2021/10/03

「部落」と「暴力団」に関する一考察 5 誤解された目明し金十郎

「部落」と「暴力団」に関する一考察

第5回 誤解された目明し金十郎・・・


東日本の「穢多」と「博奕」について、その実像を切り出すために使用する史料は、『守山藩御用留帳』です。

しかし、郡山市教育委員会所蔵のこの史料、筆者が読める状況にはありませんので、この『守山藩御用留帳』を解析してまとめられた、阿部善雄著『目明し金十郎の生涯』(中公新書)を通じて、そこに記された「穢多」と「博奕」について批判・検証していきたいと思います。

批判・検証に入る前に、『目明し金十郎の生涯』の著者・阿部善雄氏と、『部落学序説』の筆者との間にある視点・視角・視座の違いを明確にしておく必要がありそうです。

『目明し金十郎の生涯』には、「江戸時代庶民生活の実像」という副題がつけられれいますが、一方、筆者の『部落学序説』には、「非常民の学としての部落学構築を目指して」という副題がつけられています。この副題が、阿部善雄氏と筆者の視点・視角・視座の違いを如実に物語っています。

(1)

阿部善雄氏は、「目明し金十郎」を、守山藩の藩士ならざる身分に属する「やくざの顔役」として認識します。

彼は、金十郎を、「博徒でありながら、陣屋の御用を折りにふれて承るほど、陣屋との接近度が高くなっている者」で、「単なる顔役」とも違った、「やくざの顔役」にふさわしい人物であったと推定します。

阿部善雄氏は、なぜ、「目明し金十郎」を描くにあたって、そのような前提を設定したのか・・・、これは筆者の推定ですが、「通り者」ということばの恣意的な解釈に由来するのではないかと思われます。阿部善雄氏が、「通り者」を、「やくざたちに顔の通った者」として認識したことが、「目明し金十郎」の人物理解における誤解・曲解につながっていったのではないかと思われます。

「目明し金十郎」こと、吉田半左衛門を父として守山藩領内に生れた金十郎は、享保年(1724)守山藩陣屋の「取り締まり御用を勤める通り者役」として12年、元文3年(1738)からは、守山藩陣屋の「正目明」として32年間目明しを勤めたといいます。金十郎は、陣屋の「警察権の一部を託されて」、実に46年の長きに渡ってその職務をまっとうしたというのですから、彼は、筋金入りの目明しだったのでしょう。

その金十郎を、阿部善雄氏は、「通り者」ということばをキーワードに、「やくざたちに顔の<通った者>」という意味と、「取り締まり御用を勤める<通り者>役」という意味の、二重の意味に解釈するのです。

金十郎の表の顔は、守山藩陣屋の「目明し」であったが、裏の顔は、「やくざの顔役」であったというのです。当時の「街道」で、不法をはたらく「不良分子」である「博奕」(「やくざ」)を取り締まるためには、当時の、守山藩陣屋の司法・警察のエリートである武士にはふさわしくない職務であり、「にらみを利かして取り締まりうる者」として、金十郎のような人物が必要であったというのです。

現代的にいえば、暴力団を取り締まる警察官は、キャリアではなく、警察官になる前に「やくざ」・「暴力団」として行動していたという履歴をもっていたり、警察官になったあとも、「やくざ」・「暴力団」とつながりを持ち、そこから裏社会の情報を入手することができる、警察官という表の顔と、「やくざ」・「暴力団」の「通り者」としての裏の顔を同時に持ち合わせている現場に精通している警察官でないと、その職務を十分こなしえない・・・、ということになるのでしょうか?

しかし、筆者のような、一般市民の立場からしか発想できない者にとっては、阿部善雄氏の発想は、かなり偏見と誤謬に満ちているのではないかと思われます。

「守山藩陣屋の目明し」としての表の顔と、「やくざの顔役」としての裏の顔を使い分けながら、46年間の長きに渡って、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての職務をまっとうするというのはあり得ないことです。使い分けはいつか破綻を来し、「やくざの顔役」としての裏の顔は厳しく糾弾され、その結果として、「目明し」としての表の顔も同時に剥奪され、阿部善雄氏が指摘しているように、「ばくちは天下一統、どこでも仕置きに決めており、宿元は打ち首、同類は追放・・・」という幕府の法に従って、「打ち首」・「追放(遠島)」という極刑を言い渡されたのではないかと推察されます。

しかし、吉田金十郎は、守山藩陣屋の司法・警察官として、「七十の高齢を超えて」その職務を遂行していたことを考慮すると、目明し、吉田金十郎は、近世幕藩体制下の司法・警察官として筋金入りの「目明し」であった・・・、と考えられます。

『目明し金十郎の生涯』の著者・阿部善雄氏は、金十郎を理解するに、『守山藩御用留帳』のことばの背後にある、当時の司法・警察システムについてほとんど考察することなく、俗説に従って、「穢多」=「博奕」(現代的にいえば、「部落」=「暴力団」)という差別的なイメージを前提に、自説を展開しているのではないかと思われます。

(2)

それと、もうひとつ、阿部善雄氏の気になる視点・視角・視座があります。

それは、「目明し金十郎」を、「陣屋機構とは一線を画される」存在であったと断定するところにみられます。阿部善雄氏は、目明し金十郎を、その著『目明し金十郎の生涯』の副題に出てくる「庶民」として認識します。守山藩陣屋の藩士・役人(「陣屋の押衆や郷足軽」)などの武士身分とは違って、「領民にすぎなかった・・・」というのです。

阿部善雄氏は、「目明し金十郎」のような「存在は・・・時代の泥濘」であったというのです。

阿部善雄氏は、「目明し金十郎」を、守山藩陣屋の「目明し」として表の顔と、「やくざの顔役」としての裏の顔とを併せ持った、得体の知れない存在として描き、そのあげく、その存在は、近世幕藩体制下の「泥濘」であったと言い切るのです。日本の歴史学者の中に見受けられる「愚民論」的発想が前提されています。

そして、このように断言します。「やくざ社会の顔役を目明しに任命して、警察権の一部を付与したことは、「毒をもって毒を制す」といった諺があるように、支配者の知恵だった」。

『部落学序説』の筆者の視点・視角・視座からしますと、「毒をもって毒を制す」方法で、徳川幕府が300年間に渡って、全国をその支配下に置くことはできなかったと思われます。近世幕藩体制下では、幕府の定めた法度や御法をもって「毒を制す」ことが行われたからこそ、徳川幕府が300年に渡ってその治安を維持できたのだと思われます。

近世幕藩体制下の司法・警察制度、法システムは、汚職・脱法行為を公然と行う現代の官僚、政治家などの悲惨な現実と比較するとき、日本の歴史の中で誇るべき法制度であったと評価されても不思議でないほど充実した制度であったと思われます。

阿部善雄氏は、『目明し金十郎の生涯』を、次のことばで結んでいます。

「非常な高齢に達した金十郎が、いよいよ目明しをやめるときが訪れた。それは明和7年(1770)6月晦日だった。その日は一日中どんよりと曇った日であり、金十郎と孫の源之助が陣屋に呼び出され、金十郎の退役と跡役任命が申し渡された。源之助は金十郎の勤めぶりにしたがって目明し役を勤め、同僚の兵蔵と万事相談して、職務を遂行するよう言い付けられたうえ、帯刀を許可された。そしてなお、源之助は祖父の名を襲うて、金十郎を称せよと言われた・・・」。

「金十郎」・・・、その名前は、跡を引き継いだ孫の源之助にとって、また、守山藩の町人・百姓にとっても、生涯をかけて、法の番人、まもりて(衛手=えた)としての職務をまっとうした名誉ある役職名でもあったのです。表の顔も裏の顔も、同じ、近世幕藩体制下の司法・警察である非常民としての「目明し金十郎」の顔を、孫の源之助は継ぐことになったのです。

『部落学序説』の筆者としては、阿部善雄著『目明し金十郎の生涯』から、「賤民史観」や「愚民論」などの差別思想の影響を洗い落とし、近世幕藩体制下の司法・警察である非常民としての「目明し・穢多・非人」としての金十郎を見つめなおすことで、「穢多」と「博奕」、ひいては、現代の「部落」と「暴力団」というなんとも得体の知れない問題に少しく光を注ぎたいと思います。

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