2021/10/03

新井白石と垣の内

新井白石と垣の内


前節でとりあげたように、山口県立文書館の元研究員・布引敏雄は、「部落の囲りを垣根で囲うことは、即、差別を意味した」といいま す。

布引がそう断定する根拠になった史料は、近藤清石編『山口県風土史』(昭和18年原稿完成)に吉敷郡「垣の内」に関する以下の文章です。

「旧賤民の在所にて、垣ノ内の称は、尋常の人家の垣は杭を内にし縁竹を三段す、是れは杭を外にして縁竹を四段せり」

これに対して、布引は、「杭を外にしたという事実から、垣根がえた部落の側から自らの周囲を囲う意図のものではなくて、一般地域の側からえた部落を隔離・隠蔽する意味合いで囲ったものだということが知られよう」と推測します。

布引が、使用している文献は、幕末から遠く隔たった昭和の、しかも、戦前の時代です。その時代の文章が、どれだけ、幕藩体制下の「垣の内」について、正確な情報を伝えているか、検証が必要になります。今井登志喜著『歴史學研究法』には、「逸話、噂話」については、「これらは本来無責任な捏造が甚だ多い性質のものである。個人の逸話と言われるものの如き、真実を伝えている場合は寧ろ少ない。これらと同じ様な口伝的性質をもっている伝説はさらに芸術的要素が多く、小説であって容易に信用し難い。」とあります。

「賤民史観」にどっぷりと漬けられた「垣の内」に関する『山口県風土史』に収録された史料を無批判に使用することが、歴史学者として、正当な所作であるのかどうか・・・。

文献だけでなく、伝承を、歴史研究に組み込むときは、それなりの検証が必要です。

「社会史」という学問は、少なくとも、その研究に際して取り扱う個別の伝承については何らかの検証をしていると思われます。歴史学者の恣意的な解釈をそのままに「社会史」的研究と呼ぶことは許されないと思うのですが・・・。

布引が、あえて、このようなあいまいな伝承を持ち出したのは、「垣の内」に関する資料が少ないためでしょう。近世の文献だけでなく、現在の被差別部落に伝えられている伝承の中にも「垣の内」に関するものは極めて少ないという現実もあるのでしょう。

歴史学者のいう「賤民史観」を全面的に受け入れて、「これでもか、これでもか・・・」と、被差別部落の「みじめで、あわれで、気の毒な」被差別の現実を訴えてやまない、『怒りの砂』の著者・村崎義正は、「垣の内」については、ひとことも言及していません。

部落史を研究する専門家や被差別部落の当事者ですら、このような状況にあるのですから、学歴も資格も持ち合わせていないただの無学な筆者が、しかも由緒正しき百姓の末裔でしかない筆者が、「垣の内」について言及することは自ずと限界があることは否めません。

私は、ただ、徳山市立図書館の郷土史料室にある文献と、近くの書店で買い求めた若干の関連書籍を散策するのみですが、あるとき、岩波書店の『日本古典文學大系』の『載恩記・折りたく柴の記・蘭東事始』を読んでいて、「四面みなみな竹垣ゆひ廻せし」という言葉に遭遇しました。

この『部落学序説』で、明示した命題のうち、「穢多は非常民である」という命題に立てば、当然、「四面みなみな竹垣ゆひ廻せし」という表現を、近世幕藩体制下の警察である穢多・非人だけでなく、同じ「非常民」の職務にあった武士に関する史料の中から、参考史料を探し出そうとするのは自然の成り行きです。

「四面みなみな竹垣ゆひ廻せし」という言葉は、江戸時代の代表的な漢学者である新井白石の『折りたく柴の記』に出てきます。

新井白石の父は、上総国久留里の領主・土屋家に仕えていた人で、白石によると、当時の「警察」業務に長けた人であったようです。予想される事件はあらかじめ未然に防ぎ、犯人の逮捕・監禁・取調に際しては極力冤罪事件に至らぬよう配慮をしています。

正保2年の秋、土屋家は、幕府から、徳川将軍家の旧城・駿府城の番を命じられます。

そのとき、新井白石の父は国元に残り執務にあたっていましたが、次の年の春、藩主によって、上総から駿府に呼び出されます。

白石の父は、藩主からこのように聞かされます。
その頃、「府城の陣屋」(駿府城勤務の士の居所)「なども、四面みなみな竹垣ゆひ廻せしまま也しかば、わが侍ども、夜毎に垣をこえて出あそぶもの多くして、供にさぶらひしおとなしきものども、「制止すべきやうなし」と申しければ、召ける也」と言われます。

藩主が心配していたのは、駿府城勤番に同行させた藩士たちの中に、夜な夜な、「四面みなみな竹垣ゆひ廻せし」陣屋を抜け出して、城下に、夜遊びにいくものが多いことです。もし、藩主が若い藩士たちの行動を黙認したことで、誰か一人でも犯罪を犯すものがあれば、駿府城勤番の武士(近世警察)に対する信頼が著しく損なわれる。それは何とかして未然に防がなければならないが、藩主に同伴した家老たちは若い藩士たちを制しきれない。正済(白石の父の名)ならば、何かよい解決策を知っているかもしれない、藩主は、そう思って、白石の父を、上総から駿府へと呼び出したというのです。

白石の父がしたことは、まず、「陣屋の邊打ちめぐり見て」、藩士の居所である陣屋とその周辺を観察することでした。そして、若い藩士が、竹垣を越えて「脱走」する箇所を確定して、「しかるべき所々に番兵」を置いたというのです。当時の言葉では、垣の外を守る番人ですから、「番兵」は「垣外番」(かいとばん)であると言えます。一晩中、藩士の竹垣越えを監視する番所、「守らすべき小屋」を「四つ五つ」造ります。番所毎に、「足軽の兵二人づゝをもて、そこを守らせた」とあります。

白石の父は、「夜ごとに日暮ぬれば、夜明くるまで、みずから巡視して、守り怠らざるものをばすゝめ、懈れるものをばいましめて、交代の時に至るまで、ひと夜もうちふす事なくしてありし」といいます。白石の父は、若い藩士の竹垣越えを監視する、「垣外番」の足軽をさらに監視することで、「おのづから夜を犯して出あそぶものもなくして、事終わりにき」とあります。

白石の父に対する藩主の信頼は絶大なものがあったようです。

新井白石の父は、「雪踏」を愛好していたといいます。
「雪踏として、革を底にしたるものをめして、いかにも足おとの高らかに聞こゆるやうに、すぎゆき給ひしかば、我父の來り給ふをば、皆人の聞しりしほどに、おさなき子も、その啼くをとゞめたりき。」とあります。白石の父の雪踏の足音は、駿府勤番の藩士や足軽の耳にも達していたと思われます。

白石の父は、藩主から与えられた「司察」(司法警察)の職務を忠実に果たしたのでありましょう。その方針は、犯罪を未然に防ぎ、藩の品位を保つということにつきたと思われます。

白石の父が、犯罪を未然に防ぐことに終始したのは、苦い経験が背後にあります。

ある若い藩士が、あるとき、重罪を犯した。そのことが露顕することをおそれて、偽装工作をして、幼いこどもを惨殺して逃亡するということがありました。藩主は、若い藩士に自首を迫るため、彼の母親を牢につなぎます。しかし、藩士は自首してこない。そのうち、その母親は獄中で死んでしまいます。白石の父は、犯罪を未然に防ぐことこそ肝要と観念したのでしょう。

白石の父は、生涯、刀を抜かなかったと言われます。刀を抜いて処罰する前に、刀を抜かないでいいような社会を作る、犯罪防止と社会の治安維持に努める、武士身分の「非常民」としての心意気が伝わってきます。

犯罪を引き起こす政治や経済の歪みを是正すること遅く、ただ犯罪者を裁き極刑に処することのみ速やかである現代の司法・警察行政の現実と比較するとき、近世の司法・警察行政のあり方を、時代遅れのものとして切り捨ててしまうのはどうかと思います。

幕末期、諸外国から日本に派遣されてきた人々は、当時の日本の警察が極めて優秀であることを認めています。犯罪者を生きたままとらえること速やかにして的確であるとの評です。諸外国が日本に治外法権をつきつけたのは、近世警察の取調の手法の中に、「拷問」制度があったことです。幕府も明治政府も、日本は古来からこの「拷問」制度を採用してきたので、この「拷問」制度を廃止すると、日本の社会の治安が揺らぐといって、それを廃止しようとはしませんでした。

諸外国から評価されていた、近世警察の本体であった総称としての「穢多」を廃止し、諸外国から廃止を求められていた「拷問」制度を継続していった明治政府の姿勢は、今日にも引き継がれ、ときどき、「自白の強制」として、「冤罪事件」として、明治政府の失策の悪しき遺物がその顔を顕すのではないかと思います。

白石は、「府城の陣屋なども」と語りますが、近世警察である穢多の在所としての「垣の内」も同じ構造にあったのではないかと推測できます。白石の父が、「司察」の職務を担うにあたって、その知識や技術をどこから入手したか、筆者はまだ検証と考察の対象にしていませんが、久留里藩3万石の近世警察制度には興味があります。

筆者は、「垣の内」のプロトタイプとして、新井白石の『折たく柴の木』に出てくる、駿府勤番の「四面みなみな竹垣ゆひ廻せし」城番の居所をとりあげたいと思います。近世警察を担った「非常民」としての「武士」と「穢多」の居所を同一の構造とみなすことは、あながち、間違いではないと思います。

つまり、「垣の内」という地名や、その構造をもってしては、布引が指摘するような、「部落の囲りを垣根で囲うことは、即、差別を意味した」というような断定はできないということです。武士の居所を垣根で囲うことは差別ではないが、穢多の居所を垣根で囲むことは差別であるという反論があるかもしれませんが、それだと、布引説は、ますます、「賤民史観」と「愚民論」という、歴史学上の差別思想に身をゆだねることになります。

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