2021/10/03

穢多と維新前夜 2.育制度と新百姓制度-近世身分体制の風穴

穢多と維新前夜 2.育制度と新百姓制度-近世身分体制の風穴


司馬遼太郎著『甲州街道・長州路ほか』(朝日文庫「街道をゆく」シリーズ第1巻)の冒頭部分で、こんな言葉が記されています。

「司馬ナニガシが長州にくれば殺す」

司馬の長州ゆきを知って、「長州奇兵隊の末裔」である「京都のフランス語の学者が大まじめで教えてくれた」そうですが、司馬は、「かといって殺される理由はおもいあらたない」といいます。

「殺す」というのは、「天誅」のことで、「天に代ッテ誅ス」のことです。長州藩の武士は、「幕末の文久2(1862)年から同3年まで」、「左幕派とみれば襲ってこれを惨殺する」「天誅」でもって「京都の市民を戦慄させた」といいます。

貧乏百姓の末裔でしかなかった「伊藤博文でさえ、江戸で文久2年12月21日、麴町三番町付近で、国学者塙次郎を待ち伏せし、これを惨殺した」といいます。司馬は、「若気のいたり」と弁護しますが、伊藤博文はそのとき22歳。その功あってか、伊藤博文は、その惨殺事件のあと3カ月後、「士分にとりたてられる」(伊藤公資料館『伊藤博文公年譜』)のです。

伊藤公資料館『伊藤博文公年譜』を見ながら、不思議な感じがします。そこには、「国学者塙次郎を惨殺する」と文字通り記録されているからです。伊藤博文を顕彰するために作られたと思うその資料館で配布されている文章にでてくる「国学者塙次郎を惨殺する」の文字を見ながら、「惨殺」もまた顕彰の対象なのかと驚きの思いを持ちました。

その年譜の最後に、伊藤博文の言葉が書き添えられていました。

「人は、誠実でなくては何事も成就しない。誠実とは、自分が従事している仕事に対して親切なことである」。

伊藤博文が国学者・塙次郎を「惨殺」したのも、伊藤博文が当時従事していた仕事に対する姿勢から出でくることなのでしょうか。その際の「親切」とは何なのでしょうか。「親切」は「深切」のことのようです。

司馬遼太郎は、「幕末の奔走家を評価するとき、人を斬ったかどうかで判定してもおもしろい」といいます。

司馬は、「第一級の人物にはさすがにそういう浮薄さがなく、高杉晋作も木戸孝允もそういう行跡はなかった」といいます。高杉晋作は、「剣術の自信をもっていながら、同藩のわからずやにつけねらわれると、機敏に遁走し、人を殺そうとしたことは一度もなかった」といいます。

司馬は、戦国期の毛利は、「同盟すれば裏切られることはない」というが、幕末期の長州は、「手を結べばひどい目にあう」といいます。近世以前の毛利藩と幕末・明治の長州藩とは、似ても似つかぬ存在だったのです。

司馬は、「吉田松陰、乃木希典、河上肇、末川博といった人々には濃厚に仁者のおもむきがあり、さらに仁以外にかれらに共通しているところは強い思想人的気質」があるといいます。

2年前のことであったと思いますが、筆者は、山口県立某高校で仕事をしていたことがあります。休憩時間に、若い高校教師から、「山口県出身の人物で尊敬している人物はいますか」と聞かれて、「末川博と団藤重光」と答えると、その教師、「その人って、誰ですか・・・」といいます。その話を横で聞いていた教頭は、顔を真っ赤にしながら、「そんなことも知らないのか」と怒っていました。末川博なども、もう既に過去の人物なのかも知れません。

「志操は高く、姿勢は低く」。

末川の言葉は、筆者の座右の銘でもあるのです。

司馬遼太郎が、「長州藩」の末裔から、「司馬ナニガシが長州にくれば殺す」といわれたのは、司馬遼太郎が、情け容赦なく、正論でもって、長州藩を批判するからではないでしょうか。「長州の複雑さは、仁者的風格の思想人を生むくせに、仁者的風格の革命家や政治家を生まない」と批判します。長州人は、権力を持った瞬間、なぜ、怜悧になり、残忍になることができるのか・・・。

司馬遼太郎は、山口県に講演にきたとき、長州藩の「育制度」を絶賛していました。「育制度」というのは「はぐくみ制度」と読むそうですが、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」によると、近世幕藩体制下の身分は、「士・農・工・商」それぞれの「身分」間において結婚等の交流が一切できないといいます。武士の家に生まれた者は、武士としてその生涯をあゆまなければならない。百姓の家に生まれた者は、生涯百姓として生きなければならない。武士が百姓になったり、百姓が武士になったりすることはできない・・・、そのようにいわれてきました。

ところが、長州藩には、「百姓」(百姓・町人)が「武士」になることもできる「育制度」というのがあるというのです。それは、例外的なことかも知れませんが、近世幕藩体制下の身分制度の枠を合法的に逸脱する制度が、長州藩には、存在していたというのです。

その典型的なのが、伊藤博文です。貧乏百姓の伜が、やがて、百姓身分から士分になっていったのですから・・・。伊藤博文は、「育制度」を使って、合法的に百姓身分から離脱していったのです。

この「育制度」の具体例が、岩国藩の史料の中に散見されるのです。

岩国藩の藩士の中で、跡取りがない場合、御家断絶を免れるために、「穢多」の中から優秀なものを選んで、その養子にしたというのです。「しかたがない・・・」という諦めからではなく、堂々とそのことを誇っているのです。
「育制度」は、「百姓」が「武士」になる制度ですが、逆はどうなのかといいますと、それなりの制度があったようです。「武士」が「百姓」になる合法的制度が・・・。それを、「新百姓制度」といいます。

「浪人者御百姓ニ可相成と理候ハゝ、出所由来宗門等相窮無別条ニ候ハゝ新百姓の沙汰ニ可被仕候・・・」。
「御百姓」は、武士身分から帰農した百姓のことで、一般の「百姓」とは身分的に区別されています。近世幕藩体制下の司法・警察である「穢多」は、元武士身分である「御百姓」に対しては、一般の百姓とは異なる、丁寧な対応をすることを求められたようです。

「藩府は新百姓に対しては、その生活基盤が脆弱なため一貫して保護政策をとっている。即ち三カ年間諸役御免除の上、心付米を下付する等の措置」がなされたといいます。新百姓は、裸一貫で、荒野に開拓のために放り出されたのではなく、農地・農機具・籾・食料米などの優遇措置がともなっていたのです。この新百姓制度は、やがて、飢饉に直面して他藩から流入してきた百姓に対しても適用されるようになります。

「育制度」と「新百姓制度」は、近世幕藩体制下の長州藩において、基本的には固定された封建身分、「武士」と「百姓」間の身分の合法的移動を容認した制度なのです。「明和期には新百姓は本軒は3石・・・本米支給が行われた」(広田)といわれています。

「新百姓」という言葉には、「武士」がその身分を捨てて、「百姓」になった・・・という意味が込められています。
「武士」が、刀を捨てて、その手に鍬を握った姿を見て、長州藩の「百姓」たちはどのように思ったのでしょうか・・・。

それでは、近世幕藩体制下の長州藩において、司法・警察という「非常民」であった「穢多」は、その身分を捨てて、「百姓」になることがあったのでしょうか。

長州藩の記録をみると、「穢多」もまた「穢多」の身分を捨てて「百姓」になることがあったようです。

部落研究・部落問題研究・部落史研究においては、日本の歴史学の差別思想である「賤民史観」の影響に害されて、史料や文献の中に、そのようなことが記載されてあったとしても、ほとんどの研究者・教育者は、「例外」として扱い、考察の対象外へと追いやってしまうのです。

「部落学」は、それらの例外を、ていねいに分析し、それを「部落学」の史料・資料として評価し直します。

司馬遼太郎は、長州藩のそのような制度は、近世幕藩体制下の身分制度を突き崩していく要因になったと認識しているようです。「身分」は、「役務」と「家職」によって成り立っていますが、明治維新前夜の時代は、「身分」・「役務」・「家職」も、時代の流れと共に大きく混乱・動揺するのです。

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