2021/10/03

武士と穢多の同質性

武士と穢多の同質性


『部落学序説』では、「穢多」を「非常・民」として定義してきました。これは、「穢多」の役務と家職について考察するとき、同じ「非常・民」である「武士」の役務と家職を同じ類型で考察できる可能性を開きます。

藩士は、藩主に命を賭して仕える代償として、藩主から「領地」(知行地)を与えられます。磯田道史著『武士の家計簿 「加賀藩御算用者」の幕末維新』によると、藩士にとって、知行地は実体のあるものではないといいます。

「その土地に住むわけでもなければ、見学にいくわけでもない。・・・武士は知行の保有にこだわりながら、自分の知行地を一度も見ることなく死ぬ場合が珍しくなかった」といいます。「武士は城下に屋敷を拝領し、そこに常駐することが義務づけられ、許可なく農村に立ち入るわけにはいかなかった・・・」そうです。城下の武士は、「城下町のなかに監禁された状態」で、城下を少しでも出ようものなら、「目付が厳しく咎める」藩もあったそうです。

「幕末の水戸藩の下級武士の家に生まれ育った母・千世の思い出をもとに、武士の家庭と女性の日常の暮らしをいきいきと描き出した庶民生活誌」(文・芳賀徹)である山川菊栄著・『武家の女性』の中にもこのような記録があります。山川菊枝は、民俗学者の柳田門下のひとりですが、女性の目から見た「武士」の世界は面白いものがあります。

山川はこのようにいいます。中世にあっては、「武士は、土着の地主で、農業と農民を基礎にして軍事的活動に従事したもので、つまり兵農を兼ねていたのですが、武士が土と絶縁して城下町に住み、一定の俸祿によって生活する江戸時代になると、現代の俸給生活者と類似のものになってきました。・・・夫婦に子供きりの下級武士の単純な小さな家庭には、今日の都会の俸給生活者の家庭と大差のないものが多かったようです」と言われます。

藩士に与えられた「領地」というのは、藩士に対する給付の算定基準でしかなく、藩士は、藩の役人が算出して、当時の「税金」を差し引いた結果だけを給付として受け取っていました。

藩士の給付から天引きされる当時の「税金」はかなり過酷なものであったようです。徳山藩において、百石取りの武士の場合、百石まるまる給付されるのではなく、相当部分を「税金」として天引きされます。実際の手取額は、29石にしかなりません。それだけでなく、藩主に対する「御馳走米」として「禄税」を徴収されますので、結局、各種「税金」を天引きされたあとの手取給付額は、26石にしかなりません。徳山藩士の場合、百石取りの武士の実際の収入は、4分の1強にしかなりません。

徳山藩の家老・用人などの要職を除いた「一般士分」の中で最も石高の多かったのは、「馬廻」役の藩士たちでした。彼らは、「戦陣に臨んで藩主の馬側に随従するもので、一般士分の最高の階級」(『徳山市誌』)であったそうです。約150人に対して、50石から250石未満までの禄高が支給されます。120石以上支給されるものは、27人のみで、あとの123人は、120石以下ということになります。「一般士分の最高の階級」で、実際の手取りは、13石から31石の間ということになります。

徳山藩の「家中諸法度定」によると、武士に対しても、様々な規制がかけられていたようです。

①幕府の法令を堅く守ること。
②切支丹宗は手がたくとりしまること。
③五人組として互いにせんさくすべきこと。
④諸士は常々文武を怠りなく心がけること。
⑤分限相応の武具・兵馬をととのえること(忠義とみなされる)。
⑥諸士は次男・三男に至るまで勝手に他国に出てはならない。
⑦他国への書状には、留守居家老の連署を要する。
⑧参勤交代に服務すること。
⑨書士の公事訴訟は家老に申し出ること。
⑩縁組は50石以上の士は藩主の承認、30石以下は家老の許可を必要とする。
⑪他国へ無断で出行してはならない。
⑫浪人を抱えてはならない。
⑬諸士間のふるまいは一汁三菜に限る。
⑭年末・年始の贈答は禁止。
⑮諸士は町人・百姓と契約をしてはならない。
⑯役儀を命ぜられた場合の辞退は原則として認めない。
⑰愁訴嘆願はたとえ理があっても上司を通すこと。
⑱外出の場合は袴を着用のこと。
⑲諸士は平素綿服を着用すること。他国からの来客があるときは、分限相応に取り繕うこと。
⑳50石以下の妻子は、絹布は一切禁止。
その他、藩の上司の批判をしてはならないとか、徒党を組んでならないとか、先例を引いての愁訴嘆願の禁止があげられている。

上記の「家中諸法度定」は、長州藩の支藩である徳山藩における「武士の統制に関する基本法」の内容です。

「百姓」の末裔の眼から見ると、近世幕藩体制下の武士階級は、随分、「差別的な状況」に置かれていたものだと驚きの思いを持ちます。「穢多・非人」に対する規制と勝るとも劣らない規制がかけられています。

藩士は、不平不満があっても、決して、口に出してはいけなかったようです。
上司からどんなに不利益な要求をつきつけられても、涙を飲んで従わなければならなかったのでしょう。

中村豊秀著『幕末武士の失業と再就職紀州藩田辺詰与力騒動一件』によると、「士・農・工・商、とはっきりした身分差のある時代に、武士がいったんその禄を離れて浪人するということは、武士の身分からも離れてしまうことになり、その身分差には耐え難いものがある。それまで、四民の最上位にあって威張っていられたものが、一朝にして一般町人なみに落ちるのだから、大きなギャップが生まれてくる。そうして、そこに、さまざまの悲喜劇が起こって世の語りぐさにもなった。少ない例を除いて、武士が浪人するというのは「罪人」になることに外ならない」そうです。

浪人になるよりは、上司の無理難題に黙って従った方が得策・・・と、考えていたのかどうかは知りませんが、武士は、「百姓一揆」に相当するものは起こしませんでした。山川は、水戸藩1000人の武士の中、70%の700人の武士は100石以下で「泣き暮らし」を強いられていたといいます。「100石以下の平士は内職を許されていましたし、禄だけでは生活ができないので、家族も、無役の人は当主までもいろいろの内職をしました。それ以下の同心(足軽)ともなれば、半農半工、田畑も作り、内職もして、かろうじて暮らしたのでした。」といいます。藩士の家族も不況のときは、「琴や生花、茶の湯等を禁ぜられた」といいます。

徳山藩の場合、1000人の武士の中、95%の武士が100石以下の「泣き暮らし」でした。75%の武士が25石以下(税引き後7.5石)でした。60%の「士雇」(さむらいやとい)の層は13石以下(税引き後3.7石)でした。与力・同心・検断・穢多・非人は、「内職」をしないと食べていけない現実がありました。

「上みて暮らすな下みて暮らせ」という諺は、百姓の世界というより、武士の世界の言葉であったような気がします。幕末期、江戸の大旅館・池田屋の娘(のちに樋口一葉の師になる)に好きになられた水戸藩士・林中左衞門は、「なにぶん、池田やといえば江戸で知られた大家のこと、こちらは田舎の貧乏侍、釣り合わぬ縁・・・御辞退申す」といって断ったといいます(『武家の女性』)。若き水戸藩士が、「士農工商」という身分制度を持ち出さなかったところをみると、「士農工商」はますます近世幕藩体制下の身分制度を表現する言葉としては相応しくないことばになります。

浪人は、1人年間3両で雇われましたが、石高にすると手取り2.4石にあたります。

これは、近世幕藩体制下の各種「職人」の年収に匹敵します。そして、穢多・非人の年収にあたります。近世幕藩体制下の数パーセントの「非常・民」を除いて、ほとんどの人は、就いている職業の違いはあれ、その年収はほぼ同じであったようです。

『国史上の社会問題』の著者・三浦周行は、「幕府の初期からして浪人・・・の取締りは、行政上の二大難関であった。・・・幕府から何らの権利を保障されぬ代わりにまた義務もないから至って無責任・無頓着であって・・・ともすれば異図を企てて秩序を破壊し、平和を攪乱するような言論行動を敢えてした」といいます。

給付なければ服従なし・・・ということなのでしょうか。

近世幕藩体制下の「非常・民」である武士は、藩士であることを取り上げられて浪人になるとき、藩の命令に服従する必要はなくなりました。同じ、幕藩体制下のもうひとつの非常民である、近世司法・警察の「穢多・非人」は、その「家職」をとりあげられるとき、藩権力に服従する必要があるのでしょうか。近世幕藩体制下の「判例」によると、意外なことに、「服従する必要はない」のです。「武士」と「穢多・非人」は、同じ「非常民」として、その身分上の処遇に多くの共通点があるようです(次頁に続きます)。

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