2021/10/04

周防国図・長門国図に見る穢多の在所

 私の手元に1枚の地図があります。


大きさは、幅2メートル、高さ1メートル。国立国会図書館に所蔵されている地図で、その復刻版を徳山市立図書館の郷土資料室で複写・拡大し、それを貼り合わせたものです。

徳山市立図書館の郷土資料室は、地図の複写は、著作権法の問題が絡んで、どんな小さな地図でも、一枚全部を一度に複写してくれることはありません。寛大な司書の場合、一枚の地図の半分までは、一回で複写してくれます。「周防国図」・「長門国図」を全部入手するためには、最低でも4回徳山市立図書館の郷土史料室に通うことになります。

国立国会図書館に所蔵されている地図の復刻版である「周防國図」と「長門國図」の2枚の地図は、江戸時代に作成された地図の上に、明治初期の山口県の区画を上から書き込んだもので、いわば、一枚の地図の中に、江戸時代の長州藩の村と明治以降の山口県の村が二重写しにされているといってもいいような地図です。近世と近代の両時代が地図上で共存しているのです。

この地図を最初に複写してもらったのは、周防国の観音信仰を調べていたときです。

周防の国には、福岡の太宰府と広島の宮島にならんで、中世の巡礼の拠点であった、周防国極楽寺があります。中世および近世の旅人になったつもりで、瀬戸内海を船で旅をして、周防国の室積浦にたどり着いたと仮定して、そこから、どういう道のりをたどって、周防国極楽寺という、かっての天皇勅願寺にたどりつくことができるのか、調べるためでした。

長州藩は、民衆の信仰として、浄土真宗を手厚く保護しましたが、真言宗については冷やかでした。周防国極楽寺は、その維持費については、藩から一部拠出があるものの、近世全体に渡って、ごくわずかの檀家によって守られ維持されてきました。山口県にある寺院の中で、名所旧跡に数えられている寺の中にあっては、私が一番好きな寺のひとつです。

車で、参道を走ると、梅雨の時期などは、目の覚めるような青色の紫陽花の花が咲き乱れています。私は、この周防国極楽寺を「周防国紫陽花寺」と呼んで、いろいろな人に紹介しています。室積浦を船でおりて、島田川沿いを北上していきますと、やがて、周防国国分寺の参道の入り口にたどりつくことができます。

駐車場に車をとめて、境内の清水をのんで、急な石段を数分登っていくと、その頂きに、古い御堂と鐘撞堂があります。なにか、日本昔話にでてくるような小山の上の小さなお寺というところがありますが、この真言宗の寺は、観音信仰の寺で、「聖」と「俗」を分ける隔ては一切ありません。

石段に座って、麓を見下ろすと、島田川の川面が海のように見えます。

観音菩薩の浄土である補陀落世界を彷彿とさせるものがあります。もし、私が仏教徒なら、余命幾許もないお年寄りを背負って、この石段のところまで連れてきて、「ほら、ここが観音菩薩の浄土だよ・・・」といって、みせてやりたいような場所です。

差別され、抑圧され、排除され、悲しみと苦しみを背負った巡礼者が、一抹の希望を持って身を寄せる場所・・・それが周防国極楽寺です。戦後公開された古い書物に『問わず語り』(岩波文庫)があります。夫(天皇)によって、その弟に払い下げられて、妻として、女性として、非人間的な屈辱を味わった女性が出家して、全国を巡礼してまわるという話であったと記憶していますが、その中に、「足摺の観音」という文章がありました。

瀬戸内海を旅する途中、その女性が船の上で聞かされた話ですが、昔、足摺岬には、小さなお堂があったといいます。そこには、一人の住職と一人の小坊主が住んでいました。そんなある日、そのお堂に、旅の修業僧がやってきて、宿と食事を求めるのです。そのとき、住職はそれを断るのですが、小坊主は、旅の修業僧が気の毒になり、自分の食事を分けてやるのです。しかし、そのことが住職の知るところとなり、住職は、旅の修業僧を追放するわけです。そのとき、旅の修業僧は、小坊主に、「さあ、補陀落世界に共にまいらん」といって、小さな舟にのって、波の荒れる太平洋に漕ぎだすのです。そのことが何を意味しているのか、知った住職は、二人を呼び寄せるのですが、二人の姿は波に飲み込まれてしまいます。住職は、自分のこころの中に分け隔てするこころ、差別するこころがあったから、こんな悲しいできごとを引き起こしてしまったと深く悔いて、「聖」と「俗」を仕切る寺の塀を取り除き、誰でも、観音菩薩の救いを求めて訪れることができる寺にした・・・という、そのとき自分の差別性に気づいた住職が、足を摺って悔しがったという地名の由来についての話ですが、周防国極楽寺にも、「聖」と「俗」を隔てる塀はありません。

周防国極楽寺にも、「聖」と「俗」を取り除く伝承が語り伝えられています。『今昔物語』にでてくるのですが、雪が降り続いたある日、麓から食料を運んでくる信者の姿も見えずひもじい思いをしていたあるとき、雪の積もった庭に一頭の鹿を見つけるのです。住職は、それをたべて、生き延びるのですが、伝承は、観音菩薩の化身の現れとして受け止めるという話です。ある研究者は、僧侶が肉食をした寺というのは「穢寺」であるといいますが、決して、そうではありません。

中世に栄えた観音信仰の拠点であった周防国極楽寺は、近世に入って、三百年間、檀家わずか十数軒という状態が続くのです。現在もほとんど同じですが、なぜ、周防国極楽寺への巡礼が衰退していったのか・・・。私は、その理由のひとつに、周防国極楽寺の麓に、「穢多村」、それも「垣の内」が形成され、その参道を塞いでいったためではないかと思っています。周防国極楽寺は決して「穢寺」ではなく、その麓にある浄土真宗の某寺こそ「穢寺」にあたります。

私は、頭の中で、室積浦から周防国極楽寺にたどりつく旅をしたのですが、国立国会図書館に所蔵されている地図の復刻版『周防国図』に記された、村の名前、道の名前、川の名前、一里塚などの情報をてがかりに、昔、巡礼者がたどったであろう旅をたどったのです。そのこころの旅をしていく中で、ふと、思ったのです。長州藩の穢多や茶筅、宮番はどこにいたのだろうか、と。

歴史資料によると、中世・近世の巡礼者は、至るところで、穢多・茶筅・宮番に遭遇するということがわかったのです。道がわからなくなる、すると、穢多に尋ねると親切に教えてくれる、途中、強盗に持ち物を盗まれる、すると、穢多に相談する、場合によっては盗まれたものを取り戻してくれる、病気になる、すると、穢多が薬草をくれるか、医者のところに連れていってくれる・・・、街道を守っている穢多たちによって、中世・近世の庶民は安全な旅をすることができた、そういうことがわかってきたのです。

「穢多」の在所は、簡単にわかるようになりました。

『周防国図』・『長門国図』に記された街道と街道が交差する点、「穢多」の在所はそこにあるのです。中世・近世の「穢多村」は、人の住みたがらない不便な地に無理やり追いやられて形成されたのでも、自然発生的に形成されたのでもありません。「穢多村」は、当時の社会システムの中に、政治・統治システムの中に深く組み込まれて存在していたのです。二つの地図上には、「穢多村」の存在場所を示す、いかなる記号も言葉も出てきません。しかし、どこに「穢多村」が配置され、存在しているかがすぐ分かるのです。

この地図『周防国図』・『長門国図』を手に入れたことが、穢多の在所を知る上で大きな手がかりになりました。『地下上申図絵』や『御国廻行程記』などには、どこに穢多村があったのか、詳しい表記が施されていますが、『部落学序説-「非常民」の学としての部落学構築を目指して』という論文を書くにあたっては、必須ではありません。身の丈ほどの情報があれば十分です。

長州藩の基礎史料のなかに、『防長風土注進案』というのがあります。

そこには、各宰判(他藩の郡に該当する言葉)に所属する穢多村が明記されています。こまかい調査をするなら別ですが、穢多の在所について調べるには、そこまで必要ありません。すべての情報を入手するには、時間と費用がかかります。手弁当で調査・研究をしている私には、そのような環境を整えることはできません。

『防長風土注進案』には、穢多村117カ所が記録されていて、江戸時代の穢多村に関する、ある程度の情報も入手することができます。

《萩藩の被差別部落について》(西田彦一著)には、『防長風土注進案』に記載されている穢多村に関する分析があります。「地形からみた被差別部落の立地」という表をみると、穢多村は、山麓の傾斜面、山肢下端分部、小谷の傾斜面、丘陵・台地面、丘陵・台地下端部、氾濫原、乱流地、自然堤防、バックマーシュ、砂州・砂嘴、トンボロ、砂浜、ポリエ斜面に設置されているというのです。穢多村の立地条件は、西田によると、「自然災害を受けやすい」、「自然的災害の危険率が甚だ高い」、「しばしば水害を蒙った」、「一般地区とは隔たったいわゆる隔離地区」であり、「不利な自然的条件にもまして、人為的に危険地域を形成していた・・・」といいます。地理学者も、賤民史観に強く影響されているのでしょうか。西田は、それらを前提にして、このように結論を出しています。
「部落の立地条件が、自然的にも社会的にも恵まれていないことには変わりがない。したがって、地理学の立場から見るならば、地域計画を推進するにあたり、悪化地区改善をはかる行政措置が必要である。本稿の執筆を機会に関係当局の適切な行政措置を強く望みたい」。

その論文でとりあげられた52の穢多村を、自分の足で歩いてみて思うことは、被差別部落の立地条件は、決して、西田が指摘するようなものではないということです。同和対策事業の根拠を捻出するために、意図的に捏造された把握ではないでしょうか。長州藩の穢多村は、村の一部であって、村全体が「穢多村」として扱われるということは、例外(本藩別業の地)をおいては存在しませんでした。自然災害にあうとき、それは、穢多村だけでなく、その近隣の百姓や町人の居住地も同じであったと思われます。

穢多村の在所は、藩によって、ある目的のもとに配置されることによって成立します。

当時の社会システム、統治システムを前提にして考えないと、穢多の立地条件を正しく認識することはできないのではないかと思われます。穢多村は、藩によって、意図的に配置されたものです。それは、長州藩だけではありません。毛利8カ国すべてに渡って同じことを確認できますし、四国や九州についても同じです。日本全国、沖縄から北海道まで、穢多村は、それぞれの地域性を考慮されながら配置されていったのです。穢多の在所に関するキーワードは、「非常の民」ないしは「非常民」です。彼らは、「非常民」として、意図的・計画的に、全国津々浦々に配置されていったのです。

穢多の在所は、「非常民」としての職務・役務を行うのに最適な場所が選択されました。西田がいうように、決して、自然災害に弱い場所へ追いやられたのではないのです。

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