2021/10/03

加藤弘蔵「非人穢多御廃止ノ議」

加藤弘蔵「非人穢多御廃止ノ議」


明治2年、公議所において、加藤弘蔵は、「非人穢多御廃止ノ議」を議案として提出します。

この議案について、『被差別部落の歴史』(朝日選書)の著者・原田伴彦は、「万民はすべて同一の権利があるという万民平等の理念のもとに賤民の解放を論じており、明治はじめの解放論としてとくに優れたものでした」と極めて高い評価を下しています。

原田伴彦は、加藤弘蔵の提出した議案を、「賤民解放論」として位置づけているのですが、まず、この「非人穢多御廃止ノ議」の内容を確認してみましょう。全文を岩波近代思想大系『差別の諸相』からの引用させていただきます。

「非人穢多之儀、其縁由確説分リ兼候得共、到底人類二相違無之者ヲ、人外ノ御取扱ニ相成候ハ、甚以天理ニ背き候儀、且ハ方今外国交際ノ時ニ方リテ、右様ノ事其儘ニ被成置候テハ、第一御国辱此上モ無之儀ト奉存候。何卒此御一新ニ方リ、右非人穢多ノ称被廃止、庶人ニ御加ヘ相成候様仕度、已に旧幕府ニテ、昨春弾内記支配下ノ者穢多ノ称被廃儀有之候処、御一新ニ方リ、猶右樣ノ儀ニ御心付無之候ハ、乍恐王政ノ大御欠典ト奉存候間、右此度改テ庶民エ御加ヘ有之度奉存候」

『差別の諸相』に収録された文書に注を振ったのは、ひろたまさき氏です。彼は、加藤弘蔵について次のように紹介しています。

「加藤弘蔵 1836-1916。のち弘之と改名。旧但馬藩士。のち幕臣となり幕府開成所教授に任ぜられたが、維新後明治政府に出仕。啓蒙思想家として「真政大意」などで天賦人権論を説いたが、明治15年「人権新説」を刊行し優勝劣敗の社会ダーヴィニズムを展開。東京大学初代總理、貴族院議員などを歴任」。

加藤弘蔵は、実に多分野に渡って活躍された人のようです。教育者・学者・政治家・閣僚・思想家・運動家・・・等として活躍し、様々な功績を残されたようです。明治10年(1877)「東京大学総理、さらに総長をつとめ日本の大学教育の基礎をつくった」(以下平凡社『世界百科大事典』からの引用)人物として知られています。「貴族院の開設(1890)にあたり勅選議員となり、以来同院で学制改革・教科書問題等に尽力し、その他各種の学会を指導した」そうです。

加藤弘蔵は、明治17年(1884)東京大学内に「日本人類学会」が成立された際にも深く関わったと言われます。

加藤弘蔵は、知的好奇心旺盛で、「哲学、法律学、生物学・・・」等多岐に渡り博識である反面、その思想内容に節操がない面もみられます。加藤弘蔵は、「はじめは天賦人権論をとっていた」と言われますが、自由民権運動が反政府運動的色彩を強く帯びるに至って、彼は、自由民権運動に反対して、進化論を唱え、「国家有機体説」を主張したといわれます。

そして、加藤弘蔵は、「また道徳を生存競争の産物として利己心を基本と考え、宗教を認めず、キリスト教を激しく攻撃した・・・」といいます。

加藤弘蔵のキリスト教攻撃は、幕末・明治初頭にかけて、明治政府の指導的役割を担った知識階級にほぼ共通したことがらでしたから不思議ではありません。近代中央集権国家・明治天皇制国家の建設は、神道を中心に据えたもので、それは欧米のキリスト教国家に対抗するためのものでした。

加藤弘蔵は、学者・教育者の立場から、日本国家建設のために全力を注ぎました。そういう意味では、加藤弘蔵のものの見方や考え方を探っていくと、明治政府の基本的な政治意図に触れることになりそうです。加藤弘蔵は、大久保利通に並ぶ、明治政府の立役者であったのではないかと思われます。

加藤弘蔵は、穂積八束・井上哲次郎らと共に、「国体論の西欧的粉飾に向かっていった」(松岡正剛)と言われます。

大日本帝国憲法下の地方自治制度における審議過程で登場してきた「ゲマインデ」の翻訳語「部落」という概念も、いわば「国体論の西欧的粉飾」に該当するものです。「部落」という概念の導入で、明治天皇制国家の中核になる神道共同体建設の道筋をつくったのですから・・・。明治政府は、地方自治制度の近代化の名目の下で、神道共同体あるいは神道国家の建設を進めていきました。

筆者は、加藤弘蔵の「非人穢多御廃止ノ議」を精読していて思うのですが、かなり違和感を覚えてしまいます。原田伴彦が指摘するように、「賤民解放論」として認識することは困難であると思われるのです。

「賤民」という概念は、明治以降に学術用語として登場してきます。しかし、公議所で、公議人によって、「穢多」に関するいくつかの議案が審議されていたとき、この「賤民」概念は使用されていなかったと思われるのです。「賤民」概念の成立は、もっとのちのことだからです。

加藤弘蔵の「非人穢多御廃止ノ議」の文章中の字句にも、「賤民」ないし「賤民」を想定させる表現は出てきません。加藤弘蔵は、「賤民制度」の解体を論じてはいません。あくまで、「非人穢多ノ称被廃止」のみを強調しているのです。この時期は、外交上、非常に微妙な時期ですから、加藤弘蔵の「非人穢多御廃止ノ議」の議案提出には複雑な背景がありそうです。しかし、部落史研究者の多くは今日まで、その背景を明らかにしようとはしませんでした。

明治期の「賤民」という概念には、「人種」・「民族」という概念がつきまといます。この項を書くときに、あらためて、加藤弘蔵の「非人穢多御廃止ノ議」を精読していましたら、この文章から、二つのイメージをチラつくようになりました。

デンマークの学者ルビンが実験現象学の立場からした実験に、「図-地反転図形」というのがあります。黒字に白い花瓶が描かれているのか、二人に人間の横顔のシルエットなのか、白の図に着目するか、黒の地に着目するかによって、同じ絵が、まったく違った絵に見えてくる・・・という、よく心理学の教科書に出てくるものです。

加藤弘蔵の「非人穢多御廃止ノ議」を久しぶりに読みなおしてみたとき、「図」に力点をおくか、「地」に力点をおくかによって、加藤弘蔵の「非人穢多御廃止ノ議」がまったく別様に見えてきたのです。

日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」に力点をおいて読むか、「賤民史観」廃棄を主張するこの『部落学序説』に力点をおいて読むかによって、加藤弘蔵の「非人穢多御廃止ノ議」は、まったく異なった意味内容を帯びてくるのです。

ふと心の中を過っていった懸念・・・、ふと脳裏の片隅をかすめていった疑念・・・、それを懸念・疑念のまま放置しておくと、あとあと、それが増幅して、『部落学序説』全体に大きな影響を及ぼしてしまいます。この十数年、その連続でしたから、今回、加藤弘蔵の「非人穢多御廃止ノ議」を再読したとき、その懸念や疑念に襲われたのです。納得いくまで解明しなければ・・・、そう思いながら、誰から求められたり要求されたりしている訳ではないのですが、「時間内にブログに次の文章を掲上しなければ・・・」という思いにせき立てられて、文章作成が、打っては消す、打っては消すという膠着状態に陥ってしまったのです。

朝、気分転換に、近くの園芸店に行きましたら、タマネギの苗を売っていたので、200本買ってきてミニ菜園に植えました。そして、ついでに買ってきた、レタス・チシャ・パセリの苗を植えながら、考えていたのです。どうして、ひとつの文章から二つの異なる解釈が出てくるのか・・・。そしてふと気がついたのです。それは、たったひとつの言葉が原因している。それは、「人類」! 加藤弘蔵の「非人穢多御廃止ノ議」は、その中に出てくる「人類」をどのように解釈するかによって、まったく別様に見えてくるということを発見したのです。

読者の皆様と一緒にそのことを確認してみましょう。まず、「賤民史観」の立場から、加藤弘蔵の「非人穢多御廃止ノ議」を見てみましょう。

原田伴彦は、その著『被差別部落の歴史』の中で、このように解釈します。

「その主旨は、「えた」・非人のゆらいは明らかではないにしても、人類である彼らを人外の取り扱いをするのは、はなはだ天理にそむくというものでした。加藤は天賦人権説をとなえる学者で、「国体新論」という本をかいて、「君主も人であり、人民も人であるのに、その権利が天地ほどのちがいをたてるのは何事であるか、このような野鄙陋劣な国体の国に生まれた人民は実に不幸の最上である」とのべたほどの人物でした。加藤は、万民はすべて同一の権利があるという万民平等の理念のもとに賤民の解放を論じており、明治はじめの解放論としてとくに優れたものでした」。

原田は、「到底人類二相違無之者ヲ、人外ノ御取扱ニ相成候ハ、甚以天理ニ背き候」を、「人類である彼らを人外の取り扱いをするのは、はなはだ天理にそむく」ものであると解釈します。原田の解釈では、「人外」は「人類ではない存在」のことを指してしまいます。原田の解釈では、加藤弘蔵がこのような表現をした背景には、「非人穢多」が、近世幕藩体制下においては、人類ではない存在として「賤民」として差別されていた・・・という認識があります。加藤弘蔵は、「人(人類)にあらず」という近世的理解を否定し、「非人穢多」も同じ「人(人類)」であると、「非人穢多」の「非人類」から「人類」への解放を説いた・・・という解釈になります。

原田だけではありません。原田に先立って、『部落の歴史と解放理論』の著者・井上清も同様のことを述べているのです。

「人類に違いないものを人間外のあつかいにするのは、はなはだ天理にそむき、外国に対しても聞こえのわるい「国辱」である、すでに旧幕府が弾左衞門支配下のものを平人にしているのに、旧来のわるい習慣を一新するはずの政府が非人えたを廃止しないのはいけない、というのである」。

井上も、「人類」と解釈します。「人類にちがいないものを人間外のあついかにする」とより直接的に言及しています。

加藤弘蔵の「非人穢多御廃止ノ議」に出てくる「人類」という言葉を「人類(じんるい)」とすることで、明治以前の「非人穢多」に対して、「人間外人間」・・・というイメージを強烈に植えつけてしまいます。

筆者は、原田伴彦も井上清も、学者や教育者が、明治30年代後に、「人類学的解釈」、「特殊部落民」を「劣等人種」・「劣等民族」視する時代の発想や思想を、明治初年代に、時代錯誤的にあてはめて解釈した結果、このような、「賤民史観」的解釈が出てきたのであろうと思います。原田伴彦も井上清も、この「賤民史観」に色濃く、その言葉と思想をひたしているのです。

現代の同和教育・解放教育は、この「賤民史観」に支配されている故に、「穢多」の歴史、「部落」の歴史は、部落差別からの解消にはつながらないのです。むしろ、同和教育や解放教育をすればするほど、こどもたちを「賤民史観」の虜にしていっているのです。

常識的に考えても、どの世界に「人間外人間」のような存在がいるのでしょう。

原田伴彦も井上清も、加藤弘蔵は、「非人穢多御廃止ノ議」において、「非人穢多」をそのように認識していると解釈するのですが、『部落学序説』の筆者である私は、加藤弘蔵は、被差別部落の人種起源説を示唆するような主張は一切していないと思うのです。

それでは、「非人穢多御廃止ノ議」に出てくる「人類」はどう読むのか・・・。

筆者は、「人ノ類」と読みます。長州藩では、近世幕藩体制下で司法・警察として「非常民」の職務に従事していた「穢多・茶筅・宮番・・・」等を「穢多の類」と呼びます。加藤弘蔵は、「穢多の類」という表現と同じ表現で、「人の類」・「人類」と表記したのではないかと思います。筆者は、「到底人類二相違無之者ヲ・・・」を、「到底、人の類に相違これなき者を・・・」と読むことになります。「人の類」は、『広辞苑』によると、「人」そのものを指します。加藤弘蔵の説は、「穢多・非人」も同じ人であって、特別な存在ではないという主張になります。(続)

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