2021/10/03

「村」と「部落」と「古老」

 「村」と「部落」と「古老」

『家郷の訓』の中に、宮本常一がなぜ、民俗学をこころざすことになったのか、その動機についての話がでてきます。

宮本は、小学校の教師をしていたそうですが、教師としての歳月を積み重ねていくうちに、ある「苦悩」に陥ります。

その苦悩というのは、「学校の教育と家郷の躾の間にともすれば食違いを生じ、それが教育効果を著しくそいでいることを知った」ことに端を発します。

宮本の目からめると、近代的な「学校の教育」は、日本の村里社会に伝統的に受け継がれてきた、村の生活に密着した教育(躾)を破壊し、破壊することによって、こどもたちの精神に悪影響を与えていると分析されたのです。

どうしたら、「学校の教育」と「家郷の躾」を調整し、共存させることができるのか、宮本は、「苦悩」しますが、その「苦悩の解決」法として、宮本が依拠したのが「民俗学」でした。宮本は、「民俗学という学問を、趣味としてではなく痛切な必要感から学びはじめた・・・」といいます。

しかし、宮本は、民俗学から学び得たことを、教育現場に還元することができなくて、「教壇をすてて学問に専心」するようになってしまいます。

その『家郷の訓』(かきょうのおしえ)の中に、「村」・「部落」に住む「古老」の話が出てきます。

「古老」というのは、『広辞苑』では、「昔からの事に通じている老人」を意味します。

筆者が『部落学序説』を執筆する動機になったのは、山口県北の寒村にある、ある被差別部落の古老との出会いでしたが、その古老は、その被差別部落の歴史、近世幕藩体制下300年間の先祖の歴史を語り伝えていました。昔のことに精通している・・・、そんな「古老」が、日本全国に多々存在しているのです。

筆者が尋ねた被差別部落の古老は「県北」に住み、民俗学者・宮本常一は、「県南」に住んでいたのですが、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」の配置形態からみると、「山の奥」と「海の島」との間には、類似点が存在しています。それは、いずれも、「非常民」の中の「茶筅」と言われる身分の人々が配置されているからです。山と海の違いはあっても、「村」の存在形式は非常に似通ったところがあります。

「古老」が語り伝えるもの、それを「伝承」といいますが、この「伝承」は、日本の歴史学者の間では、あまり評価されることがありませんでした。日本の歴史学は、支配者・権力者の側にたって、民衆支配の道具として構築されてきたところがありますので、被支配者・被権力者である民衆の証言や「伝承」はいつも過少評価されていたのです。

宮本は、「古老」の語る言葉に耳を傾けることで、このように考えるようになったというのです。

「その話を聞いていてつくづくと感じたことは、古老というものが単に自分の家に関することをのみ伝承しようとしているのではなくて、村全般の家々について語り伝えようとする態度であった。そして聞いてくれるものがなければだまって死んで行く・・・」。

この宮本の言葉から、筆者は、こころ開かれる思いがするのです。

『部落学序説』執筆の動機となった、山口県北の寒村にある、ある被差別部落の古老とのであい、その古老が話してくれた「伝承」は、決して、その「古老」の個人的な証言ではなくて、その背後に、「古老」が生きてきた、被差別部落の歴史と伝承があると・・・。その古老の語る話の内容は、先祖たちによって、子々孫々語り伝えられてきた伝承なのです。

それと、山口県北の寒村にある、ある被差別部落の古老の話では、「話を聞きたいと尋ねて下さる方はほとんどいない」ということでした。もし、私たちが聞き取り調査に立ち寄らなければ、その古老の語る「伝承」は、むらびとと家族以外には、外に漏れることなく、「聞いてくれるものがなければだまって死んで行く・・・」状態になったかも知れません。出会いの不思議さから、筆者は、その古老の語る言葉を耳にする恩恵に浴したのです。

山口県北の寒村にある、ある被差別部落の古老とのであいを大切にしなければ・・・、筆者は、ことあるごとにそう自分に言い聞かせてきました。

前にも述べましたが、その古老の姿は、とても印象的でした。なぜなら、おばあさんは、私たちと向かい合って話をしてくれましたが、おじいさんは、最初から最後まで、私たちに背を向けて座り、「見ず知らずの人にそのような話をすべきではない」とほとんど沈黙を守り続けておられました。おばあさんとおじいさんの姿の違いに強烈な印象を受けたのですが、それが、どこからくるのかわからないでいました。

私は、民俗学の祖・柳田国男の教えに従って、わからないことは、わかるまで、じっとこころに温め続けることにしています。

おばあさんは、私たちに、その被差別部落の歴史を語りかけ、おじいさんは、沈黙を守る・・・、その姿勢の違いがどこから出てくるのか、筆者は、宮本常一著・『家郷の訓』の中で、その理由と思われるものを見付けました。そして、疑問が氷解していきました。

宮本は、「そのつつましい記憶が、古老の死と共に近来実に夥しく亡びていった。ほろびていってもそれは今の時勢には必要の少ないことだから、それでよかったのだと言えばそれまでの話だが、そのために後来の者が困惑を覚えた・・・」といいます。

「そうした中にあって女だけは自分の守るべきことをだまって守っていた。世間が新しい方へ向かっても、家の他の者が何一つ古いことを守ろうとしなくても、自分だけは家を大切にし祖先の意志を子に伝えようとしていた」。

宮本は、それを、「実に尊いもの」と評します。

宮本は、「聞いてくれるものがなければだまって死んで行く・・・」村の古老から、失われていく「伝承」の中に、人間としてかけがえのない価値を見いだしたのでしょう。

宮本は、このようにいいます。彼等は、「土地にこもる先祖の魂に殉じようとしている」。そしてこう続けるのです。「全国の農村を歩いて・・・同様な女たちの姿を見た。無学であるとか、社会の表面にたち得ないからと言って、これを無知に帰してはならない」と。

宮本は、時の流れを越えて受け継がれてきた「家郷の訓」を、過少評価し、あるいは、否定してきたのは、明治以降の近代・現代の「学校の教育」であるといいます。「師範学校出身の先生」は、師範学校でならなった、新しい教育理念をふりかざし、村の伝統的な生活・教育に批判を加えたといいます。そして、思い上がった教師によって、「家庭教育者としての母親の権威」は、「一概に旧弊としてつきくずさ」れたといいます。

宮本は、自分のこどもの頃の体験を思い出して、「今思っても誠に申し訳ないのであるが、私もある時期に母の言を斥け、母の言に軽蔑に近い気持ちをもったことさえあった」と後悔の思いを綴っています。宮本は、「これではならぬのである」といいます。

日本の近代教育は、戦前・戦後を通じて、「家郷の躾」を民衆の手から、村人の手から、母親の手から限りなく奪いとっていったのです。

最近、日本の社会では、青少年による犯罪が相次いでいます。そのとき、いつも問題になるのが、「母親によって子育てがきちんとされたかどうか・・・」ということです。マスコミもこぞってそこに焦点をあてます。「学校の教育」は問題がないけれど、「家郷の躾」に問題があったのではないのか・・・。現代の教育界に身を置いているものの弁としては、「何をかいわんや」です。「家郷の訓」を破壊し尽くしたのは、「学校の教育」ではなかったのか。それなのに、その失敗が、今日著しく噴出してくると、「学校の教育」に携わるものは、問題は「学校の教育」ではなく「家郷の躾」にあると強弁するのです。

民俗学の偉大さは、民衆の智恵や伝承に着目するところにあると、筆者は思うのです。

それにひきかえ、日本の歴史学は、「村」と「部落」と「古老」について、どのように評価するのでしょうか。

戦後の「部落史研究」の第一期に、北山茂夫・林屋辰三郎・奈良本辰也・藤谷俊雄と共に、「部落史研究」の基礎を築いた井上清は、どのように受け止めていたのでしょう(沖浦和光著『「部落史」論争を読み解く 戦後思想の流れの中で』)。

井上清はこのようにいいます。「今の部落の起源についての伝説に、平家の落人が住みついたとか、戦国時代や徳川初期につぶれた大名の家来たちが住みついたとかいうものが、各地にある。これは、部落差別がはげしくなった徳川中期以後に、部落の人たちが、自分の先祖はりっぱな武士であったということで、卑屈になるまいとしてつくられた話であろうが、浪人が流れ込んで、その部落の頭になったという場合もじっさいにあったろう」。

歴史学者・井上清の学問的前提として、「賤民史観」と「愚民論」があって、このような誤謬に満ちた結論に至っているのでしょう。

井上によると、民衆というのは、実におろかで、権力から差別・抑圧・排除を受けると、それに屈従して、ありもしない「幻想」(作り話)をつくりあげて、その中に埋没し、自分で自分をなぐさめるしか脳のない、あわれな存在・・・、でしかないのかも知れません。

『部落学序説』の筆者である私は、歴史学者・井上清の民衆(「百姓」・「穢多」の末裔)に向ける視線は、非常に、差別的な視線・まなざしであると思うのです。

歴史伝承には、どの伝承にも歴史的な「核」があります。その「核」に目を向けるのが、歴史学者の歴史的伝承に対して当然もつべき姿勢でしょう。それなのに、井上は、「部落の人たちが、自分の先祖はりっぱな武士であったということで、卑屈になるまいとしてつくられた話であろう」と、根拠を提示することなく、「推測」を読者に押しつけます。

歴史的叙述をする場合、すべてのことが史料で確認できるわけではありません。存在している史料と史料の間を「推測」という「解釈」で埋めなければならない場合も存在します。そのとき、「推測」は、歴史学者の恣意にゆだねるのではなく、「推測」に際しても、学問的手続きの徹底が要求されると、歴史学のしろうとである筆者はそう思うのです。

民俗学者・宮本常一が描き出す「古老」の姿と、歴史学者、しかも被差別部落の歴史学者である井上清が描き出す「古老」の姿との間には、恐るべき断絶があります。一方は、「古老」の語る伝承に耳を傾け、一方は、「古老」の語る伝承を「作り話」(虚構)として切り捨ててしまいます。そして切り捨てたあとに、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」を注入するのです。

山口県北の寒村にある、ある被差別部落の聞き取り調査にでかけたのは、私と「研究者」(高校の社会の教師)でした。その被差別部落の古老との出会い、そしてその証言をどのように受け止めたか、その違いは、民俗学者・宮本常一と歴史学者・井上清の間にある違いに相当します。十数年に渡って、その解釈をめぐって情報交換してきましたが、両者の間にある溝は克服することができませんでした。

筆者は、「穢多」という概念は、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」を指す「穢多」として、アドホック(間に合わせの言葉)、中国起源の漢字の意味にはその存在を規定されないと認識します。しかし、「研究者」は、「穢多」が、「穢れ多い」と表現されるのは、そう表現される必然的な現実があったからだと漢字の意味にこだわり「賤民史観」を固持します。

民俗学の祖・柳田国男は、「史心」の大切さをときます。「史心」は、歴史学の専門家(歴史学者や教育者)でなくても、身につけることができます。なぜなら、人間は歴史的存在であり、人生は歴史そのものだからです。生きるということは歴史を刻み続けるということですから、「史心」は、民衆の天性のようなものです。柳田国男がいう「史心」を、同じ民俗学者である、『家郷の訓』の著者・宮本常一は「史眼」といいます。宮本は、「古老」の中に、民衆の中に、「史眼」を見いだし、「愉快であった」と感激しています。

『部落学序説』筆者である私は、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」から被差別部落の歴史を解放するためには、民衆が、柳田国男のいう「史心」、宮本常一のいう「史眼」を、民衆の手に取り戻さなければならないと思います。

この『部落学序説』を読んでくださる読者の方々も、その気になれば、今日からでも、この「史心」・「史眼」を持つことができるのです。

被差別部落出身の方々にとっても、宮本常一著『家郷の訓』(かきょうのおしえ 岩波文庫)は、「史心」・「史眼」の教科書になりうると思われます。

33年間15兆円を費やして実施された同和対策事業・同和教育事業によって、被差別部落の中からも、「村」=「部落」が消滅していったのではないでしょうか。被差別部落の人々が住む「部落」は、もはや「村」=「部落」ではなくなってしまっている・・・、日本全国の被差別部落の中でそのようなうめきがあると、筆者は耳にしています。

『部落学序説』の筆者である私は、「差別」の側にあるひとも、「被差別」の側にある人も、共に、「村」=「部落」の意味を考え直すべきであると思っています。日本人は、「部落」否定の論理の中で、「村」=「部落」の持っている大切なものを失ってきたのではないかと思います。

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