2021/10/04

「地域的概念としての部落」の崩壊-野口説への批判

「地域的概念としての部落」の崩壊-野口説への批判 

幕藩体制下の「穢多」はどこに住んでいたのでしょうか。


「穢多村」と、「旧穢多村」・「特殊部落」・「未解放部落」・「被差別部落」の間には、それぞれの概念の外延(誰を構成要素としているか)の違いがあります。現代に近づけば近づくほど、その外延は「拡大」していく傾向にあります。拡大すればするほど、部落差別の問題がみえなくなってきます。

「穢多の在所」を論じる前に、「部落差別」から地理的要素、場所的要素を取り除いて、「部落」・「部落民」概念の再構成を提案している、大きな問題を孕んでいる、野口道彦氏の説を紹介しておきましょう。

野口道彦著『部落問題のパラダイム転換』という書物の中に、第1章1節、《「部落民」とは何か-どう概念規定するのか》という文章があります。彼は、現代の部落差別は「属地的要素」が希薄になってきたといいます。部落に住んでいるから部落民であるとも、部落に住んでいないから部落民でないとも言えない、「もともと、差別する側が恣意的に大した根拠もなしに部落民だとみなしているのだから、それを逆手にとって、その無根拠性を白日のもとにさらけ出したほうがよいだろう」といいます。現代では、誰が部落民か、その境界があいまいになっているのだから、「部落民概念は混乱させた方がよい」というのです。

彼は、属地的要素にこだわらないで、「部落民」という概念を拡大し、「部落民」という概念の外延を、「部落民とみなされ差別された人、あるいは差別される可能性を強く持っている人」まで拡大した方がよいというのです。「部落民とみなされ差別された人」の中には、「誤った身元調査に基づいて差別されていても、まったく本人は差別されていることに気づいていない」、そういう人も含まれるのです。隣近所のトラブルで、冗談で、「あいつは部落民だ」と流されたデマによっても「部落民」が創出されるというのです。彼は、更に、「部落差別を受けた体験を共有しうる人、差別に対する憤りや悔しさを共感できる人」をもその範疇に含めてしまいます。「部落民としてみなされ差別された人は部落民である」ともいうのです。

彼は、部落民でないのに部落民として差別されていることに気づいたら、間違われた人は、「そうだ。私が部落民だ。それがどうしたと切り返せる主体をつく」ればいいというのです。

彼のいう主体とは何なのでしょうか。

主体をあらわすひとつの言葉に、アイデンティティというのがあります。

アイデンティティは「同一性」という意味がありますが、過去・現在・未来において一貫して持つことができる立場や視座を指すといってもいいと思うのですが、このアイデンティティは二つあります。ひとつは、パーソナル・アイデンティティ、もうひとつはグループ・アイデンティティです。

パーソナル・アイデンティティは、例えば、ある人が、自分は過去においてこのように生きてきた、そして今もこのように生きている、これからも同じように生きていくのだと個人的に表現する場合がこれにあたります。自己の存在を時間の流れの中で、歴史の中で、一貫して維持しようと生きている状況をいいます。

グループ・アイデンティティは、自分が帰属する集団や共同体の一員として、「昨日、私は部落民として生きてきた、そして今日も、部落民として生きている、明日も部落民として生きるのだ」と、他の集団や共同体に所属する人と、共有理念を持って生きていく状況をさします。

パーソナル・アイデンティティとグループ・アイデンティティの両方を持ち合わせたとき、私たちは、自己の主体を確立できます。

「部落民でないのに部落民として差別されていることに気づいたら、間違われた人は、「そうだ。私が部落民だ。それがどうしたと切り返せる主体をつく」ればいいという、野口の理論は、民衆が持っている潜在的な能力、自分の「物語」を語る能力と意義を無視しています。昨日、今日と生きてきて、そして、ちょっとした人生の誤解やいたずらで、明日、なぜ部落民として生きなければならないのか。野口の理論は、桜の木に梅の花を咲かせるようなものです。そんなことできるはずもないのです。

部落差別の真の解決には、「部落」・「部落民」という概念をあいまいにしないことです。明治以降の差別問題は、その概念をあいまいにしてきたからこそ、問題が複雑化し混乱して収拾がつかなくなっているのですから、権力者や政治家、学者や教育者がまずなすべきことは、「部落」・「部落民」概念を定義して、その外延を縮減する方向で行うべきではないのでしょうか。

野口は、「部落民」は、「客観的な定義が不可能な言葉である」といって、その定義を放棄します。また、「差別される対象は、差別者の恣意により、融通無碍に広がるのであるから、あらかじめ客観的に範囲を確定できるものではない」と、「部落」・「部落民」概念の内包と外延をあいまいなままに放置しようとします。そして、「部落民」の所在を示す「部落」という概念を放棄して、新しい概念として、「被差別市民」という概念を導入しようとします。
野口の理論は、日本の社会が持っている部落差別の構造を容認し、現在時点での差別・被差別の線引きを引き直し、部落民の外延を拡大した上で、あらたな部落民(被差別市民)に運動を引き継がせる、このことで、被差別部落やその運動団体、彼らによる部落解放運動の継続を大前提に、それを学者として理論付けしようとしているように思われます。

野口が「差別する側の恣意性」を前提とするとき、その「恣意性」を最大限に利用するのは、国家であったり、地方行政であったりするのではないでしょうか。民衆が、民衆自身のアイデンティティを無視され、桜の木に梅の花を咲かせるような無理難題がまかり通るところでは、権力や国家による「恣意性」を許容する道を開くことにつながるのは必定でしょう。

こういう言葉が正確かどうかはわかりませんが、野口の理論・思想は、ファシズム的であると思われます。ないしは、ファシズムに大きく道を開け放つ理論・思想であると言えます。

野口は、本の最後の方で、アイデンティティを取り上げ、「部落民としてのアイデンティティは、結局のところ解放の戦略として「身元隠し」を選ぶのか、それとも「誇りの戦略」を選ぶのかをめぐる自分探しであり、他者に対しての自己掲示である」と。野口は、他にも、「差別のない社会システムをどのように構築するのか、未来社会への豊かな想像力があれば、さまざまな「解放の戦略」が構想されるであろう。しかし、長い時代に渡って社会から、負の意味付けをされてきた「部落」や「部落民」というシンボルを、どのようにとらえ、どのように対処していくのかという点にしぼって議論すれば、結局のところ、「身元隠し戦略」か「誇りの戦略」か、この二つ以外にはない」と力説します。

野口の言葉は、部落差別の厚い壁を前に呻吟し、絶望し、その壁を乗り越えることができないと悟ったときに、自分の中に、ありもしない幻想、自分のための「宗教」のようなものを作って、自分でその「宗教」を盲信し、その中に埋没してしまってる、あるいは自己陶酔に陥っているような感じがあります。

私は、野口があまり重点を置いていない、「差別のない社会システムをどのように構築するのか」という立場にたってこの論文を書こうとしています。部落差別は、自然発生的に生じた社会現象でも文化現象でもありません。部落差別は、権力と民衆、支配と被支配の脈絡の中で、意図的に政治的に作り出されてきたものです。各時代の、社会システム、政治システム、法システムの中に、部落差別問題を位置づけてこそ、部落差別の本当の姿を解明でき、部落差別解消につながるのではないかと思います。「未来社会への豊かな想像力」は、「過去社会」への豊かな想像力、現象ではなくシステムとして認識・把握することができる洞察力を持つことによって、必然的に開かれてくると思います。過去のシステムを解明できずにいる、また解明しようとしないから、明日の、差別なき社会の展望を持つことができないのではないかと思います。

江戸時代の穢多は、パーソナル・アイデンティティの面からしても、グループ・アイデンティティの面からしても、「昨日穢多であった、今日も穢多である、明日も穢多であり続ける・・・」、そう信じて生きていた「穢多」を部落学固有の研究対象にしていますが、幕藩体制下の社会・政治・法システムの中に「穢多」を位置づけてとらえ直すとき、はじめて、部落差別問題の完全解消につながる道が開けてくるのではないかと思っています。穢多の在所に関する考察は、「穢多」の本質や、近代以降の「旧穢多」・「特殊部落」・「未解放部落」・「被差別部落」を把握する上で、極めて重要な意味をもっています。

0 件のコメント:

コメントを投稿

『部落学序説』関連ブログ群を再掲・・・

Nothing is unclean in itself, but it is unclean for anyone who thinks it unclean.(NSRV)  それ自身穢れているものは何もない。穢れていると思っている人にとってだけ穢れている(英訳聖書)。 200...