2021/10/03

宗教者と部落問題

宗教者と部落問題


宗教者に内在する差別性が指摘されて久しくなります。

現在の宗教者が、どのように差別性を払拭する努力を続けてきたのか。筆者は、宗教者の禄を食みながら、その問いに 対する答えを出すことができないでいます。

今も昔も、宗教の中に内在する差別性は深刻なものがあります。しかし、その深刻な差別性は、どちらかいうと、近世幕藩体制下以前というより、明治以降の近代・現代の宗教の中に内在するように思われます。

『宗教と部落問題』(部落解放研究所編・解放出版社)の中にこのような言葉があります。

「宗教者はともすれば現場をはなれたところで部落差別問題を考える。ものを読む、ものを書く、ものを論ずる。しかし、そのようなことをしながら、実際には被差別部落の現実に触れないままで何年も過して平気でいる。研究とか論文とかの名のもとにいつも「きれいごと」になってしまっている。このことがさいごには部落差別問題を取り扱っていると言い、また本人もそう思いながら、実は部落差別の現実からはほど遠いところに自己の存在を押しやってしまう。・・・もっとも進歩的なポーズをとりながら、もっとも後退的な体質が保存されたままになるのである。自己自身を問いつつ現場に密着し、そこで宗教者としての生きざまを誠実に証しする以外に真の希望はないであろう」。

この文章を書いた宗教者がいう、「被差別部落の現実」とは何なのでしょう。

筆者も、同和対策事業の先進地視察という名目の下で行われる集会に何度か参加しましたが、そのことで、「被差別部落の現実」を理解するにはいたりませんでした。天理市をはじめとする近畿の被差別部落を訪ねたことがありますが、同和事業の代表的なモデル地区とされる被差別部落には、豪邸が建ち並んでいましたが、被差別部落の住人は、さらなる同和対策事業の必要性を説いていておられました。何となく同和行政に問題を感じざるを得ませんでした。

筆者が所属している教団でも、「被差別部落の現実」を知るために、繰り返し、「現場研修会」が開かれます。しかし、そのことは、参加した宗教者が、それぞれの日常の場にかえって、同和問題と取り組むきっかけになってきたかというと、決してそうではありません。「現場研修会」は、参加することで、自己完結するのです。どちらかいうと、同和教育のアリバイづくりにしかなりません。

同和事業の先進地や現場を訪ねることは、参加者した宗教者の足元にある差別性を堀崩すことにはつながらないのです。山口県に住んでいて、長崎・福岡・広島・大阪・徳島・・・と、他県の「現場」を渡り歩いても、被差別部落のことを本当に理解することはできないと思われます。それらの地区は、一定の運動の成果を達成しているところばかりで、いくら「現場研修会」を増やしても、それが、宗教者が、山口県の小規模な被差別部落に関わりをもつ出会いにつながることはほとんどありません。

宗教者の、被差別部落との日常的な関わりがないところで積み重ねられる「現場研修会」は、ますます宗教者の中にある「進歩的なボーズ」を助長するのです。「あれも知っている」、「これも知っている」といいながら、実は、何も知ってはいないことにつながるのです。

この『部落学序説』をブログ上で、「書き下ろし」の形で公開する準備をしていたとき、教区の同和問題担当者から、「あなたが、いままで収集してきた部落問題に関する史料や資料をすべて提出しなさい。あなたに変わって、私たちが論文を書きます・・・」と言われましたが、当然、断りました。

『部落学序説』を執筆すると宣言してから五、六年経過しますから、しびれをきらしたのかもしれません。彼らの語る言葉は、筆者にとって、学歴のないあなたに代わって、学歴も資格もある私たちが代わって論文を書きます、という意味合いに聞こえました。

「資料が多いので、提供は事実上難しい」と返事しますと、「それでは、あなたが出入りしていた被差別部落とその担当者の名前と住所、穢多寺の住職の名前と住所、連絡先を教えなさい。私たちが再調査して、あなたにかわって論文を書きます。」といいます。

学歴のある人はさすがものいいが違うと関心しながら、しかし、私は、一方で、非常に不安感をもちます。

もし、彼らに、被差別部落とその担当者の名前と住所、穢多寺の住職の名前と住所、連絡先を教えたら、そのとき、すぐに差別事件として糾弾を受けることになるのではないかという不安です。

既に記述したことですが、私は、現在住んでいる市の職員の方からいただいた、市内の2カ所の被差別部落の全世帯の名簿を持っています。具体的に、被差別部落の人の名前と住所を知っていたら、それは、同和地区の調査や同和問題の論文に役に立つか・・・、というと、決して、そうはなりません。

そういう名簿は、ほとんどの場合あってもなくてもよいのです。山口県同和教育研究協議会や山口県同和問題宗教者連帯会議の集会に参加していれば、被差別部落の人々と、何らかの形で接点ができてきます。それぞれの宗教者の置かれた立場で、その出会いを大切にしていけば、山口県の被差別部落について、いろいろなことを被差別部落の側から直接聞くことができる機会は自ずと生まれてくるものです。

大切なのは、被差別部落の本当の歴史を語ってくれる人に出会うことができるかどうか、という一点にあります。

山口県の被差別部落の人々から、学校同和教育や社会同和教育で行われた啓発の内容と同じ話しか聞くことができなかったら、日本の歴史学の差別思想である「賤民史観」に彩られた世界しか聞くことができなかったとしたら、それは、研究者や教育者が、まだ、山口県の、本当の、被差別部落の人々に出会っていないということを意味します。

「現場研修会」ではなく、全国に散在する「未指定地区」を探して、ひとりで、自分を曝け出して訪ねてみれば、より多くの収穫を手にすることができます。部落差別の完全解消を願う気持ちがあるなら、「差別者」が、被差別部落の人々を、差別的に探索する、それ以上の熱意と誠実さをもって、被差別部落の調査にあたれば、「どこに部落があるのか」、「その部落にどのような人が住んでいるのか」、「いままで、どのような取り組みをしてきたのか」、「どういう歴史や文化があるのか」、自ずと、その問いに対する答えが開示されてきます。

必要なのは、真剣さのみです。

あとは、被差別部落の人々の語る言葉に耳を傾けるこころのゆとりさえあれば・・・。

『宗教と部落問題』に記述されている宗教者への注意は、当然、この『部落学序説』の筆者である私にもあてはまる言葉ですが、この言葉を最初に読んだ日から二十数年が経過してしまいました。

そして、現在、教団・教区の同和問題担当部門、山口県同和教育研究協議会や山口県同和問題宗教者連帯会議、そして被差別部落の人々との交流からも離れて、ただひとりで、この『部落学序説』を執筆しています。一宗教者として、たったひとりではじめた、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」を打破する闘いをほそぼそと続けています。

部落解放運動に関与している人々は、宗教というものに、過度に期待し、その反動として、過度に失望の念をもっておられる場合が多々あります。繰り返される宗教者による差別発言や差別文書、差別戒名や差別墓標差別事件を考えると、被差別部落の側の期待と失望を理解できないわけではありませんが、しかし、宗教者を十把一絡げに斬って捨てるのはいかがなものでしょうか。

民俗学は、基本的には、「常民」の学として、歴史学、社会学・地理学、宗教学の学際的な研究です。そして、「部落学」は、「非常民」の学として、歴史学、社会学・地理学、宗教学、民俗学等の学際的研究として遂行されます。

民俗学にしても、非常民の学としての「部落学」にしても、「宗教学」は必須の個別科学研究です。しかし、部落研究・部落問題研究・部落史研究の研究者・教育者、そして彼らと共闘している被差別部落の人々の中には、「宗教学」をほとんど軽視している人も少なくありません。浄土真宗に対する被差別部落の側からの批判は厳しいものがありますが、どこか的を外しているような批判も少なくありません。

最も的を外しているのが、原田伴彦です。《日本宗教と部落差別》(『伝統と現代』73号)でこのように述べています。

「部落に真宗の寺院の多いのは、江戸幕府が部落と結びつける政策をとったことにもよろうが、やはり、中世後期いらい、真宗が社会の底辺の下層民衆に救いの手をさしのべた伝統によるものであろう。事実、江戸時代において、真宗は部落と接触し、部落の人々に布教の手をさしのべた唯一の教団であったことは確かな事実であった。」

近世幕藩体制下で、長州藩にあって西本願寺派の穢寺のひとつであった、浄土真宗の寺を訪ねたとき、その住職は、家系図を作る業者に作成してもらった、その寺の歴史を提示しながら、「江戸時代、誰も引き取り手がないというので、当寺で、被差別部落の人の世話をしていました・・・。」と話をしていましたが、原田にしろ、穢寺の住職にしろ、歴史の事実を大きく誤認しています。

近世幕藩体制下の「穢寺」は、浄土真宗の付録的存在ではなく、必須の重要な機関であったことです。その機関を抱えているからこそ、浄土真宗は、幕府によって公認された宗教として、近世幕藩体制下300年に渡ってその存続を許されたのです。『部落学序説』において、「穢多」なる概念が再定義されなければならなかったのと同じく、「穢寺」・「穢多寺」も再定義が必要であると、筆者は考えざるを得ないのです。

0 件のコメント:

コメントを投稿

『部落学序説』関連ブログ群を再掲・・・

Nothing is unclean in itself, but it is unclean for anyone who thinks it unclean.(NSRV)  それ自身穢れているものは何もない。穢れていると思っている人にとってだけ穢れている(英訳聖書)。 200...