2021/10/03

法の番人としての穢多

法の番人としての穢多


『部落学序説』の書き下ろしをはじめた日、筆者のこころの中にあったのは、『部落学序説』を新書版1冊程度にまとめることでした。

しかし、十分な説明をするためには、その枠を固守することはできず、次第に文書量が増えてしまいました。すでに、新書版3冊程度の長さです。そして、やっと3章の終りに近づきつつあります。

当初、1章から3章までを、近世幕藩体制下の「穢多」の解明にあて、それを前提にして、4章から6章まで、明治以降の「旧穢多」のたどった歴史を明らかにするつもりでいました。その論文の章立てを変更する予定はなかったのですが、結果からみると、かなり章・節・項の配置を変更したようです。

第1章 部落学の研究対象
第2章 部落学の研究方法
第3章 穢多の定義

第3章においては、「穢多」の属性を明らかにするために、多方面に渡って、話題を展開してきました。筆者の得意とする分野もあれば、逆に苦手とする分野もありましたが、できる限り、多角的な視点から、穢多の属性を検証してきました。

そして、この『部落学序説』が提唱する、「非常民」の学としての部落学を構築する過程において、従来の部落研究・部落問題研究・部落史研究の、未解決の問題にかなり光をあて、その問題の解明に貢献してきたのではないかと思います。

「穢多・非人」に関する考察は、従来の部落史研究者が、暗黙の前提として受け入れ、継承してきた「賤民史観」を放棄しても、部落史研究そのものに大きな影響はないことも明らかになったと思われます。

むしろ、日本の歴史学の差別思想である「賤民史観」に固守すればするほど、部落史研究は、部落差別完全解消という科学の社会的課題から遠ざかってしまいます。それどころか、差別の拡大再生産という「差別行為」に連座するようになってしまいます。

第3章を閉じるにあたって、書き残してきたことについて2、3触れておかなければなりません。「穢多」概念の定義は、「外延」と「内包」を明らかにすることによって達成されます。「穢多」が身分概念であるため、その「内包」は、必然的に「役務」と「家職」の両属性をともないます。

しかし、この第3章では、外延と内包の一部「役務」のみを取り上げ、「家職」の方は直接とりあげることはしませんでした。

最近の部落研究・部落問題研究・部落史研究は、どちらかいうと、政治起源説から文化起源説に移行していくような傾向があります。

『身分差別社会の真実』(斉藤洋一・大石慎三郎著、講談社現代新書)にこのような言葉があります。

「これまでは、部落差別は政治権力がつくったものとする見方が有力だったが、そのように考えているかぎり差別をなくすことはできないのではないか。差別は、私たちみんなでつくり、維持してきた、いいかえれば私たち一人ひとりの問題としてとらえ、なくしていこうとしないかぎり、差別をなくすことはできないのではないか・・・」。

筆者は、斉藤・大石両者に、異を唱えざるを得ません。「部落差別は政治権力がつくったもの」という歴史的な事実は、今日に至るも、歴然とわれわれの前に存在しているからです。「部落差別は政治権力がつくったもの」という政治起源説的な考え方が、部落差別完全解消につながらなかったというのは、ひとえに部落史研究者の歴史学的方法論が間違っていたためではないかと筆者は考えています。

筆者は、文化起源説に逃げることなく、政治起源説に踏みとどまって、この『部落学序説』を執筆しているのです。しかし、筆者は、文化起源説に立っている学者や研究者が、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」の「家職」に関する研究分野で多大な貢献をしてきたことを知らないわけではありません。「穢多・非人」の「家職」は、同じ下級武士の「家職」とくらべて、その職分の範囲は広く専門的で、決して、下級武士の太刀打ちできる類のものではありません。「非常民」としての「御役」を割り当てられなかった「穢多・非人」は、家の経済的安定のため様々な「家職」に従事したものと思われます。それはそれで解明する必要があります。

しかし、「穢多・非人」が「穢多・非人」であるのは、その「家職」というより、その「役務」にあります。この『部落学序説』では、「家職」ではなく、「役務」に集中して、「穢多」とは何であったかを解明してきました。

明治政府は、明治4年の太政官布告で、穢多等の「身分・職業」の封建的拘束を解きます。この表現は非常に微妙なニュアンスをうちに秘めています。「身分・職業」は自由、しかし、「身分・役務」はどうなったのでしょうか。「穢多」の「家職」から自由になっても、「穢多」の「役務」からの自由は保証されなかったのではないか・・・、筆者にはそのように思われるのです。「穢多」の「家職」については、『部落学序説』後半(第4章)で、要点のみとりあげることにします。

そして、言い残していることに、「渋染一揆」と「百姓一揆」の問題があります。どちらも「一揆」という表現が用いられていますが、筆者は、「渋染一揆」は、一揆ではないと考えています。なぜなら、「百姓一揆」が、鍬や鋤を持って示威行動・破壊活動に走るのにくらべて、通称「渋染一揆」は、一揆に必然的にともなう示威行動・破壊活動はともないませんでした。その違いは、どこから出てきたのか・・・。

筆者は、「穢多」が、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」であったためであると考えています。「常民」である百姓の一揆の矛先が藩権力である、藩の軍事・警察である「非常民」であるのに比して、「渋染一揆」のそれは、「非常民」による「非常民」に対する嘆願という形式を貫いています。

筆者は、そのことが、「渋染一揆」の問題を誤認させる大きな原因になっていると考えています。

「渋染一揆」とは何だったのか。

歴史学者のその問いに対して提示する答えは、実に、漠然としたものです。『部落の歴史と解放理論』の著者・井上清は、「渋染一揆」の背景について、「部落民の生活が農民化しつつあること」を強調します。しかし、「渋染一揆」の中に、「非常民」の「常民」化の傾向はないように思われます。むしろ、「渋染一揆」は、井上の期待するところと大きく違って、「非常民」が「非常民」であるための、「穢多」が「穢多」でありつづけるためのたたかいではなかったかと考えています。「渋染一揆」は、「穢多」の例外的な法的逸脱であると思われます。

『部落史の見方考え方』の著者・寺木伸明は、「渋染一揆-差別に対する怒りと闘い」と表現しますが、寺木だけでなく、「渋染一揆」を「身分差別強化政策」の抵抗としてとらえる研究者や教育者は多いのです。その理由に、「部落民の衣服を特定のものに固定することによって、一見すれば被差別身分であることを判然とさせ」ることをとりあげます(『部落解放史』解放出版社)。

被差別身分であることを判然とさせる・・・。

何故に・・・。

多くの部落史研究者や教育者は、この問いに対して何の答えも発していないのです。

『部落学序説』第3章の最後、9節で、「渋染一揆と百姓一揆」を取り上げたいと思います。『部落学序説』前半の近世から、『部落学序説』後半の近代・現代に入っていきたいと思います。「渋染一揆」は、近世と近代・現代のはざ間で起きた、いわば時代の流れの分水嶺にあたります。

『部落学序説』後半は以下のように展開されます。

第4章 解放令批判
第5章 水平社宣言批判
第6章 同対審答申批判

今後とも、ブログ『部落学序説』、ご愛読のほど、よろしくお願い申し上げます。筆者・吉田向学。

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