2021/10/03

明治2年公議所の体質

明治2年公議所の体質


加藤弘蔵の「非人穢多御廃止之議」は、原田伴彦のいう「解放論」なのでしょうか。

明治2年2月、明治政府によって開設された公議所は、3月7日に第1回の会議が開かれ、明治2年7月8日の完成改革で集議院に受け継がれるまで、4か月間、多方面に渡って「議事」が行われました。

この明治政府の公議所は、どういう性格のものだったのでしょうか。

明治政府、「最初の議会」としての公議所は、開会に際して、天皇の詔書の朗読によってはじめられたといいます。

「朕将に東臨、公卿群牧を会合し、博く衆議を諮詢し、国家治安の大基を建てんとす。そもそも制度律令は政治の本、億兆の頼るところ、以って軽々しく定むべからず。今や公議所法則、略既に定ると奏す。宜しく速かに開局し、局中礼法を貴び、協和を旨とし、心を公平にし、議を精確に期し、専ら皇祖の遺典に基き、人情時勢の宜に適し、先後緩急の分を審かにし、順次を細議し、以て聞せよ。朕親しくこれを裁決せん」。

天皇の詔書に出てくる「博く衆議を諮詢し・・・」の「衆」というのは、各藩から推挙された「公議人」のことです。この公議人に与えられた権限は、議案を提出し、その議論に加わるということのみで、それを明治政府の政策決定に直接つながるというようなものではありませんでした。公議所で議論は、「礼法を貴び、協和を旨とし、心を公平にし、議を精確に期」することが求められました。「礼」と「和」をもって議論するというのは、王政復古に相応しいよびかけのように思われます。公議所での議論の拠り所は、「皇祖の遺典」であり、「皇祖の遺典」を明治天皇制国家建設のために生かすために、「人情時勢の宜に適し、先後緩急の分を審かにし、順次を細議」して、その結果を天皇に上奏せよというのです。「朕親しくこれを裁決せん」というのです。

公議所は、議論する場所であって、裁決する場所ではないというのです。裁決は、明治天皇制国家の頂点たる天皇が裁決するというのです。

公議所での議論は、『公議所日誌』という新聞で公表されました。その議案の中には、「未熟で幼稚なもの」まで種々雑多な議論があったようですが、欧米の外交官は、公議所を、明治政府の正式の議会とは認めず、明治政府の「政治的教育」の場として受け止めていたようです。

ある英国外交官は、次のように語ります。

「英国の下院が議会制度の生みの親であるというのが通説である。江戸に設けられた公議所は、その一番年下の子供であった。世間の赤ん坊と同様、その最初の足どりはよちよちと危なげであった。駆ける前にまず歩くことから習わなければならない。公議所の最初の議論には弁説の力がたいして感じられず、今後、発展する見込みすら見えなかった。・・・弁説力は日本人の天性に欠けているものであった。しかし、議論の主題は興味深いもので、発言者の意見は、日本の特質を学ぼうとする者にとって、非常に示唆に富んだものである」(岩波文庫『英国外交官の見た幕末維新』)。

明治政府の公議所開設にともなう意気込みと、それを評する欧米の外交官の見方との間には、無視することができないギャップがあります。このギャップが、日本の「国辱」であると受け止められていた不平等条約、治外法権撤廃と関税自主権回復をますます遅らせることになります。

「箕作麟祥が明治3年に・・・を「民権」と訳して、政府の民法編纂委員会に示したとき、「民に権があると云ふのは何の事だ」という委員がいて激論になったという話」(岩波日本近代思想大系『翻訳の思想』)があるそうですが、明治2年の公議所の議論の中で、「平民に権利を認める」という近代的な人権感覚が存在していたとは、とても認めがたいものがあります。

加藤弘蔵は、その著『国法汎論』でこのように訳しています。

「元来天賦ノ人性ニ出ル法論ハ、基イヲ天理ニ資ルガ故ニ、都テ今日ニ施シテ大ニ宜シキ所以ヲ説ク者アレドモ、未ダ此理ヲ以テ実ニ法タルニ足ルト為スベカラズ。都テ論及ノミニ由テ法ノ生ズル者ニアラザルナリ」。

加藤弘蔵は、フランス法を学びはじめたときから、「天賦人権論」が、自然法を根拠にした単なる法理論に過ぎず、実定法の内容ではないということを最初から知っていたのではないでしょうか。加藤弘蔵は、それを紹介したに過ぎず、彼自身の政治家・閣僚としての取るべき立場とはまったく逆なものであったような気がします。

加藤弘蔵の「非人穢多御廃止ノ議」に出てくる「外国交際ノ時・・・国辱」という表現は、「非人穢多」が、社会的に低位に置かれていることを漠然と国の恥と思った・・・というような意味合いではないと思います。

明治政府は、「穢多」を、直接的に「国辱」と断じたことは一度もなかったのではないかと思われます。明治政府が「国辱」と感じていたのは、治外法権撤廃と関税自主権回復のみです。「穢多」制度は、治外法権撤廃のための障碍とされたが故に、「穢多」は、間接的に「国辱」と受け止められるようになったのです。治外法権撤廃の障碍というのは、「拷問制度」と「宗教弾圧」のことです。幕末・明治初期において、「穢多・非人」はこの、「拷問制度」と「宗教弾圧」に深く関わっていたのです。近世幕藩体制下では当然の如く実施されていた「拷問制度」と「宗教弾圧」、それが、明治になって、諸外国から、そのふたつの制度を撤廃するよう、激しい要求をつきつけらるようになります。

加藤弘蔵が、「穢多非人」という表現とは異なる「非人穢多」という表現を使用するのは、単なる言葉の順序の錯誤ではないと思われます。加藤弘蔵のいう「非人穢多」は、「非人役穢多」のことではないかと思います。「穢多」は、その職務の内容によって、「非人役穢多」・「長吏役穢多」・「皮多役穢多」に別れますが、「拷問制度」と「宗教弾圧」に直接かかわりがあるのは、「非人役穢多」のみでした。

加藤弘蔵が、「非人穢多御廃止之議」で主張したのは、すべての「穢多」ではなく、「非人役穢多」のことではないかと思います。

長州藩の枝藩である徳山藩の記録の中には、明治4年の太政官布告第61号に先立って、「非人役穢多」の罷免が行われたことを想定させる史料があります。「拷問制度」と「宗教弾圧」に直接、かかわりのあった「非人役穢多」(徳山藩では穢多の区別なし)は、極秘裏に「転身」をさせられていったようです。明治4年の太政官布告61号は、「非人役穢多」(司法関係)・「皮多役穢多」(軍需産業関係)が、「穢多」身分から離れていったあとの、「長吏役穢多」(警察関係)を対象に出されたものではないかと思います。

「公議所」が明治2年7月に閉鎖された以降に、諸外国からの「拷問制度」と「宗教弾圧」撤廃の要求が一段と高まってきます。

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