してしまったという警察の不祥事・・・、という内容です。

長州藩は、幕末期、司法・警察官の風紀の乱れを憂い、司法・警察官である「穢多・非人」の不法行為を厳しく罰することになります。

【事例12】
文久元年(1861)3月、大島宰判の茶筅・初五郎は、「博奕打風の行い」をしたということで、萩城下に送られ取り調べを受けたのち「遠島」に処せられています。事例11と比べると、かなり厳しい処断です。長州藩が、幕末期、司法・警察官である「穢多・非人」に、法に忠実にその職務を遂行するように求めた結果が、このようは法的逸脱に対して厳しい処断をすることになったのでしょう。

長州藩の史料によると、「穢多」と「博奕」は、相互に相いれない概念なのです。両者が両立する世界というのは、近世幕藩体制下の司法・警察である「穢多・非人」が、その職務に不誠実に違背行為を行ったときのみです。長州藩は、その支藩を含めて、「穢多」に「博奕」を許すこともなければ、「博奕」に、司法・警察官のシンボルたる十手を渡してその職務にあたらせた・・・、ということはほとんどあり得ないのです。

時代劇に出てくる、江戸時代の「やくざ」は、少なくとも、長州藩の、司法・警察に関する史料の世界では、その存在を確認することはできないのです。現代の警察が、暴力団と手を結ぶことがないように、江戸時代の「穢多」も「博奕」と手を結ぶことはないのです。

「穢多」と「博奕」とが相矛盾する世界であるのと同様、「穢多」の末裔である、現代の「部落」も、「博奕」に深くかかわる現代の「暴力団」とは無関係のはず・・・。それなのに、いつ、どのような経過をたどって、「穢多」の末裔である「部落」は、油と水の関係にある「博奕」の末裔としての「やくざ」や「暴力団」を内側に抱え込むようになったのか・・・。そして、部落解放運動の中から、彼らを排除できないのか・・・。

筆者は、戦後の部落解放運動にかかわってきた人々が、「部落民とは誰か」、「部落民とは何か」、その問いに対する基本的・本質的な答えを持ち合わせていなかったことが大きく原因しているのではないかと思っています。

『部落学序説』第4章から第6章は、この問題に対する根本的な解決を提示することになります。

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