2021/10/05

部落学序説の視点・視角・視座・・・

部落学序説の視点・視角・視座


「研究者」の削除要求もあって、まえがきがずいぶん長くなってしまいました。

『部落学序説』の執筆を継続するにあたって、「部落学」の対象である「被差別部落」を、筆者がどのような、視点・視角・視座から追求しているか、それを明らかにすることはあながち無意味なことではないでしょう。

私は、意図的に、江戸時代の「百姓」身分から「穢多」身分を見直す作業を遂行することになります。

従来の部落研究、部落問題研究、部落史研究は、「武士」身分から「穢多」を見たものが多いと思われます。「百姓」身分から見た「穢多」身分の姿は、史料や文献はそんなに多くはありません。「百姓」文書の中には、「穢多」に関する差別的なものを見いだすことはかなり難しいと思われます。最近、「庄屋文書」に関する史料の発掘や、それに関する研究が数多く発表されていますので、「百姓」の目から見た「穢多」の姿(歴史の実像)は、ますます明らかになってくることでしょう。

従来の、「武士」身分から「穢多」身分を見たときの、「穢多」の姿は、限りなく賤しい(身分の低い)民に見えるようです。近世幕藩体制下の身分制度の上部を構成している「藩士」階級の、その下部を構成している「士雇」(さむらいやとい)・「穢多・非人」階級にむけた蔑視・差別を示す史料や文献は決してすくなくありません。「藩士」階級の所属する「武士」の中にある階級的奢りは、「士雇」(中間・足軽)・「穢多・非人」身分を「穢多」視する傾向が強いのです。

『部落学序説』は、それを批判検証し、「穢多・非人」身分を見る新しい、本源的な視座を追求します。

『部落学序説』の執筆を継続するに際して、避けて通ることができないのが、「被差別部落」に関する資料(史料や伝承)等の取り扱い方です。

部落学が、単なる観念の遊びではなく、学問の新しい領域として成立するためには、歴史学・社会学・民俗学等と同じように、研究対象を具体的に取り上げなければなりません。具体的に取り上げて論証するためには、「被差別部落」の地名・人名を取り上げ、場合によっては、それらが記載された史料や論文を引用することになります。

しかし、33年間・15兆円という途方もない年数と費用を用いて、同和対策事業が展開されてきたにもかかわらず、部落差別はまだ解消してはいません。同対審答申でいう「実態的差別」は相当の成果をあげたにしろ、「心理的差別」はいまだに根強く存在しているという現実があります。不完全なまま終わった、同和対策や同和教育の現状を踏まえると、被差別部落の地名・人名を軽々しくあげつらうことはできません。また、たとえ、歴史的な史料や文献を引用する場合でも、不用意に実名を引用することはできないと考えられます。

筆者は、幾多の試行錯誤の上、江戸時代の「穢多村」や明治以降の「被差別部落」の地名を表現するときには、「絶対座標」ではなく「相対座標」を用いることにしました。

絶対座標というのは、江戸時代の「穢多村」の名前をそのまま用いることです。明治以降の相次ぐ地方行政改革で、統廃合が繰り返されている関係でかなりな地名が失われている現実がありますが、それでも、残された地名の中に何らかの関連性を持っている場合が多々見られます。

筆者の論文では、「絶対座標」は一度も使用しません。

山口県で長い間、本格的に同和問題に取り組んできた方々なら、このまえがきで触れた「被差別部落」や浄土真宗寺院がどこにあるのか、推定することは容易かもしれませんが、それだけの知識を持っているひとが、差別的暴挙にでるとは考えにくいと思われます(学者・研究者・教育者に対する筆者の淡い期待なのかもしれませんが・・・)。

かと言って、多くの研究者がするように、□□とか、○○、△△・・・の伏せ字を用いたり、ABC・・・という記号を用いて表現する場合は、論文を読むときに目障りになるし、記号の使い分けをいつも念頭にいれなければならなくなり読者の思考を乱すことになります。

そこで、考えついたのが、「相対座標」ですが、相対座標の例をあげるとこのようになります。

たとえば、長州藩には、いくつかの支藩・枝藩があります。長門の国という半島の奥深いところに追いやられた毛利は、山陽道にその出口を見いだそうといくつかの支藩・枝藩を作りました。周防の国には、徳山藩と岩国藩が置かれました。徳山藩を例にとると、城下に、四カ所、「穢多村」を配置しました。その「穢多村」の名前は、それぞれ、現在の地名に引き継がれています。

そこで、徳山藩の「穢多村」を名前をあげて言及するときには、四カ所の名前を、「徳山藩東穢多村」・「徳山藩西穢多村」・「徳山藩南穢多村」・「徳山藩北穢多村」と、東西南北の相対的位置で表現することにしました。そのことは、すでに、「表記規則」で述べた通りですが、「被差別部落」の当事者や部落史の研究家は、私の論文を見て、それが歴史的な正しい記述であるかどうか、持ち前の知識で確認することができるでしょうし、私の論文を読んでくださる一般の方は、必要以上の知識を提供されることで、煩わされずに、論文の内容に入っていただけるのではないかと思っています。

私が読者の方に伝えたいのは、被差別に置かれた方々の「事実」ではなく「真実」だからです。

ただ、被差別部落の人が、社会同和教育で一般の人を対象に公表した講演や文章、被差別部落出身の著述家が出版した小説や論文などの地名・人名については、部落差別の助長につながらないように、それ相応の対策がなされているものとして引用する場合があります。山口県光市の「被差別部落」出身の丸岡忠雄や村崎義正がいのちをかけて語りつたえたものを「匿名」でとりあげることは、行き過ぎであり、彼らの対して失礼になると思います。

しかし、その場合も、「被差別部落」出身者が、必ずしも「被差別部落」出身者の、「時間」と「空間」を越えてよき理解者であるという保証は何もないわけですから、筆者の立場から、著者の承諾なくして、「絶対座標」を「相対座標」に置き換えて引用する場合もあります。

最後に、筆者が提示する「相対座標」をてがかりに、「絶対座標」にたどり着く可能性ですが、多くの場合は不可能であると考えられます。

筆者が、調査のために通った徳山市立図書館の館長と司書の方々は、「仁王門の金剛像」のように、恐ろしい形相で、図書館の史料や蔵書が差別のために悪用されないように立ちはだかっているからです。場合によっては、山口県立文書館の研究員から、何のために調査しているのか、厳しい追求を受けることになります(筆者も一度経験があります)。仁王門をくぐり抜けるには、部落差別を本当に解消したいという熱い思いと誠実な姿勢、彼らを納得させるだけの知識と技量が必要となります。

この仁王門、学者や教育者、被差別部落の当事者ですら、簡単には通り過ぎることはできません。たとえ通りすぎたとしても、今度は、郷土史料室の膨大な史料や論文を読み取る時間と力がなければ、「仁王門の金剛像」の前でただ挫折と敗北を経験することになるでしょう。郷土史料室の史料・資料は、ときどき、倉庫の史料・資料と置き換えられているようなので、あるときは閲覧できても、あるときは閲覧できない・・・という場合もあります。

見つけた資料を複写してもらう段階なると、さらにチェックがかかりますので、部落差別に直結するような資料の複写請求はほとんどできない・・・、という壁に直面します。

「相対座標」を用いるよりもっといい方法があれば、この部落学序説を読んでくださる皆様からのご教示とご指導をお願いしたいと思います。

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※山口県の部落解放同盟の関係者の方から、「被差別部落の人々が触れてほしくないと思っていることがらに臆面もなく触れておきながら、地名・人名を実名表記しないのは、『部落学序説』が抱えている論理的矛盾であるという指摘がありましたが、筆者は、矛盾しているとは考えていません。この『部落学序説』は、部落差別完全解消という目的を持っていますが、その目的の実現のために、現在の社会を生きておられる「被差別部落」のひとびとを「手段」とみなしたり、「犠牲」に供したりする発想はありません。筆者は、『部落学序説』を、「テキスト」批判として遂行しており、部落解放同盟の方々のように「運動」・「運動論」から遂行しているわけではありません。山口県の部落解放同盟の関係者の方々の要望をみたしても、「被差別部落」の実名をさらしたことで、他の被差別部落の方々、運動団体、また他県の部落解放同盟からの批判を避けて通ることはできないでしょう。山口県の被差別部落の人名・地名の実名記載の論文は、筆者ではなく、部落解放同盟の方々が執筆すべきです。筆者は、いかなる意味でも、その代筆に関与することはありません。「差別(真)」の立場を自覚して、「被差別(偽)」(被差別者ではないのに、被差別者を擬態して、被差別者として発言する・・・、筆者は、それを、精神的似非同和行為と呼びます)の立場に転落することを極力排除します。

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