2021/10/03

喜田川守貞の見た垣の内

喜田川守貞の見た垣の内


「垣の内」・・・。

それは、穢多の在所の特徴のひとつに数えられます。しかし、この「垣の内」の内部がどのようになっているのかは、 江戸や大阪の、一般の町の人々にとっては、ほとんど知り得なかったことがらではないでしょうか。

今日の警察と同じく、近世警察である穢多村のシステムについて、誰にでも分かる形で公表されていたとは思得ません 。

通常、「垣の内」の中には、牢屋が設置されていました。

そして、その牢屋を警固するために、番人小屋も併置されていました。つまり、近世の穢多村の代表的な仕組みである 「垣の内」には、当時の「警察官」と、彼らによって捕らえられ、白州で判決が出るまで牢屋に幽閉されていた「犯罪者」が同居していたのです。

歴史学の差別思想である「賤民史観」は、意図的に、この「警察官」と「犯罪者」を同一視してしまいます。

『近代の奈落』の著者・宮崎学は、その本を書くための取材がてら、自分探しの旅をします。

そして、「部落出身と違うやろか」という問いに対する答えを模索していたとき、亡くなった父親の知人からその真相を聞かされるのです。「学ちゃん、オヤジさんは、たしかに部落のもんや。そして、スリの頭目やったんよ」。

「衝撃的な事実」をつきつけられた宮崎は、「もし、オヤジがそのことを私に語ってくれていれば、俺の生き方は変わっていたかも知れない・・・。そう思った。そうとわかっておれば、こんな中途半端な生き方はしなかっただろう。それが残念だった・・・」といいます。

そして、「もう、遅いのか、中途半端でない生き方をするのは。いや、いまからでも遅くはない。おれは、これから、部落民として生きていく。ここで、そう宣言することによって、この終章は私の序章になるであろう」と。部落差別について、それまでの第三者の立場での関わりではなく、当事者としての関わりで生きていくことを決心するのです。

そして宮崎は、自己の体験から、部落解放運動は、差別・被差別とを問わず、近世警察官と犯罪者まで包み込んで種々雑多な人間によって構成された「猥雑な運動」であるといいます。宮崎は、精神的に相当無理をして、自らを「部落民」として再形成していこうとします。そして、たどりついた結論は、「水平社の原点に帰れ」ということでした。宮崎は、「部落民」には戻れても、近世幕藩体制下の「穢多」には戻ることができないのです。「穢多」は近世警察官・・・。「スリの頭目」は彼らによって取り締まられる犯罪者・・・。そのギャップに気づいた宮崎は、「クリーンな運動」の担い手ではなく、清濁併せ呑む運動の担い手足らんとするのです。

日本の歴史学の差別思想である「賤民史観」は、近世の警察官と犯罪者をごちゃまぜにするのです。山口県光市浅江の被差別部落出身の村崎義正は、当時の光市長・松岡三雄の言葉をそのまま引用して、彼の先祖の在所・被差別部落を「格子なき牢獄」といいます。

近世警察官たる穢多は、「穢多村」や「垣の内」を決してそのようには表現しなかったでありましょう。「穢多」には、警察・司法に関わる非常民としての明確な自覚と責任がありましたし、他の武士や百姓以上に、「法」に仕えるものとして、当時の様々な「法」に対する遵守の精神に富んでいたので、決して、自らを犯罪者と同一視することはなかったでありましょう。

『近世風俗志』の著者・喜田川守貞は、その当時の「常民」の立場から、「非常民」である穢多・非人について、現象的な側面でしかありませんが、淡々と記述していきます。現在の警察官と一般市民の間にある意識の格差と同じ程度の意識の格差が「常民」と「非常民」の間にありました。

喜田川にとって、穢多の在所は、布引が指摘しているような差別された場所ではありませんでした。のびがいうような「封じ込める仕掛け」でもありませんでした。「穢多村」や「垣の内」を外から観察すると、そこは、許可されたものが、自由に出入りすることができる場所でありました。

「常民」が入ることが許される場合は、彼らが何らかの法を犯して逮捕された場合でした。犯罪者は自分の意志に関わりなく、この穢多の在所に連れていかれ、取調をうけなければなりませんでした。多くの「常民」にとって、穢多の在所は、できれば関係を持ちたくない場所であったのです。

幕府や諸藩はお触れを出して、近世警察官たる穢多と百姓が、親しく交わることを禁止していました。近世警察官に相応しい「家職」に徹すること、また、百姓に接するときの姿勢や態度が近世警察官の服務規定として守ることを要求されました。結婚も、長吏頭の承諾が必要でした。穢多や非人が百姓と結婚することは、被支配者の側に、一揆鎮圧や強盗捕亡に関する情報が流れることは極度に忌み嫌っていました。歴史学上の差別思想である「賤民思想」に身を浸した歴史学者は、これを「差別」と呼びました。しかし、彼らがいう「差別」が「差別」だとしたら、明治4年以降の近代警察官はすべて「差別」を受けていることになります。明治初期の警察官は、近世警察官と同じ身分規制を受けていたからです。

警察官の結婚に際しては、その上司の許可が必要だったのです。

それは、今の時代にあっても同じではないかと思います。

喜田川の目に、近世警察である穢多の在所はどのように映ったのか・・・。
大阪には、天満山・千日寺・天王寺・鳶田の四カ所にその詰め所があったといいます。四カ所は、「四ヶあるひは塀の内とも称す」とありますが、「四ヶ」というのは、現代語では、「四つ」という言葉になりますが、それは、現代社会では「四つ足」・「畜生」指す差別語であると言われていますが、元の語源がこの「四カ所」の、近世警察内部の隠語「四ヶ」ではないかと思います。また「塀の内」というのは、「垣の内」の別称ではないかと思います。

この穢多の在所から、出ていく穢多(この場合は長吏・非人)の姿は、「新しき綿服に帯は博多おり。老者は羽織を着し、若年はこれを着さず。黄鞘の脇差しをおび、右腰に鉄刀を帯ぶ。鉄刀は十手の形に似て、黒緒を巻きて柄とし、黒総を垂る。十手は官吏これを帯ぶ。」と表現されています。彼らは、罪人の市中引き回しのときに任にあたると共に、「罪人を捕ふること、専らこの徒の任とす」とあります。

「四カ所」は、現代的には「警察署」であり、「警察署」の下には、そこから配置された「辻番」(現代の駐在所のお巡りさん)が大阪の町を犯罪から衞っていました。

「四カ所」に出入りする穢多(ここでは長吏・非人)は、近世警察官の制服を身にまとって、市中へとでかけていました。

しかし、中には、「密に官吏の命を奉じて、諸人の禁を破り法を犯す者を探るあり」とあり、これを当時は「猿」と言っていたといいます(猿回しも密偵の役)。穢多(ここでは長吏・非人)は、「私服刑事」のように、百姓の身なり(農・工・商)で、その在所を出ていったとあります。大阪の城下を遠く離れた「鄙にては、この徒を称して犬と云ふ」とあります。「犬」というのは、拷問を受けた経験がある百姓たちによって作られた近世警察官に対する蔑称なのでしょう。現代的に言えば、酔っ払いが警察官に対して使う「ポリ公」なんていう言葉が該当するかも知れません。

「四カ所」に出入りするのは、男性だけではありませんでした。女性もいます。「おさめ」(「長女」。女性の長吏のことか・・・)。いわゆる、近世警察の婦人警察官(女性警察官)であると言っても過言ではありません。長女は、道路から異物を取り除き往来の安全確保の仕事をしていました。江戸時代にあっては、女性の穢多(ここでは長吏・非人)は、司法・警察上重要な役を担っていました。女囚の世話・監督をするのも女性の穢多(ここでは長吏・非人)ですし、取調をするのも女性の穢多(ここでは長吏・非人)が大きく関わっていたようです。明治以降は、女性は被差別の立場に置かれて行きますが、近世幕藩体制下の女性の位置は、明治以降の近代教育の中で教えられてきた像とは相当大きくかけ離れています。

穢多の在所のひとつに「市南の渡辺邑」があります。

大阪の商人として長者番付に名前が上るような富豪が二人いたといいます。喜田川の目からみると「家宅壮麗にして巨万の金を蓄へ、皮革の類を諸国に漕してすこぶる大賈に比す」と映ります。

司法・警察の職務に向いていない穢多は、他の家職に従事しています。

「穢多町より出て市中を巡り行く」穢多は、「穢多中の貧夫これを職す」とある「雪踏直し」にでかけます。大阪は、「雪踏直し」は穢多(狭義の穢多)の仕事ですが、江戸にあっては非人の仕事になります。

広義の穢多は、その家職として、「雪踏」や竹を素材にした高級草履を作成していましたが、喜田川は、「藁草履等、武家中間内職にこれを製し売り巡る」といいます。幕藩体制化の大阪で、生活苦から藁草履を売り歩いていたのは、穢多ではなくて、武家・中間だったのか・・・、驚かされます。

渡辺村に出入りする穢多について、喜田川は、このようにも述べています。

「大阪火災の時は、大阪の南、渡辺と云ふ穢多村よりも火消人足を出す。しかれども町奉行より命ぜざれば、近所に屯して消防することを得ず、命を得て後消防はなはだ烈し。年々その功あるにより、従来無纏なりしを、文政中町奉行これを賞して纏を給ふ。以来これを用ふことを得たり。」

「常民」の立場から、喜田川が見た、「非常民」の姿はこのようなものであったのでしょう。

しかし、歴史学上の差別思想である「賤民史観」から見ると、なぜか、「人の嫌がる仕事を強制された」「みじめで、あわれで、気の毒な」、衣服と住居を制限された被差別民としてその目に映るのです。「はじめに賤民史観ありき」という歴史学者の予見と偏見に満ちた部落史研究は、最初から、差別解消にはつながっていません。

現代の大阪の穢多・非人の末裔(?)も、この「賤民史観」をもって、自己理解にかえています。

「賤民史観」は、明治以降の融和事業・同和事業対策の根拠となりました。そして戦後の同和対策審議会答申によって、33年間15兆円という巨額な施策が実施されました。しかし、依然として部落差別は解消していません。野口道彦・宮崎学等は、部落解放同盟と一緒になって、事業継続と、あらたな新規事業獲得を目指すために、「賤民史観」を継承し、新たな差別理論(部落拡大論)を打ち出しています。差別・被差別の関係をあいまいにし、あらたな「被差別」像を捏造しようとしています。

大切なのは、日本の社会から部落差別を取り除くことであって、各種運動団体の利益の追求と存続のためにありもしない「賤民史観」を強化・捏造していくことではありません。

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