2021/10/03

草莽と穢多

草莽と穢多


「拷問」は、近世幕藩体制下においては、日本の固有の「法」に基づく適正な処置でした。支配者の側も被支配者の側も、「法」に抵触する行為をしたときには、「拷問」に晒されることは十分認識していました。

しかし、欧米諸国と外交するに至って、その「拷問」は、日本以外のアジア諸国と同様、前近代的な刑法上の制度として忌避されるようになりました。欧米諸国は、日本に治外法権(領事裁判権)を認めることで、一応、自国の民が、日本の「拷問制度」にさらされないよう守ることができたわけですが、明治新政府のキリシタン弾圧政策をめぐって、欧米諸国は、人道的見地から、拷問・極刑を含む、前近代的な方法で日本人キリスト教徒(キリシタン)が迫害・弾圧されていくことに明治新政府に抗議するようになりました。欧米諸国は、明治新政府のキリシタン弾圧は、欧米諸国に対する「侮辱」であり、場合によっては、日本と戦争を交えて、その障碍を取り除かなければならない由々しき事態であると受け止めるに至ったのです。

イギリスの外交官・ミットフォードは、イギリス政府から、二つの使命を帯びていたといいます。「一つは外国人への襲撃についての新しい法律の公布を要求すること」であり、「もう一つは浦上のキリシタン事件を注意して見守ること」でした。「草莽」による外国人暗殺問題とキリシタン弾圧問題、それは、明治新政府に対する英米をはじめとする諸外国からの圧力(外圧)として機能していました。

「草莽」による外国人暗殺は、日本の固有の「法」に基づく処置ではなく、「法」を逸脱した犯罪の様相を呈していました。

「草莽」は、幕末期に登場してきた、「武士道の精神を放棄した武士」のことです。その典型的な存在は、長州藩の吉田松陰でした。吉田松陰は、1830年、萩藩の「無給通の下士」(23石)の身分であった杉百合之助の次男・大次郎として生まれてきました。杉一族は、「ほとんど百姓と変わらない生活」をしていたようで、「農作業では女手で馬を使うほどの労働にたずさわらなくてはならなかった」(古川薫著『吉田松陰・留魂録』講談社学術文庫)といいます。

松陰の父・百合之助は、「彼が盗賊改方の役に就く前年」の日記にこのように記しています。

「3月朔日晴天○肥固屋内ケ輪壁塗皆済○麦荒付○苗代荒起し○厩揚げ、はかかへ○麦畑草取○夜中糠取に行。
2日晴天○麦精げ○牛蒡畑三番打返し○麦草取○厩揚げ○小水かへ○風呂焚」。

吉田松陰も、兄弟と一緒に父の農作業を手伝っていたといいます。

その松陰は、萩藩の山鹿流兵学の指南の家柄である吉田家に養子にいき、杉大次郎から吉田松陰へと名前を変えていたのです。吉田家は57石6斗を藩から支給されていましたが、藩財政の窮迫のため実際の支給は半額に減額されていました。松陰の実収入は、28石8斗のうち、6石7斗のみでした(長州藩の穢多頭の収入にはるかに及ばない)。あとは、義母の生活費と借金返済に充当されていったといいます。

実家においても、養子先においても、松陰が直面していた経済的貧しさは、吉田松陰から、徐々に、「武士道の精神」を蝕んでいったと思われます。

下田密航事件の取調の際に、吉田松陰は、幕府の評定所の役人、寺社奉行・町奉行・勘定奉行・大目付等の取調を受けるのですが、松陰は、なぜ、密航を企て渡米しようとしたのか、松陰の思想的背景を告白します。しかし、幕府の役人は、松陰の語る言葉を黙って聞いていたといいます。松陰の言葉に反応を示さない役人に対して、松陰は、「失望」させられたといいます。

松陰を取り調べた役人は、このようにいいます。「汝の陳述するところは、ことごとく的を射ているとは思えない。また卑賎の身で国家の大事を議するとは不届きであろう」。

幕府の役人から、「卑賎の身」と蔑視された松陰ですが、「「国を憂うる気持ちに身分の上下など関係ないではないか」と思ったが、深く抗弁せず・・・口をつぐんだ」といいます。

「貴賤」の「賤」、「尊卑」の「卑」と断じられたとき、松陰は、なぜ、沈黙をしたのでしょうか。松陰は、おのれが「賤」であり「卑」であることを認めたのでしょうか。そもそも、「卑賎」という言葉の意味を、現代の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」の使用する「卑賎」観で受け止めていいのでしょうか。吉田松陰は、我々とは別な受け止めた方をしたのでしょうか・・・。

吉田松陰は、「死を尽くして以て天子に仕へ、貴賤尊卑を以て之が垣根(「差別」の意味:筆者注)を為さず。是れ則ち神州の道なり」と書き記したといいます(市井三郎著『思想からみた明治維新』講談社学術文庫)。

市井三郎は、近世幕藩体制下の武士道を説いた山鹿素行(会津藩)に由来する「山鹿流兵学師範の家職を継いでいた」(古川薫著『吉田松陰留魂録』講談社学術文庫)吉田松陰は、兵学に加えて、聾唖の僧・黙霖から、百姓一揆の指導者・山形大弐の影響を受けていたといいます。

下田密航事件の取調の際に、幕府の役人から、「卑賎の身」となじられた松陰は、獄中にあって、このようにその門人に語るのです。「是の後は決して政府の俗吏へは謀らず、又官録に縛さるる類の人へはそしらぬ貌して居る。・・・義卿(松陰のこと)義を知る、時を待つの人に非ず。草莽崛起、豈に他人の力を仮らんや。恐れながら、天朝も幕府・吾が藩も要らぬ、只だ六尺の微躯が入用」。

吉田松陰のこの「激語」は、「既製の権力形態(藩も幕府も含めて)に依拠することをやめ、「草莽崛起」つまり野にあって志を同じゅうする人々の決起によって、「尊攘」の新しい権力形態を創り出してみせる、という決意」として受け止められ、「久坂玄端が首唱して松門は血盟をかわし、同志糾合(「草莽の志士糾合」)を求めて各地に散るのです」(市井前掲書)。

「尊皇攘夷」をとなえる「草莽の志士」の存在は、最初から、「恐れながら、天朝も幕府・吾が藩も要らぬ、只だ六尺の微躯が入用」というところに立っているので、朝廷や幕府・藩の管理統制の枠外の存在として行動することになりました。筆者の目からみると、吉田松陰は、正規軍を離れて、ゲリラとしての行動を以て、「卑賎の身」の苦しみをあじわわなければならない万民のための改革を指向し、その門下生を指揮していったのではなかいと思われます。

吉田松陰の改革の主体を「草莽」においた戦略は、やがて、長州藩を揺るがし、幕藩体制をゆるがし、それを瓦解させるにいたるのです。幕府や諸藩の支配下に身を置かず、「草莽」の論理で動く彼らの画策で、欧米諸国の幕府に対する、日本の政権としての信頼を著しくそこなう結果になるのです。

明治新政府は、欧米諸国から、この「草莽」による外国人暗殺問題を早急に解決するよう「圧力」をかけられるのです。

「草莽」による外国人及び日本人要職に対する暗殺は、その精神的支柱として、近世幕藩体制下の「武士道」を想定することが非常に難しい類のものでした。イギリスの外交官アーネスト・サトウは、「長崎でイギリス軍艦イカラス号の水平2名が、泥酔して下町の道路に寝こんでいるところを殺された・・・」といいます。「草莽」は、ためらわず暗殺すら実行しました。アーネスト・サトウは、「新政府に提出すべき最初の要求の一つは殺害者処罰の件」と「なによりもまずこの種の事件の発生を防止」することにあると記しています(『一外交官の見た明治維新(下)』岩波文庫)。

近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての「穢多」は、当時の法制度の中の「拷問」には関与していましたが、幕末・明治初頭を疾風怒濤のように駆け抜けていった「草莽の志士」とは行動を共にしていませんでした。彼らは、司法・警察として、それぞれの場所で、「法」に基づいて、治安維持にあたっていました。いわば、「草莽の志士」を取り締まる側に身を置いていたといえるでしょう。「穢多」が在所を離れて行動していて発覚した場合、それぞれの在所へと送り返され、本来の職務を強制されたと思われます。

しかし、明治政府は、「拷問」や「草莽」に対する、欧米諸国からの要請に答え、日本が国際社会の中でその位置を占めるべく、早急な形で、治安維持の改革に走ります。そして、「拷問」・「草莽」に対して、明治政府がそれ相応の努力をしていることを欧米諸国に見せるために、旧警察制度の解体とその責任の追究・処罰・対策をはじめるのです。明治4年の太政官布告第61号が出される2年前のことです。近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」として機能してきた「穢多」組織は、明治新政府による、思いもよらぬ処遇を受けることになるのです。日本の歴史学に内在する差別思想である「賎民史観」の見方では、明治4年の太政官布告第61号は、「身分解放令」・「賎民解放令」・「部落解放令」・「賎称廃止令」・・・と呼びますが、それは、明治政府の「人権尊重」の思想からでてきたものではなく、明治新政府の「外国交際」上の非常に混迷を極めた外交問題の解決策の一環として登場してくるのです。

日本の近代の部落差別は、「日本固有の差別・・・」というようなものではありません。日本の近代の部落差別成立に際して、明治新政府とイギリス・アメリカをはじめとする欧米各国は、それ相応に関与しているのです。日本の近代部落差別は、「外国交際」が産み落とした「鬼子」だったのです。

明治4年の太政官布告第61号を解釈するには、それまでの歴史経過を明らかにしなければなりません。明治4年の太政官布告第61号の歴史的背景を不問に付して、そこから、日本の近代部落差別を論じることは、その歴史的本質を見失うことになるでしょう。現在の価値判断をもって「過去を振り返る」歴史観ではなく、史料や伝承を再構成して「過去に立ち戻る」歴史観が必要なのです。筆者のこのような解釈に対して、「素人解釈」という批判があることは十分承知していますが、日本の部落差別の真の淵源を明らかにするには、この「素人解釈」が必要欠くべからざる営みのひとつであると思います。(続)

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