2021/10/03

近世宗教警察としての「穢多」

近世宗教警察としての「穢多」


徳川幕府は、島原の乱前後から、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」の呼称を全国的に統一します。

穢多・皮田・鉢屋・穏亡・茶筅・宮番等を「穢多」呼称で統一しようとします。

しかし、「国」レベル(例えば、長州藩では、周防国と長門国2カ国で構成されています)で考えると、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」は、それぞれの「国」で多種多様な表現が用いられていました。「穢多」という呼称を、幕府が定めた「公用語」であるとしますと、それぞれの「国」で使用された、穢多・皮田・鉢屋・穏亡・茶筅・宮番等は、「通称」ということになります。

諸藩は、幕府に届けるときは、「通称」ではなく「公用語」を使用することを求められました。幕府は、諸藩の監督のために、巡検使を派遣しましたが、巡検使は、諸藩の担当者に「公用語」で報告することを求めました。

通説では、「穢多」呼称は、島原の乱前後から「公用語」として使用されるようになったとされています。近世司法・警察である「非常民」、中でも、その本体である「穢多・非人」の職務内容は、現代の警察の職務に劣らず多種多様で、到底、一人の警察官によって、すべての職務をまっとうすることは不可能です。

山口県警察本部の建物を見ても、かなり大きな建物です。県庁にいく都度、「随分、大きいな・・・」とひとりごとをいいますが、もちろん、その中に入ったことは一度もありません。恐らく、いろいろな部署に分かれて、専門化されているのだろうと推測するのみですが、これが、山口県の県庁所在地から離れて、市町村の警察署になると、建物も組織も小さくなります。そして、駐在所になると、そこに常駐しているのは、警察官とその家族ということになります。警察職は、末端にいけばいくほど、いろいろな職務を一人でこなさなければならなくなります。そこに、警察官が、専門的な職業である所以があります。

このような状況は、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」についても同じことがいえます。

佐藤友之著『江戸町奉行支配のシステム』によると、50以上ある「奉行」のうち、将軍直属の「奉行」は、「寺社奉行」ただひとつであるといいます。寺社奉行は、諸藩に認められていた「治外法権」の枠を越えて、全国に散在する神社や寺院に対して、直接的な「捜査・裁判権を持っていた」といいます。その職務の主要な内容に、「キリスト教対策」があるといいます。

また『江戸町奉行 支配のシステム』の「江戸幕府・司法組織図」によると、近世の司法・警察は5つの法システムが複雑に錯綜しています。そして、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」の階級制度というピラミッドの最下層を構成する人々は、同心・目明し・穢多・非人と言われた人々でした。その人員構成から判断しますと、「穢多・非人」は、近世幕藩体制下の司法・警察の「本体」であると思われます。近世幕藩体制下の社会の法的秩序は、与力以上の「官僚」・「キャリア」だけでは維持することはできません。その下に、多数の同心・目明し・穢多・非人がいて、はじめて、社会の治安を維持することができます。そういう意味で、直接、社会の治安維持あたっている、同心・目明し・穢多・非人は、警察の本体であると言えるのです。

中国地方の山間部、半島部には、「穢多」が「少数点在」しています。

その組織が小規模であればあるほど、「穢多」に課せられる職務の内容は多種多様になります。

三浦周行著『国史上の社会問題』によると、幕藩体制の社会病理現象として、浪人問題とキリシタン問題があげられるといいます。浪人とキリシタンの「取締り」は、すべての「穢多」に課せられた課題でもあります。近世幕藩体制下の社会的逸脱を未然に防止するということも、「穢多」の職務の重要な課題になります。

長州藩では、「穢多」2人が1組になって、浪人やキリシタンの探索・捕亡にあたりました。年1回の宗門改めだけでは、キリシタン対策は十分ではないと判断した幕府は、全国に散在する、近世幕藩体制下の司法・警察である思われます。「穢多」に、戸別訪問による抜き打ち的な「宗門改め」を「百姓」(農工商)に対して実施させたと思われます。

近世幕藩体制下の司法・警察組織の末端になればなるほど、多くの職務を累層的にこなさなければなりませんでした。そのことをさして、「穢多」(多くを穢す)役という言葉が用いられるようになったのではないかと、筆者は、推測しているのですが、古代・中世の「非常民」と、近世の「非常民」の違いは、幕府によって、「天下の大罪」とされた「キリシタン」を取り締まる、「宗教警察」機能の肥大化にあります。

とかく、日本の部落差別は、日本固有のものであるという見解がささやかれますが、筆者は、「穢多」は、日本固有のものではなく、アジア地域に多くの類例を見いだすことができるように思われます。そのキーワードは、「宗教警察」です。儒教・仏教・イスラム教・キリスト教、世界の主な宗教はアジアで発生したといわれますが、そのいずれの社会にもこの「宗教警察」は、存在していました。

この言葉は、日本の社会では「死語」とされていますが、最近では、アフガニスタンの米軍による支配の中で、「宗教警察」の解体が実施されました。「宗教警察」に属する人々は、社会的に追放されました。しかし、イラク戦争に際しては、戦後処理として、米軍は、イラクの警察官に職場復帰を命じました。イラクの警察は、アフガニスタンと違って「宗教警察」的要素が少なかったためです。

アメリカの諸外国に対する政策の違いは、この「宗教警察」機能の有無が大きく関係しています。

明治政府は、諸外国から、この「宗教警察」解体を要求されます。明治政府は、諸外国との「機密」の交渉を繰り返しながら、日本の国民に知られないように、キリシタン弾圧につながる「宗教警察」を解体していきました。それが、明治4年の太政官布告の真意だったのです。

話をもとに戻しましょう。
穢多とキリシタンとは、どのような関係にあったのか、もう少し詳細に検証してみましょう。

時間系列から考えますと、徳川幕府が、全国にキリシタン禁令を出す以前と以後では、穢多とキリシタンの関係は大きくことなります。

徳川幕府は、その初頭にあっては、キリシタン禁令を明確に打ち出さなかったために、「非常民」の中にも、キリスト教に改宗するものがあらわれました。幕府の「法」に違反しないことについては、「非常民」といえども、法的に不利益を受けることはなかったからです。

その時期の「穢多」は、伝統的な真宗の教徒である「穢多」と、真宗を捨ててキリスト教に改宗した「穢多」に分けられます。

その時期の、真宗を捨ててキリスト教に改宗した「穢多」の中からは、その職務を放棄するものが出てきます。元和8年(1622)の迫害の際、長崎では、55人のキリシタンが処刑されたことは前回に記した通りですが、「その際、刑吏役を課せられていた穢多に、奉行が処刑の設備を用意するように命じたが、彼らはこれを拒否した」(沖浦・前掲書)。「その大半がキリスト教徒なりし為・・・」」(『パゼス日本耶蘇教史』)であるといいます。

真宗を捨ててキリスト教に改宗した「穢多」たちは、例外的な存在であったのかも知れませんが、全国的レベルで見ると、かなり多くの穢多が、キリシタンになっていったと思われます。

「穢多」が「キリシタン」になっていったのであって、決して、逆ではないのです。「キリシタン」が、司法・警察である「非常民」になっていったのではありませんでした。彼らは、司法・警察官でありつつ、その職務を支える精神的基盤として、真宗の世俗化倫理を捨てて、キリスト教の世俗化倫理を選択していったのです。キリシタンになった「穢多」は、「穢多」であることを否定したわけではありませんでした。キリシタンになっても、近世幕藩体制下の司法・警察である「穢多」の職務を遂行することは可能であると考えていたと思われます。

禁令を出されたあとの「穢多」は、文字通り人生の岐路に立たされます。

(1)キリスト教を捨てて真宗に復帰する、
(2)キリスト教を捨てないで殉教の道を選択する、
(3)殉教の道を選択したあとキリスト教を棄教する(転ぶ)、
(4)幕府にキリシタンの名簿を提出する(裏切る)ことで免罪される、
(5)洗礼を受けキリシタンになったのは、浄土真宗の異宗に対する「探索」である(スパイ)ことを証明する、
(6)獄中のキリシタンから布教され、禁令に違反してキリシタンになる、
(7)人間としてのやさしさがわざわいして、キリシタンを糾弾することができない、
(8)司法・警察官としての処務遂行を逆恨みされ、偽証によって、キリシタンにされる(冤罪)、
(9)幕府が出すどのような「悪法も法」として受け止め、穢多の職務をまっとうする・・・。

徳川幕府のキリスト教禁令とそれに続くキリシタン糾弾という国家的・社会的「狂気」によって大きく弄ばれたのは、司法・警察である「穢多」も同じでした。「穢多」を、『部落学序説』がいう、「非常の民」・「非常・民」・「非常民」として把握しないと、「穢多」に襲いかかった(1)~(9)の選択の試練は、十分に把握することはできないでしょう。(1)~(9)の裏付けとなる資料を、散在する歴史資料の中から拾いだすことはそれほど難しいことではありません。

幕府は、キリシタン弾圧によって殺害したキリスト者を数えるのに、その単位として「首」(くび)を用いました。島原の乱後、一揆に参加した農民はすべて「斬首・獄門」とされました。その数、「10,869首」であったといいます。キリシタンは、「人に非ず」とされ惨殺されていったのです。

日本の統一政権が、キリシタンを人間として扱わなかったことは、石尾芳久著『明治維新と部落解放令』に記されています。

石尾は、豊臣秀吉は「キリスト教徒を「犬ども」と賤称しその人間性を抹殺している」事実を指摘しています。明治政府は、「浦上崩れ」の際に、キリシタンの数を数えるときの単位として「匹」を用いています。石尾は、大佛次郎の言葉を引用してこのようにいいます。

「百十匹、備前岡山預け。百七十九匹、安芸の広島預け、等と信徒を畜類扱いにした・・・」。

近世幕藩体制下のキリシタンに対する糾弾・弾圧の中で、「人間以下の人間」・「犬畜生に等しい人間」として卑しめられたのは、近世の司法・警察である「穢多・非人」ではなく、彼らによって迫害されたキリシタンであったのです。キリシタンは、武士だけでなく、「穢多・非人」によっても、非人間的な扱いを受けていたのです。

寛永17年(1640)、70人のキリシタンが江戸鈴ヶ森で処刑されています。処刑方法は、「キリシタン」にだけ適用された「水磔」。その「水磔」について、『江戸の刑罰』の著者・石井良助は、このように記しています。

「水磔というのは、囚人を鈴ヶ森などの波打ち際に逆さまに吊るす刑で、潮が満ちてくると水が頭を越えて息がつけないように、水がひけばよみがえるようにして、苦しめ抜いて殺すもので、「汐引クトキハ顔ハレテ人相変リ、此世ノ人トモ思ワレズ、八日間ニ死ニケリ」と言われている。」

『切支丹風土記』には、このように記されています。

「寛永17年(1640)に70人の切支丹が江戸鈴ヶ森で海中に逆さに吊され、上潮のときには水が口中に浸入し、顔は血の逆行と塩水の苦味のために甚だしく歪められ、8日目に死亡したと伝えられる」。

その処刑を最初から最後まで監視していた番人である「穢多・非人」は、どのような思いをもってその時代を過ごしていたのでしょうか。

『切支丹風土記』によると、キリシタンに対する残虐な処刑は、穢多村の中でも実施されていたのです。

部落差別が「いわれなき差別」であると信じている人は、この歴史的事実をどのように受け止めているのでしょうか。近世初頭、幕藩体制下の狂乱の時代に、深く、日本人の精神構造の中に刻み込まれた「権力に反するものに対する恐怖の応酬」は、今日の民主化された時代にあってもなお継承されているのです。

被差別部落の人々に対する一般の側が抱く、漠然とした「恐れ」。それは、日本人の潜在意識の深層に追いやられた、キリシタン糾弾の記憶の表出ではないかと思われるのです。

戦前の水平社運動も、戦後の部落解放運動も、その血塗られた言葉、「糾弾」という言葉を運動用語として採用してきました。「糾弾」という言葉を、漢字の語源をたどって、如何に説明しようとも、キリシタン「糾弾」によって内包されるに至った「恐れ」を取り除くことはできなかったと思われます。筆者は、水平社運動が、この言葉を採用したのは、歴史的には、大いなる間違いであったと思います。「糾弾」という言葉は、部落解放運動の正当な抗議としてではなく、「リンチ」(私的制裁)として受け止められることによって、民衆の中に眠っていた潜在意識としての「恐れ」を呼び起こすことになってしましったのではないかと思います。

「穢多」の末裔から、近世幕藩体制下の司法警察である「穢多」の末裔から本当の歴史を奪い、その代わりに、「みじめで、あわれで、気の毒な」歴史、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」を押しつけてきたのは、明治以降の官僚や政治家、学者や教育者なのです。そして、それ以上に責任があるのは、「穢多」の末裔自身です。水平社宣言でうたわれた、「先祖を辱かしめ人間を冒涜してはならぬ」(栃木重吉の言葉)という言葉を捨て去って省みなかったことに、同和問題の混迷の原因があるのではないでしょうか。

次回は、穢多とキリシタンについて、さらに検証を深めます。

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